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第二章 瑠衣ど田舎の村に来る

ダブル不倫の末、家を出ていった両親。取り残された結城瑠衣は祖父母のところに行く。


 身の回りの物を詰め込んで瑠衣は電車に飛び乗った。一人で行くのは初めてだったが、場所はわかる。

 祖父母は温泉旅館を経営している。といっても田舎の小さな温泉宿で住み込みの仲居が一人に板前が一人、たまに通いで手伝いの仲居が来る程度のひなびた温泉旅館である。

 風光明媚な光景が広がっている。穏やかな田舎だ。それなのに瑠衣は少しも気が晴れない。ここに来れば何かが変わるかもしれないと、家を飛び出してきたが、荷物だけでなく心まで重くなる。祖父にはすでに母親のことを話してある。ここにきて何をして欲しいのか、母親に戻ってくるように説得してほしいのか、それとも自分の手助けをして欲しいのか。瑠衣はここまでやってきてまだ自分の状況を受け入れられなかった。

「暗いよな」

 街を見回して思わず呟いた。ここはこんな澱んだ空気だったか、妙に寒気がするのは何だろう。

「何しているんだ。入っておいで」

 何時までもぐずぐずと家に入ってこない瑠衣に結城源五郎は声をかける。傷心の孫を気遣っている。

「あのさ、ねえ、温泉街って雰囲気、変わったね」

「そうか、今年の春に一軒、宿が潰れたが、それ以外たいして変わっとらんぞ」

「そうかなぁ」

 瑠衣はぼんやりと温泉街を見渡した。

 山あいに数件の温泉宿があり、土産物屋もあるのだが、夏休みも終わり、秋の行楽シーズンといってもそれほど賑わっているとは思えない。秘湯ブームのときは人手が足りないと、夏休みや正月などのハイシーズンには、瑠衣も母親と一緒に手伝いに行ったこともあったが、瑠衣が着いたときには泊り客もあまりなく、渓流の音だけが物悲しく響いていた。その温泉街の中でもとりわけ伝統のある老舗旅館が、祖父母の経営する結城旅館だ。

 瑠衣が旅館に入ると、入れ違いに男が出てきた。

「あれ……」

 奇妙な引っかかりを覚えて振り向く。中年の男性がありふれたジャケットを羽織り、小さなボストンバッグとブリーフケースのようなものを提げてバス停に向かって歩いていく。ブリーフケースはアルミか何かで出来ているのか、夕陽を反射してキラキラと輝いている。その男に向かっておじいちゃんは「またのお越しをお待ちしています」と声をかけていた。

「あの人は……」

「時々お見えになるお客様だよ。坂口さん」

 瑠衣はその男の背に、ひどく澱んだ空気を感じたが、おじいちゃんにせかされて玄関に入る。

「瑠衣ちゃん、なんて不憫な……」

 おばあちゃんはそう言うなり、玄関に座り込んで泣き出した。おばあちゃんはかつて美人名物女将と言われ、雑誌の取材を受けたこともあったが、この所、病気がちで寝つくことが多くなり、涙もろくなっている。それを仲居の良子さんがカバーしているというのが実情だ。良子さんは中年の恰幅のいいおばさんで、長くここに努めている。人がよく、優しい働き者で、女将代行のような仕事を誠実にこなしてくれる頼りになる人だ。仲居さんも板前さんも事情を知っているので、腫れ物を触るように瑠衣を扱ってくれるのだが、瑠衣にはちょっと面映い。

「嬢チャン、お帰りやす」

 板前の玄さんが京都弁丸出して迎えてくれた。この男、京都の老舗で修行した腕の立つ職人であることは確かだが、京都を離れて数十年、京都弁はかなり怪しい。瑠衣にこの旅館を継いで欲しいという老夫婦の願いを、我がことのように思い込んでいる。妻である良子さんとともにこの旅館に住み込んでいる。実直さがとりえの中年男だが、その思い込みの強さが却って居心地悪い。

 もちろん夫婦である仲居の良子さんも同じように瑠衣に旅館を継いでもらいたいと思っているらしく、今回の出来事を災い転じて福となすと考えている風でもある。良子さんは小さいころから瑠衣のことをかわいがってくれ、面倒を見てくれていた。それは今も変わらず、かいがいしく身の回りの世話をしてくれている。その気持ちはありがたいが、今は素直に感謝の言葉を言えない。

「あのさ、あたし、ちょっと疲れたんだけどな。お昼寝したいな」

「あ、そうそう、そうよね。ずっとバタバタしていたんだから。奥に良子さんが用意してくれた部屋があるから、そっちで休めばいいわ。今日は坂口さんもお帰りになったし、もうお客さんもいないから、夕食までゆっくりしてね」

 客がいないということは今の瑠衣にとってはありがたいが、考えてみれば先行き、恐ろしいことである。おばあちゃんに言われて良子さんが瑠衣を部屋に案内してくれた。

良子さんが用意してくれた部屋は、旅館とは別棟の二階建ての建物の中にある。家族と従業員のための宿舎で、そこの一階の奥の川に面した部屋が瑠衣の居場所になった。

 良子さんが身の回りの必要そうなものを買い揃えてくれていた。一輪挿しに心づくしの野の草が活けてあるのが清々しい。そのあたりは接客業の心配りである。おばあちゃんが用意してくれた着物が長い着物用のハンガーに掛かっていた。小さな花を散らした小紋の若々しい浅黄色の着物だが、今は着る気にはなれない。もっとも自分一人では着物を着つけることはできないのだが。

「寝よ。寝よ。疲れたものね」

 ぼんやりベッドに転がる。天井の板の模様が、ここが東京のマンションではないことを示している。あのマンションに戻れないのか。あの家族に戻れないのか。今まで愛情を注いでもらって育ったはずだ。小さい頃、母親はいつも『私のかわいい天使』とかわいがってくれたはずだ。その愛はどこに行った。

「愛なんてどこにもないのよ」

 ぼすっと枕に頭をうずめた。

 寝つきのいい瑠衣はいつもならただの数分で眠りに落ちると言うのに、なかなか寝られない。ここに来るまで列車に乗り、バスに乗り、あわただしく移動した。疲れていないはずはない。それなのに部屋のすぐ下を流れる渓流のせせらぎの音が気になってか、瑠衣は布団を頭からかぶったまま、長い間寝付けなかった。



「源五郎さん、ちょっと来ていただけませんか。大変なことが起きてしまったんです」

 ホテルの番頭が入ってくるなり、源五郎を連れ出した。

「なんだい、もう九時を回っているというのに」

「それがうちのお客様がお一人、お戻りにならなくて……」

 言い淀む。

「喰い逃げか」

 大きな騒ぎのない此処でも、時折、喰い逃げはある。

「そのくらいならいいんですが。上の地獄谷で死んでいたんです」

「はぁ……」

 言葉がない。死人など、病気や交通事故を除けば、ここでは珍しい。急いで地獄谷に行くと、すでにパトカーや救急車が来ていた。

 地獄谷と言っても、小さな温泉の源泉だ。結城温泉はここのお湯を各戸に引いている。湯量はまずまず、一日二回の間欠泉が見ものだが、それは朝の八時と夜の八時なので、あまり観光資源としては適当ではない。源泉の湯だまりはぼこぼこと泡が吹き出し、硫黄の匂いが立ち込める。危ないので一応フェンスで囲っているが、老朽化し、いたるところが腐食して脆くなっていた。夏場でもない限り観光客は少なく、補修は後回しになっていたのが、災いした。

「あそこに……」

 番頭の指さす先には背中を上にしてゆらゆらとお湯の中を漂う男がいた。顔をつけたまま、浮いている。もちろん風呂に入っている風情ではない。源泉の温度は八十度を超えている。常識でもここを風呂代わりにする人間はいない。

 すでにホテルのオーナーが来ていた。ホテルの客が死んだのだから当然だが、それ以外にもオーナーである結城岩次は温泉協会の会長で、ついでに副会長が瑠衣の祖父源五郎である。温泉街の責任者として岩次と源五郎が顔を出さないわけにはいかない。

「大変なことになったな」

 源五郎が声をかけた。

「ああ、金がないから修理を後回しにしたのがまずかったな」

「おまえんところのお客さんだって」

「ああ、初めての客だ。知り合いに勧められてきたとか言ってたな。肉体労働の人じゃないかな。日に焼けて筋肉質だったな。まさかこんな最後とはね」

 源五郎たちが見ている前で、男は引き上げられ、死体運搬車に乗せられた。ブルーシートで人目を遮っているのが、却って恐ろしい。

「この方、どなたかおわかりになりますか」

 警官は岩次に聞く。

「うちのお客様です。この方はおとといからお泊りになっていらっしゃいました。宿帳には住所とか名前を記入していただきましたが」

「わかりました。後ほど、伺います。それとこの方の荷物とか引き取りに上がりますので、用意していただけますか」

「勿論です。で、あの、お客さんはどうしたんですか」

 岩次が聞くと警官は大きく嘆息した。

「死後数時間は経っているそうですって。事故でしょうね。ここのフェンスが壊れているから、覗いているうちに誤って落ちたんでしょう。お気の毒に……」

 警官は死体運搬車に向かって両手を合わせた。その後で黄色のテープを周りに張り巡らす。そうしないと次の事故も起きかねない。警官に促されて岩次たちはホテルに戻った。

「なあ、ちゃんとフェンスを整備し直さないといけないな」

 源五郎が岩次に囁く。

「そうだな、早急にしないと、管理責任とかつつかれそうだしな」

 問題はその金が今の結城温泉協会に乏しいことなのだが。

 ホテルの宿帳は警官がコピーして、その後で客の部屋に向かった。荷物は小さなボストンバッグで中には着替えと洗面具、饅頭の包みが一つ入っていただけだ。財布とかは本人が身につけていたと搬送先の病院から連絡が入った。もちろん、宿帳の記載と同じだ。

 名前は三浦誠一、四十五歳。職業は派遣社員となっていた。警官が派遣会社に問い合わせると、工事現場を専門にしていると回答があった。今は大きな工事が終わり、休みを取っている。仲居達にも骨休みに来たと言っており、全くの事故としか考えられない。警官は荷物を持ち上げた。

「荷物はこれだけですか」

 警官が岩次に尋ねる。

「そう思いますが、私にはわかりません。担当の仲居に聞きましょうか」

「たぶん、それだけだと……」

 若女将が口ごもる。若い。かなり若い。彼女はこのホテルの跡取り娘にして、岩次の孫である美由紀十五歳である。

「何か他にあったのですか」

「それだけだと思います」

 跡継ぎだって客の荷物をみんな覚えているわけじゃない。結城ホテルは部屋数八十。空室が多いとはいえ、泊り客は一人ではない。

「思いますって」

 警官が重ねて尋ねる。

「ええ、それだけです。お客様の荷物は」

 警官が帰った後、美由紀は額に手をやり、考え込んでいた。

「そう、確かもうひとつ、あったような。それって何だっけ。あのお客さんにしては妙な荷物だったような。でも今さら言っても遅いし。それに確かに覚えているわけじゃないから……」 

 美由紀はしばらく思い出そうとしたが、無理と諦めて仕事に戻った。



美由紀の何やら怪しい記憶。地獄谷の湯たまりで死んでいた男は、事故?さて、もう一つの荷物って何?

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