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階段をトントントンとテンポの良い音が刻みます。私はそのまま手すりを掴みながら、自分の部屋へと向かいました。二階の廊下から見える外の景色は淡い黄金色の空気に染まっていて、昼から夕焼けに変わる前の美しい景観をわたしに見せてくれます。まさにそれは一瞬の瞬きでした。きっとこの季節の、この日の、この一瞬にしか見られない美しさなのです。
わたしはドアノブを捻ります。かちゃりと音がして姉様が部屋から顔を出しました。赤く腫れた顔を見せては不味いので即座に顔を部屋に入れました。
「おかえり」
「たったあ、ただいま」
「遅かったね」
「……ですか?」
「ですよ?」
「お、お夕飯ができたら呼んでください」
「いつも呼ぶ係は君でしょ? それに今日はお母さんいない日だよ……ってそっか、君は何も憶えていないんだっけ。あのね、今日はお母さんは里帰りの日なんだ。数日は帰ってこない。お父さんはお偉いさんとゴルフがどうとかで帰ってこない。だから数日はわたしと君だけで家を切り盛りしなきゃいけない。どうする? なんか作ろうか? それとも、外食にする?」
「変なものが混ざってない手料理がいいです」
姉様は普通の料理ができるのです。ですけどれど、これを混ぜたらどうなるのか、新しい何かが生まれるのではないだろうかなどと危険なことを考えて、それを実際に試してしまう人で、主にそれを食べさせられるのはわたしなのです。それにわたしがどれほど苦しめられたか彼女は分からないでしょう。
ええ、ちゃっかり自分用に普通の料理を確保しているのですから、分かりたくても分からないのです。
「ワガママ」
「至極、普通の要求です」
「分かったよ、じゃあできたら呼ぶね。ああ、それとさ……」
「ありが……え?」
「何でそんなに汗臭いの? 顔、傷だらけなのは何でなの?」
胸の奥が強く鳴りました。気がつけば彼女はわたしの後ろに立っています。声の位置、雰囲気と息遣いで分かりました。
「またイジメられたの?」
「…………」
また? また、とはどういうことでしょう?
何を、彼女は、知っている?
「何で顔、さっき隠したの? 何でそんなに汗臭いの? こっち向いて、ねえ」
「…………」
「黙ってたら、わかんない。ああ、そっか。抱かれてきたの? あの東さんって子に」
「それは、違うます」
「違うます? フフッ、変な言い方。でもさ、その言い方って、東さんに抱かれたのは違うってことだよね。ふうん、そっか、じゃあ神足の小娘に抱かれたんだ。あの子、そういう子だったんだ。これはちょっと、予想外かな」
肩に両手が置かれました。わたしはどきりと体をはねさせます。
姉様はそのままわたしを押して、強制的にわたしを前へと進ませました。
「殴られて、動けなくなったところを犯されたの? それとも犯したから殴られたとか? いや、君はそんなことはしないよ。わたしが一番よくそれを知ってる」
スンスンと姉様の鼻がわたしの首筋を行き来します。
「唾液の臭いだ。それにキスマークがいっぱい。よくこんな恥ずかしい印つけたまま外歩けたね」
「あの、あの」
「何をそんなに怯えてるの? 別にとって喰おうってワケじゃないよ。ただね、ただ少し、気が狂いそうなほど嫉妬してるだけ」
「しっ、と?」
「うん、嫉妬。あるいは憎悪。もしくは憎しみ」
いつも気だるそうに笑っている姉様らしくない発言です。何に対して嫉妬しているのでしょう。何に対して憎しみを?
わたしに?
彼女は肩においた手をそのまま滑らせるようにして纏わりつかせました。痛いくらい、爪に肉が食い込むほどの力でわたしを抱きしめます。
「あ……いっ」
「何も聞かないから、少しだけ、少しだけ許して」
「わかり、ました」
「……ありがとうね」
体が震えています。息を詰まらせるような唸り声。獣の低くわななく声。
ふうふうと息を切らした声が後ろで聞こえます。ギリギリと歯をくいしばる音。彼女の体温がどんどん高くなっていくのが背中越しに伝わります。ポタポタと滴る唾液がわたしの肩と首筋をぬるりと汚し、服に重い染みを作るのですが、わたしは耐えます。
恐怖に耐えて、恐ろしさに目をつぶり、狂気に口を噤みます。普段の姉様以外の何かに。何かを。
不意に髪の毛が鷲掴みにされました。人とは思えないような力で壁に押し付けられます。肺から空気が無理矢理に引きずり出されたかと思うと、俯き、どこか陰った表情の姉様が涎を滴らせながら、近づき、わたしの頭に爪を立てながら舌をねじ込んできました。
わたしは恐怖のあまり、自分でも些か大げさではないかというくらい体中を震わせるのですけれど、姉様は焦点の合っていない目で、ただ肉を貪るように粘膜を混ぜます。ボタボタと唾液が服に、あるいは足元に溢れるのですけれど、彼女は表情を変えません。
ただ手の位置を首元に移動させるだけ。移動させて、少しづつ力を込めていくだけ。
「一人は嫌」
「…………」
「誰もまともに笑わないこの家で一人は、嫌」
「…………」
「わたしも笑えない。作り笑いはいくらでもできるのに、まともに笑えない。母さんと父さんと同じ。君がいないとわたしは笑えない。安心できない。君がいないだけで怖くて怖くて、恐ろしくて恐ろしくてしょうがない。だから、いなくならないで。わたしを見捨てないで、一人ぼっちにしないで、お願いだから」
ぶつぶつと彼女はそういいます。焦点のあっていない瞳で、金色の太陽の光に鈍く頬を照らされながら、わたしに。
殺意の篭っていない手は、昆虫のような冷酷さを見せながら確実にわたしを死へと向かわせています。白く細い手は確実にわたしを死へと。
顔が重い。喉の動きが小さい。血管が破裂しそう。
「好きだよ」
「…………」
「ふふっ、何もいってくれないんだね。何も答えてくれないんだね。ああ、だからこそ……」
手は不意に離されました。わたしは壁に背をつけたままズルズルと床に尻餅をつき、ゼイゼイと息を吸いました。
姉様は雑に自分の口を手で拭うと、髪を掻き上げ、いつもの気だるそうな笑みを見せて笑いました。どこかぞっとしたのは気のせいではないのかもしれません。
「約束だから、聞かないし、何も言わない」
「は、い」
約束どおり彼女はわたしを開放しました。
でも。でも確実にわたしに呪縛と呪詛の言葉を彼女は吐いていった。そうわたしは思いました。




