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風の音。泣き声。
土埃の臭い。わたしの咽び泣く泣き声。
汗の臭い。肩で息をする彼女の汗の臭い。
胸を上気させて手についた液体をねぶる彼女の息遣い。わたしの閉じるような泣き声とは違う色合いの鳴き声。
「あの興梠が私で……私で」
「うーっ、うーっ……!」
「泣くな。まるで、これじゃ……私が悪いことをしているみたいじゃないか」
震えている。わたしとは違う震え。
「家に、帰りたい」
「あの、呪われた家にか? 家族全員が感情の欠如したあの家に? 帰ってどうする……? 私なら、私ならお前を……」
「か、か、か、帰りたい……です」
ぎりりと彼女は歯を鳴らせました。キッとわたしを睨みます。
「お前はっ! お前は私が最初に目をつけたんだ! この私がっ! 逃がすものか! なのに、何故。何故、御前は! ……そうだ、御前は最初から八瀬の倅のような由緒ある家柄のものを迎えればよかったんだ。興梠のような半端者はあの方には相応しくない。そうだ、だから私がそうすれば、高貴な血を汚すこともない。ああ、これは主人のためだ。主人のために……」
彼女はそういって一人ぶつぶつと何かを呟きました。わたしは端っこに逃げて首輪を外そうと試みるのですが、手がブルブルと震えて力が上手く入りません。
カシャカシャと金属の擦れる音がするだけ。手に錆の色が移るだけ。
ぐっと首が引っ張られたこと思うと、ずるずると体が地面の上を滑っていきます。スラリと伸びた細い腕で彼女がわたしの鎖を自分の元に寄せています。
それはまるで、蜘蛛が獲物を自分の元に引き寄せるかのように。
埃にまみれたわたしの頬を神足さんはそっと撫でました。
「興梠、お前、御前に犯されたいか?」
フルフルと首を振りました。
「そうか、残念だな。あの方はお前を犯したくてしょうがないようだぞ? あの女性は家の方々は代々、色狂いの気があってな。聞くところによると好いた男を攫ってでも“こと”に及ぶそうだ。どうだ、そうなりたいか? ……そうか、なりたくないか。なりたくない。お前は御前じゃダメなんだな? ……じゃあ、じゃあな、わ、わたしがお前を貰ってやる。お前の血も肉も、髪の毛一本残さず私が!」
「あ、あ……」
「イヤとはいわせんぞ。お前が始めたんだ。お前が私を狂わせたんだ。お前が忘れても私は忘れちゃいない! クラスメイトがざわめく音の中、お前が私のハンカチを拾ってくれたんだ。私には似つかわしくない少女趣味のハンカチを、お前が。私はお前に恋をした。無愛想な私と無愛想なお前ならきっと上手くいくと私は心を踊らせた。お前の時折、見せてくれる可憐な笑い声が大好きだった。お前と隣になった時の私の喜びが分かるか? いつも寂しそうなお前をどれほど私が抱きしめてやりたかったか、わかるか? なのに、それなのに……その後、御前がお前に惚れた。理由は知らない。言っていたかもしれないが、耳に入ってこなかった。ただ事実を呪ったさ。……そして叶わぬ恋だと諦めた。
全てが崩れた音がしたよ。生まれて初めてあの時、自分の主従関係を呪った。今まで誇らしかったものが煩わしく思えた。お前が隙を見せてくれるのは私だけのはずなのに、全て上手くいってるのに、何故あの方は水をさすのだろうと。
ああ、私は何を言ってるのだろうな。だけど何故だろう。凄く心がすっきりする。ははははは、なんてことはない。私は御前に嫉妬してたのだな、それを認めたくなくてただ冷静を装い、お前に辛く当たった。これが私の正体だったのだな、本当の私だったのだな。…………私の澄ました顔の内側に巣食うのもまた、鬼だったか。なあ、興梠、知っているか? 人が鬼になることを生成りというそうだ。私はあの日、あの時から鬼になっていたらしい。お前を見捨てたあの時から」
神足さんは立ち上がると泣き笑いのような奇妙な表情を作り、腹を抱えて笑いました。片方の手で目元を押さえ、もう片方の手でお腹を押さえています。
溢れ出る感情を抑え込むように。
一方、わたしは酷く混乱していました。
何故、彼女がそのエピソードを語るのだろうと。だってそれは東さんがわたしに語ったエピソードだったはずです。わたしを……その、好きになったというエピソード。
彼女も同じ体験をした? いや、そんなことはないでしょう。
では、何故?
「はははは、どうしてだろうな。もう、何が何だか分からない。お前をここに連れてきた時は使命感のようなものが確かにあった。だがな、お前が身動きせず動かないのを見ていたらな、変な感情が湧いた。私の中のほの暗い奥底から奇妙な声が聞こえた。御前は眠っている、コイツも眠っている。何をしても誰も騒がないし、見ていない……なんていう醜い感情が。卑しい声が。笑ってくれよ、御前のためと息巻いてる女が、気がついたら自分の股をまさぐりながら、眠りけこけているお前の体を触っていたのだから」
この人は、危ない。何かが、圧倒的に何かが足りないのをわたしは感じました。
人として大事な何かが砕けて戻らない。戻ることができないのだと。
「かっ、帰りたい」
「…………そうだな、今日は帰さなければ不味い日だからな」
彼女はふうと息を吐くと、いつものような冷淡な表情に顔を変え、ポケットからツルツルとしたおうとつの少ない鍵を出しました。感情の篭らない声で「上を向け」とわたしに指示し、首輪を外します。
おっかなびっくり自由になった首を片方の手で撫でていると、彼女はわたしを後ろの柱に押さえつけました。首筋を粘ついた舌ベロと唇が、あ、ふ、ゆっくりと行き来、します。
わたしはまた怖くなって泣き出すのですけど、彼女はそうする度に顔を赤く染め上げ、ぎらついた目でわたしを見ました。
わたしが止めてと言おうと、何度も口を開いたり閉じたり繰り返していると彼女は顔を持ち上げ、真剣な目でいいました。
「なあ、教えてくれ。どうして、お前と御前は急に仲を深めた? 私の知っている、お前は全てに無関心で、滅多なことでは笑わない。自分のことも語らない、無口な奴だった。人に興味を持てないような奴だった。お前の笑い顔を見るために私は随分と時間を費やしたんだ。なのに、何故……?」
わたしは答えようとして口を噤みました。言っていいのだろうか、と。彼女を傷つけないだろうか、と。
誰にも迷惑を掛けないだろうかと。
そんなことを考えていたはずなのに、気がつけば言葉が口から溢れていました。わたしはわたしのことが知りたくて、わたしが正しいのか知りたくてその答えを求めました。
それはきっと東さんの語る、“過去のわたし”の話しが今のわたしを形成しているからなのです。何もない空っぽのわたしに授けられた何かだからです。
ここ数日の間に彼女はわたしについて周り、昔のわたしのことを聞かせました。どんな食べ物が好きで、帰りにどんなものを買い食いしたかだとか、そんな些細なことをです。わたしの嫌いな教科や、わたしの好きな教科のエピソード、そんな小さくて些細なことです。
昨日の朝も、昨日の帰りも。
なのに。
「くっ……はははははっ、ありえない! その話しの半分は作り話だ。そして残りの半分は私とお前の話しで、御前とお前の話しじゃない。…………ああ、そうか、御前は私が興梠に惚れていたことを知っていたのか。知っていて…………私から奪ったのか。なんて、なんて酷い人なんだ」
それは無意味だった。意味をなさなかった。
わたしの喜びも、悲しみも全て、意味をなさなかった。
立ちくらみのような違和感が体を突き抜けました。わたしはわたしが思うよりもそれを心の拠り所にしていたのだと今、気がつきました。気がつかされました。
吐き気がします。醜悪さに。
気分が悪いです。心の醜さに。
光の失われた目がわたしを見つめ、声を発しました。
「なあ、興梠。酷い話しだろ。私からお前を取り上げて、お前から希望を取り上げて。次は私らから何を取っていくつもりなのだろうな、あのお方は」
「あ、あ、あ、あなたが嘘をついてるかもしれない」
「そう思いたければ思え」
「あ、あなたが僕を騙してるのかもしれない」
「そう思いたければ思え」
「あなたが、あなたが!」
「私もそう思いたいよ」
彼女はどうして笑うのでしょう? 何故、笑うのでしょう。
こんなにも悲しいことなのに。こんなにも辛いことなのに。
わたしは何故、泣いているのでしょう。
こんなにも滑稽なことなのに。こんなにも怒り狂いそうなことなのに。
誰かわたしに変わって教えてください。
わたしは誰を恨んで、誰を憎み、どうすればいいのか。
誰か。
「ひとつ、話しを聞いてくれないか。興梠」
彼女はそういってわたしの方を見ました。




