僕のかわいいぬい
ふわふわのオレンジの毛を靡かせ、キラキラした瞳でこちらを見つめてくる。
僕が子供の頃から大切にしている柴犬のぬいぐるみ、きなこ。
高校生にもなる僕が、こんなぬいぐるみを可愛がっているなんて、学校の奴らに知られたら、間違いなく僕の人生最大の黒歴史となるだろう。
絶対に、誰にもバレるわけにはいかない。
僕はただ、可愛い物が大好きなだけの、至って普通の男子高校生だ。
その中でも、特に柴犬が大好き。
けれど、家はペット禁止の賃貸マンションだから飼うことはできない。
そんな僕にとって、きなこは日々の癒やし、いや、もはや大天使だ。
学校から帰宅し、いつものように、手を洗うと、自分の部屋に急ぐ。
ドアを開け、ベッドの上にちょこんと座るきなこを確認する。
「ただいま〜、きなこ」
いつものように抱きしめ、その愛らしい顔を覗き込む。
「ん? 何だこれ? 誰の仕業だ?」
きなこの口周りに、クリームがベッタリと付いている。
ありえない! 僕は、少しでも長くきなこと一緒にいたいから、取り扱いには細心の注意を払っているのに。
触る前には必ず手を洗い、いつもきれいな場所に置く。
服にだって汚れがないかチェックしている。
とにかく、拭いてあげないと。
ぬいぐるみ用洗剤を薄めたものをタオルに染み込ませ、そっと口周りを拭いていく。
決して擦らないように、慎重に。
ぷるぷるぷる……きなこの小さな体から、微かな振動が伝わってくる。
不思議に思っていると、少し低めの、けれどどこか力の抜けたような、おじさんのような声が響いた。
「ぎゃーはは、もうやめてくれ!くすぐったい」
僕は、慌てて辺りを見回し、その声の主を探す。きなこと目が合った。
ま、まさか。こんなに可愛らしいきなこが、まさかこんな声で……いや、ありえない。
絶対に、何かの聞き間違いだ。
もう一度、きなこを見つめる。今日も、つぶらな瞳で僕を見つめてくる。
ほらね……え? 今、確かに動いた? 視線を逸らしたような?
「そんなに……そんなに見つめるなって! 照れるじゃねぇーか」
「ぎゃー!」
僕は、意識を失った。
目を覚ますと、いつも通りの愛らしいきなこ。
なぁんだ、夢か……。
「おっ! 目覚めたか? 急に倒れるから心配したぞ」
少し低くおじさんみたいな声で、きなこが話しかけてきた。
いやだ……。きなこが動いたら? 話せたら? なんて想像した事はあった。
だが、その声は想像していたよりもずっと低く、まるでどこかの疲れたおじさんのようで、可愛らしいきなこの外見とのギャップに、喜びよりも戸惑いが押し寄せる。
夢で終わってくれ、と心の中で叫んだ。
そんな僕の気持ちを置き去りに、きなこはちょこんと座ったまま、こちらを見上げてくる。
「腹が減ってな。何か食い物もらえないか?」
声もそうだが、そのぶっきらぼうな口調も、僕の理想とはかけ離れていた。
僕が想像していたのは――
「お腹空いちゃった。何か食べたいな」
――みたいな、かわいい感じだったのに。
声と口調のせいで、ぬいぐるみが話して、動いている事への驚きは薄れ、不思議と恐怖は感じなかった。ただ、強烈な違和感だけが残った。
「食べ物って言ってくれる? それに何か食べたんじゃないの? 口周り汚れてたし」
「そこにあった食べかけのパンをな。だが足りん」
可愛くないなぁ……見た目はあんなに天使なのに、中身は枯れたおじさんみたいだ……などと思う。
「食べたら口周り汚れちゃうからダメだよ!」
「拭けばいいだろ! それより腹減って動けねぇんだよ」
「僕のかわいいきなこがボロボロになっちゃうでしょ!」
「かわいいきなこ?」
首を傾げるきなこ。
その仕草だけは、信じられないほど可愛い。
などと思っている僕を他所に、きなこは、とてとてと短い足で歩き出し、部屋中を見回して、鏡を見つけた。
鏡に映る自分の姿を見て。きなこは目を丸くした。
「な、なんだ? これ?」
「自分の姿、初めて見たの?」
「んなわけあるか! 毎朝欠かさずチェックしてたわ!」
「じゃあ、何をそんなに」
「俺は人間だったはずだが、なんで、こんな、ちんちくりに!」
今、何か聞き捨てならない言葉が聞こえたような。
「はぁ?」
「だから、俺は人間だった。目覚めたら、こんな姿に……」
「いや! そこじゃなくてさ。ちんちくりんって言った!? 僕の大天使のこと?」
「え? そこかよ? そんな事より飯だ! 飯!」
「重要な事だよ! 食事貰えなくてもいいわけ?」
「おいおい。脅す気か? そりゃあ、立派な虐待だろ」
「虐待? それを言うなら、貴方は不法侵入だよね? 僕のきなこの体に!」
「……不法侵入って。俺の意思じゃねぇんだって……」
「じゃあ、出てってくれる、きなこの体から」
「……できるなら、今すぐそうしたい。だが、どうにもできん」
おじさんのお腹が、ぐぅ~、と盛大に鳴る。
「あの……腹減って死にそうだ。頼むから、何か恵んでくれ……」
僕は、必死に頼み込むおじさんを無視して、カバンから宿題を取り出し始めた。
………………
沈黙の中。
おじさんのお腹の音だけが、まるで抗議するように、時々、響く。
ぐーーぐぎゅるる。
おじさんは、意を決したように僕の目の前に立った。
そして、そのつぶらな瞳を潤ませ、短い手足を一生懸命使って、精一杯の可愛らしい声とポーズで。
「お腹空いたきな。ご飯ちょうだいきな」と言った。
…………かわいい!!
僕は負けた。きなこのかわいさに。そして、そのギャップからくるおじさんの必死さにも、僕は抗えなかった。