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トボトボと休日の昼間から道をぶらついているのは何故でしょう。姉様に東さんの家にいくと答えたら見たこともないような美しい笑みで舌打ちをされ、長時間に渡って口付けをされたのは何故でしょう。わたし、自分が悪いことをしたとは思えないのですけど、やはりわたしが悪いのでしょうか。
そんなことを考えつつ、わたしは「だいたいこの辺」と描かれた簡素な地図を片手にトボトボ道を進みます。川原の緩やかな曲線を進み、すっかりと緑色に染まった桜並木を抜けた先の長い長い坂を越えたところにその家はありました。
特別大きいとはいえません。かといって小さいとはいえません。ただ分厚い門構えから東さんの家がお金持ちだということはよく分かります。武家屋敷のような門の隅に小さなインターフォンが備え付けられています。わたしはそちらに寄り、緊張を落ち着けながらそっと指を……。
『わあっ!』
「っ!?」
急にインターフォンのスピーカーから聞こえた声にわたしは驚き、その場で息を止めました。まだわたしはボタンを押していないのですが、一体どういう事でしょう。
『あ、びっくりしたあ? ほら、上……そそ、そこにカメラついてるでしょ? そっから君が緊張して五分くらいじっとしてるのが見えたからさ。あ、いま扉開けるよーん』
「…………」
少し恥ずかしいです。わたしがここらへんでずっと固まっていたのを彼女は見ていたということなのですから、それはもう。
カタンと音がしてマトリョーシカのように大きな門につけられた小さな門が開きました。へへっと笑いながら彼女がそこから首を出しつつ、チョイチョイとわたしを手招き。わたしは誘われるがままにそちらへと足を運び、門扉を潜りました。石畳の上を歩きつつ、周りに目を運ばせます。
「どう?」
「え?」
「今、うちの庭見てたじゃん? 自慢の庭だからさ、どうかなと思って」
語彙の少ないわたしにはそれを表現する言葉が見つかりません。だからわたしはシンプルに思ったことを口走りました。
「綺麗です。凄く」
「うむ、よろしい! して、ちみ」
「はい」
「拙者の服装を見て何かいうことはないのかね?」
「えっと……」
今一度、彼女の服装に目を向けます。ふふんと両手を組んでふんぞり返っている東さんは模様の少ない、緑色の着物をお召になっておられます。緑というよりも黒に近いかもしれません。
わたしはフルに脳を働かせて考えます。姉様が下着を見せに来たとき、普通と答え、がっかりされた顔を思い出しました。だから、多分これで大丈夫。
「凄いです」
「……んん、なんか答えが変だけど好意的に捉えておこうかね! ささ、入られよ、お客人!」
くるりと身を翻し、彼女はガラス戸を開きました。普段セミロングの髪型が頭の上で纏められていて、うなじがちらりと顔を覗かせます。
「ん、どうしたの?」
「いえ、別に」
ぽっかりと口を開けた玄関にわたしは足を滑り込ませました。
「あの、それで僕はなんで呼ばれたのでしょうか」
わたしは勇気を振り絞って、彼女に問いかけました。彼女は羊羹をパクリと口に放り込み、モグモグと咀嚼させ、飲み込んでから答えます。
「ああ、さっきから妙に緊張してたのはそのせいかね」
「かもです」
「私が君と話したかったから、じゃダメかな? それ以外は特にないんだけど。っていうか、この栗羊羹ウマすぎじゃない? 母ちゃん、あたしにいつもテキトーなお菓子しか出さないくせに、客人にゃこんな旨いの出してたのか……」
「…………」
平たい楊枝を使いまた口に運びました。甘いと言いながらお茶を啜り、ニコニコと微笑みました。
東さんの和やかな雰囲気に反して、わたしは少し居づらさを感じました。というのも、ここは彼女の部屋なのです。いたるところに東さんの香りや印のようなものがあって、緊張します。少し頭が重いです。
「あの、お母様がいらっしゃるのですか?」
「んんー? 誰もいないよ」
「誰もいない?」
「うん、今うちのおかあちんは遠い遠い離れ小島へと里帰り。あたすは学校があるので、居残り。んで料理とかできないからさ、美雪にやってもらってんの」
「では今はお父様と神足さんと二人で?」
「んー、とうちんはどこにいるんだろ? たまにおかあちゃんが捕獲してくるけど、よく分かんないや」
「…………」
どうやら東さんにとって父というものはそのへんで捕れるような生き物を指すようです。わたしがもう少し、表現を厳密にして訪ねてみようか考えあぐねていると彼女は羊羹を楊枝で崩しながらいいました。
「それに両親がいたら君を犯せないじゃあん」
ぱくりと一口。わたしは羊羹へと伸ばしかけていた楊枝をピタリと止めて顔を上げました。
今、なんと彼女はいったのでしょう。犯せない? 犯すの意味は、流石にわたしも理解しています。でもそれはつまり、無理矢理に相手を……ということではないのでしょうか。
「あの……それってどういう」
「どういう意味もないよ。隅に布団たたんで置いてあるでしょ? あの上でくんずほぐれつするのさ。主に性的なことをね」
ニコニコ笑いながら彼女はお茶を飲みます。わたしは彼女なりの冗談なのかと思い、きっとそうだと勝手に決めつけました。いつの間にか羊羹をかたした彼女は「よっこらせ」と体を持ち上げ、トコトコと畳の上を歩き、隅に向かうと布団を敷きました。わたしが楊枝を咥えたまま呆然とそれを見ていると彼女は言います。
「私ねー」
「は、い」
「腕枕が好きなんだー。だからね、枕いらないよね? あ、でも君が枕使うかなあ?」
一応置いておこうと彼女は独り言のようにいい、枕をひとつ雑に布団へ落とします。わたしは怖くなって震える足を立たせて――。
「どこいくの?」
「あの、ご馳走様でした」
「恥じかかせないでよ」
手を掴まれました。酷く汗ばんだ手がわたしの手首を掴んだのです。
「ねえ、わたし君のこと好きだよ」
「…………」
「君がさ、お姉さんに私のこと聞かれて好きでも嫌いでもないって答えたとき、凄く悲しかった。あの後、たくさんたくさん泣いたよ。おかしくなりそうなほど、嫉妬した。君のこと、好きで好きで好き過ぎて頭がおかしくなりそうなんだ。君がさ、無表情の君が笑った時のあの可愛らしい顔が好きだよ」
ぐるりとダンスを踊るようにわたしは彼女の方向を向かされました。
わたしは無言を通し、東さんから目を逸らすのですけど、彼女は言葉をやめません。
「ちょっと体触っただけで凄くくすぐったそうにするのも好き。子猫って感じでさ。ぼうっとしてる時の君も、笑いを堪えてプルプルしてる君も、驚いた時の君も、優しい君も、全部全部好き。凄く可愛くて、ぎゅって抱きしめたくなる。君と……したい。君が全部欲しい。それじゃ、ダメ?」
「あっ、あっ、あっ」
「凄い震えてる。心臓がバクバクいってる。あたしも君も。ねえ、だめ?」
頬を優しく、でもどこか煽るように彼女はべろりと舐めました。わたしは必死に羞恥に耐えて、彼女から目を逸らします。きっと彼女の目をみたらダメになる。そんな気がします。
引き込まれるような、そんな気が。
「私ね、処女じゃないんだよ。初めての相手、誰か知ってる?」
首をゆっくりと振ります。抱きしめられた腕の中で、ブルブルと震えながら。その答えをわたしは知っている。いや、分かっている……だけど、ですけれど。
彼女は布団にわたしごと倒れこみいいました。
「最初の相手は、初めてを私から奪ったのは…………君。この意味、分かる? いくら鈍い君でも分かるよね。それがどういう意味で、私たちがどういう関係だったのかって。だから悔しくて、嫉妬してたんだって」
「うっうっうう……」
そ、それは、前のわたしで今のわたしじゃ……あ。
顔が固定されます視線が交差します瞳がわたしを覗きわたしが瞳を覗き彼女の首は横に傾き、閉じられた瞳はゆっくりと這うように、閉じられた唇はゆっくりと這うようにわたしにわたしにわたしにわたしにわたしにわたしに。
わたしへと。
彼女にとって私は。




