14頁
わたしはただひたすらに、セロファンに覆われた重たいページを捲る。捲る、捲る、捲る捲る、捲る捲る捲る、捲る捲る捲る、捲る捲る捲る捲る捲る、捲る捲る捲る捲る捲る捲る捲る捲る。
ページは途切れ、指先は裏表紙の型紙を撫でて、私にアルバムの終わりを告げてくれました。
わたしは思うのです。違和感や驚愕、といったものにも似た恐怖を覚えながら、思うのです。思い、つぶやくのです。
「……犬の写真がない」
幼少のわたしらしき人物の姿。無表情でやぼったくて、世界には何も楽しいことがないのだと言わんばかりの虚無に包まれた表情。自己否定の塊。
幼少の姉様らしき人物の姿。感情の欠如した表情。機械的、あるいは昆虫のような表情。合理を求めた人間の極地。
若き父様と母様らしき人物の姿。ただ同じ場所に存在しているだけの、顔見知りとでも言わんばかりの軽薄な親密さ。家族とは思えない不確かな関係。
ページを何度も捲り、わたしはそれを探すのです。犬を探すのです。しかし庭にはそんなものの姿はなく、家の中にもその欠片すらない。
では何故それが存在していないのか。何故、それらの写真がないのか、といった単純な疑問がわたしを苛むのですけど、その答えにわたしは行き着くことができません。いや、既に行き着いているのですけど、それは結果として新たな疑問を生むだけで、納得のいく答えとはいえないのです。割り算であまりが出てしまった時のような、妙な違和感が喉のあたりで蠢きます。
だけど、それしかわたしには。
「犬は最初からいなかった?」
では何故、姉様や父様は犬がいると、いたと言ったのでしょうか? わざわざ使い古された首輪を用意してまで。
最初からそんなものはいなかったとして、何故わざわざそんな嘘をわたしにつかねばならなかったのか。ふと頭の隅で神足さんのいった言葉が思い出されます。ざわりと首筋を撫でるような嫌な感覚。
「みんながわたしに嘘をついている……?」
何故、そんな必要が?
“もし、続きが聞きたいのなら私の家に来るといい。しかし、もし来るつもりなら、それ相応の覚悟はしてもらう”
そういって彼女がわたしに何かを期待するような目で見たのを思い出します。何か、全身を品定めするような目を。
行くべきでしょうか? いや、しかし、わたしはもう“あんな話し”を聞きたくない。そうでなかったとわたしは思いたい。もしあれが本当で、わたしのそれが本当で、彼女が……東さんのそれが本当ならわたしは一体どうすればいいのか分からなくなってしまう。どう彼女に接すればいいのか。
もし、わたしがそれに気がついていると東さんが知った時、どうなるのかが怖い。彼女がどう思い、どうするのかが怖い。全てが変わってしまうような、そんな恐ろしい未来が怖い。
何かが既に崩れかかっているような気がします。わたしの何かが、音も立てずにゆっくりと、咀嚼するような鋭さで。
トントントンと姉様が階段を登っている音がしました。わたしはびっしょりと汗を掻いた自分に今更ながら驚き、辺りを見回します。既に夕暮れで、部屋は暗い。
ノックが三回。
「入るよ……って、部屋暗いね。電気、つければいいのに」
白いエプロン姿の姉様は気だるそうな微笑みで、そう言われました。
わたしは一瞬、先程の姉様を思い出して言葉に詰まるのですけど、何とか持ち直して無理矢理に声を引き出します。
「……集中、してました」
「ふうん、まあいいけど。ご飯だから下に来て」
「はい」
ああ、そうだ。そういえば、アルバムはひとつだけではなかったはず。
あの姉様の部屋にあった別の……それも大量の未読のアルバムの中にこそ犬の写真があるかもしれない、とわたしは希望にも似た何かを掴み、今まさに部屋から出ようとしている姉様に声を掛けます。
「あの、すみません」
「どうしたの?」
ドアの縁を掴み、首だけでわたしの方を見ます。
「あの、別のアルバム……あの部屋にあった他の奴を見せてほしいのです」
「イヤ」
表情の光がすうっと消えました。鋭利な刃物のような冷たい表情で彼女はわたしを見つめました。
母様は全人類をモルモットとしてしか見ていないような、そんな冷たい目なのですけれど、姉様の目はそれとは違い、もっと感情的なのですが、それは負の面に傾いているような気がします。
憎悪だとかそういう何かに。
「何故ですか?」
「イヤだから。それ以上もそれ以下でもないよ。……不服そうな顔だね。じゃあ、例えばわたしがさ、後片付けは全てわたしがやるっていう条件下で綺麗で清潔で体になんの害もないゴキブリを君の体に大量にぶちまける、と宣言したとしたら君は嫌だと思うでしょ? それと同じような感覚だよ」
「でもそれは、根底にあるものが違います。それは元々わたしに無意味で、得のないことだから嫌だというわけです。これは合理的です。でも姉様の拒否は非合理的で、理由が不明瞭です」
「ああ、アスペルガーはああいえばこういう……」
酷く冷淡な、呆れ返ったような、そんな表情で彼女はわたしに向き直しました。
「例えば、君が目の前で車に引かれそうになった時、わたしが君をかばって引かれたとしようか。それは合理的と言える?」
「……いえません」
「いえない。そう、いえないよね。そういうこともあるってこと。つまり、アルバムを見せることでわたしや君だとかそれ以外の人間が不利益を被るかもしれない場合、わたしはその人達の為に見せないという選択肢を取らなきゃいけない。君が過去の記憶について悩んでることも知ってる。前の自分の影を追いかけていることも。自分の影に囚われるよりも、前を向いて歩いた方がいいと思うの」
「あの、つまり、それって僕に何か隠していることがある……ということですか?」
この件以外にもあるのでしょうか?
「…………」
「何を――――」
「ねえ、何が聞きたいの? 答えてあげるから、言って」
姉様は冷淡な顔をニッコリと微笑ませてそう言いました。
急かすような、遮るようなそんな目で。
「あの、犬が写真に写ってないんです、どこにも。そんな欠片すらみえない。僕はそれが非常に不安です」
「犬? 犬なんて最初からいないよ」
「えっ?」
「犬の話なんて君にしたことはないよ。夢でも見たの?」
「そんな……だって。確かに首輪が」
「んん、何か勘違いしてるんじゃないかな。そんな事実は存在していないよ。この家で動物は飼ったことはない。変なことをいうのね。さあ、ご飯が冷めちゃうから下に行こう。先に行ってるよ? 早く来てね」
「あっ……」
言葉を遮るように姉様はそう言い切りました。議論の余地を挟ませない、そんな背中が見え、扉の向こう側に音と消えてゆきました。




