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空を仰ぎみれば何かが浮かぶような気がした。
しかし何も浮かばず、ただ時間は過ぎ去り、初夏の風が頬を撫でる。わたしは何度目になるか分からないため息をフウと吐き出し、眩い空にガラスを隔てました。
つまり、窓を閉めたわけでございます。
おぼつかない足取りでベットから室内の地面に足を下ろします。フローリングの床は少しばかりひんやりとしていて、心地よい。
勉強机しかない空虚な部屋をそろりと出ると、ちょうど姉様が部屋から出る所でした。姉様は気だるそうないつもの表情を三倍ほど気だるそうにして目を擦りました。
姉様は学校指定のジャージといった感じの寝間着姿で、普段はストレートの髪を今はゴムで縛り、お侍様のようにマゲをお生やしになっております。
「おはよう」
「……おっ、おはようございます」
くぐもった声でわたしは返事を返しました。今の言い方は変だったかな、というような焦燥感がぞわりと首筋を舐め上げるのですけれど、姉様は特に何もいわず、ただわたしを抱きしめました。
「あっ」などと女々しい声を上げたのはわたしで姉様は終始無言。身を固まらせて緊張しているのはわたしで姉様は終始やわらかい。
優しい香りが鼻をかすめます。
「低血圧だから、ちょっと、こう、させてね」
「は……い」
やわく姉様はわたしを抱きしめ、汗ばんだ匂いをわたしに染み込ませる。でもわたしはそれをおかしいなどとは思わないのです。何故ならそれは日課で当たり前のことで、わたしが今までもしてきたことだから。
だから、姉様の接吻をわたしが拒むはずがなく、教えられた通りに舌を返すのです。姉様の口内は酷くねばついていて、熱く、気だるそうないつもとは違いとても貪欲でした。
唇が離れ、目を瞑っていた姉様は二重の瞼を開かれました。そして今一度私の体を抱きしめると小さくありがとうとおっしゃいました。
わたしは人に触れられるのは苦手なのですけれど、そんな無礼なことは容易に言えず、言うよりも言わない方が失うものが少ないだろうなどと浅はかにも考えているのです。
「本当は……嫌なんでしょ?」
「そ、そんなことないです」
姉様は勘がとても優れていらっしゃいます。
わたしは姉様の気だるそうな笑みからそっと顔をそらしました。これで嘘はバレません。
「いつも体を固くさせてるから、分かるよ。……それに、そう。ストレス感じると体を前後に揺らす癖、あるしね」
「その、あの……」
「大丈夫、人は常に過去をオウものだから」
そう姉様はいい切ると、わたしを過ぎ去り、一階へ降りる階段へと消えてゆきました。
わたしはただその場で固まり、冷や汗を拭うのです。
朝食を食べ終わり、いそいそと外に出たわたしは静かな朝日を浴びつつ道路の隅を歩きます。
時間が早いからでしょうか、辺りに人らしい人はおらず、雀の鳴く声だけが耳に届きます。まだ眠っているかのような早朝の香りは嫌いではないのですけれど、いろいろな感情が素直に喜ばしてはくれません。沢山の教科書が入った鞄を肩にかけているのですけれど、心の重さはそれを上回り、ただただ辛辣な表情をわたしに望むのです。
つまり朝から鬱気とした気持ちなのでございます。
わたしが赤信号を前にして早朝の空を眺めていると、どなたかが私の頬を後ろから撫でました。女々しくわたしは「ヒャア!」などと声を上げ、後ろに体を強ばらせながら振り向きました。
「車なんて一台も通ってないのに、信号待ってるなんて律儀だねー」
クラスメイトの東さんでした。彼女はニコニコと笑いながらわたしの頬を撫で続けます。
わたしの頬は自覚できるほどに赤みが増し、額には汗が浮かびました。羞恥心です。恥ずかしいのです。
「あ、の、手、やめて……ください」
「やーよ」
猫を思わせる微笑みで彼女はにっこり笑い、頬から首筋にかけて、それをこそ子猫をあやすように撫でつけました。わたしはその間、信号が青になったことも忘れ、涙を目尻に浮かべつつ、女々しい声を上げながら悶えておりました。
やっとのことで開放され、私はゼイゼイと息を切らします。張り詰めすぎたせいか首筋が痛くなってしまいました。心を落ち着けるために深呼吸と体側……つまり体の側面に手を当てて指をカタカタと揺らしました。体を揺すったり、手を開いたり閉じたりと非常に心が安らぐのです。
「うひひひ、めんこいのう」
そういって東さんはにやりと笑いました。わたしはまた何かイジワルをされるのではないかと気が気でなかった為、青になった信号を逃げるように抜けました。当然彼女もついてくるのですけれど、無視です。無視でございます。
「今日はねー、神足と一緒じゃないんだよ。珍しいでしょ?」
「…………」
わたくし、怒っているので無視です。
「今日は……いや、今日もかな。まあなんかさ、元気なさそうだったけど、また何かあったのかい?」
東さんは勘が鋭いのです。わたしはドキリとして少し歩みを遅らせてしまいました。
彼女は優しそうな瞳でわたしを見つめた後、半ば独り言のように口を開きました。
「まあ、想像は何となくつくけどさ、しょうがないんじゃないのかな。それに今更どうしようもないって」
「それでも……それでも僕は常に自分を目で追ってしまうのです」
「だからみんなに声をかけられても、何を言っていいか分からなくて固まっちゃうんだね」
「申し訳なくなるのです。以前の僕は一体、どういう人間で、どういった感じで人に触れていたのだろうと。明るく声を返していたのか、静かに声を返していたのか。それを必死に考えてしまって、パニックになるのです」
「まだ家族と慣れてないんだね。いや、世界中の人間とかな? 君を知っている人は沢山いるけど、君は一人だもんね。…………記憶喪失って意外と大変なんだね」
記憶喪失。記憶を失うこと。
わたしの最初の記憶は病院の消毒液の匂いから始まりました。目を覚ますと窓辺の席に気だるそうな女性が座っていて、わたしに微笑んでくれました。彼女は嬉しそうに名前らしき言葉を発したのですけれど、それはわたしには覚えがない名前。知っているけど知らない言葉。唐突な違和感と拒絶反応を前にわたしは過呼吸を起し、やって来た医師によって鎮静剤で眠らされました。
人は記憶、過去という蓄積からパーソナリティを作り上げるそうですが、記憶喪失のわたしにはその蓄積というものがありませんでした。なくなっていたのです。からっぽだったのです。テレビやペンだとか物の記憶は残っているというのに人だとか、それに関することになると全く思考ができない。
つまりそれは身を削ぐような孤独感、身を削ぐような喪失感でした。
ポニーテールの気だるそうな女性は優しくわたしに気にしなくていいというのですけれど、きっとその優しさは前のわたしに向けられたもので、今のわたしに向けられたものではないのです。それがただひたすらに辛かった。世界中がわたしと延々と距離を置いているようで。
わたしの父と名乗る男も母と名乗る女も、わたしにとっては初めて見る人で、治ってよかった微笑む言葉が痛かった。
学校の友人も、朝声を掛けてくれる老婆も、自分の部屋も、ノートも全てが初めて見るもの、感じるもので、ただ今存在するわたしを邪魔だといっているようにしか思えませんでした。
それからわたしはわたしに成り切ることもできず、溶け込むことも、また開き直ることもできず、ただ陰鬱に今日まで生きてきました。
今日の朝も。きっとこれからも。
「私のことも忘れちゃうんだもんね、ひどいよ」
「…………ごめんなさい」
「私のことだけは覚えてくれてた……なんてドラマチックなことは現実じゃないもんだねえ」
彫りの深い顔を上げて、彼女はヒャッヒャと笑いました。わたしは何だか申し訳なくなって小さく萎縮です。そんなわたしの肩を彼女は「気にすんねぇ」と江戸っ子口調でポンポン叩いてくれるのですけれど、気にしないなんてことは無茶というものです。
「それで、今日は何があったのさ。ほれ、お姉さんに話してみー?」
にっと笑う彼女の表情にほだされて、わたしは今朝の記憶を再生させました。




