第15章 瑠衣 良心の呵責を覚える
ダブル不倫の両親に見捨てられた結城瑠衣は母方の祖父母の経営する温泉旅館がある山川村にやってきた。
ど田舎の村にアニメ館を建てるという企画が持ち込まれ、村を二分する騒ぎになっていた。アニメ館の胡散臭さを感じた瑠衣はクラスメートと一緒に村おこし同好会を立ち上げ、地道に村おこしを始めた。その村おこしの一環で作ったひまわりの巨大迷路で男が死んでいた。
「あれは殺人ですね」
いつの間にか現れた川瀬が断言した。
「あの、あなたは……」
当然のことだが、地方新聞の記者が尋ねる。
「あ、私は警視庁の元刑事でして、たまたまここに所用で着ていて事件に出くわしたのです。私の長年の経験ではこの案件は殺人事件です」
脇で瑠衣はことの成行きに鳥肌が立つのをおぼえた。あの人は確か旅行雑誌の記者じゃなかったか。大法螺、吹いているのか。それともあの姿は世間の目を欺くためのカムフラージュ、本当は警察の潜入捜査だったのか。って、自殺に潜入する必要はないし、だいたい長年の勘っていうほど年を摂っているとも思えない。川瀬は三十そこそこに見える。
「だいたい、あんなところで自殺する訳がない」
川瀬は念を押すかの様に断定する。
「おいおい、そんな勝手なことを吹聴しては困るな。あんたは」
もちろん川瀬の発言をほっておくわけがない。ちゃんと警備に当たっている地元の警官が出張ってきた。
「勝手なことではない。私はあんたと同業者だったよ」
「へ……」
「元、警視庁の敏腕刑事だった」
川瀬は『元』と『だった』を、微妙にトーンを落として話している。かなりあざといが、この警視庁という言葉は地元警察には影響力があるらしい。
「警視庁、ってこの事件、警視庁が出張ってくるような大事件なんですか」
山川村に事件が起きた試しがないのと同じくらい、所轄でも殺人事件は滅多に起きない。
「いや、たまたま出くわしただけですよ。ただ、変じゃないですか。こんなヒマワリ畑のど真ん中でヒマワリに埋もれて男が死んでいた。自殺に思えますか」
「それは確かに変ですけど、男のそばには注射器が落ちていたし、その中に少量の液体が残っていました。それはまだ分析が終わっていませんが、それが毒物だとしたら、自殺の可能性があります。鑑識の話ではそれに指紋も残っていた。どうやら男のものらしいということです。辻褄が合うでしょう」
警備の警官が説明する。
「誰かが男に注射をし、その後で注射器を男に持たせたとしたら。それもまた可能性がないとは言えませんよ」
川瀬の恰好はいかにもキレ者の敏腕刑事だ。瑠衣ははっとして目を見開いた。
よっしゃ、これでこそ、サスペンスだ。東京から来たカッコイイ刑事、湯けむりの宿、殺人事件、あれ、でも、あの男は遺書を残して自殺したんじゃなかったか。とすれば、この刑事は完全な見当違いじゃないか。瑠衣は遺書について川瀬に話そうと考えた。
いや、待て、すでに美由紀は気分が悪いと言って満に送られて帰って行った。あの遺書のことを知っているのは今、ここで、私だけだ。さてここで話すべきか、いなか。ハムレット的な悩みにかられ瑠衣は一人、悶々とする。
県警の鑑識御一行様は県庁に向けて戻っていった。死体も持って行ったから、すぐに司法解剖が行われるだろう。そうすればあの死体が自殺だとわかる。それは時間の問題だ。瑠衣は注射器の指紋は気がつかなかった。あの現場にいて注射器があったことも知らなかったが、その中身の薬品はすぐに分析されるだろう。そうなればすべて白日のもとにさらされる。あの遺書など問題ではない。
もう少し時間を稼ぎ、せめて県内ニュースではなく近隣の県にも広がるくらい知れ渡ってほしい。
瑠衣はぐっと我慢した。
事情聴取だと言ってなんだかんだといろいろ聞きまわっていた刑事たちが帰ったのは、事件発覚から優に三時間が過ぎていた。おなかが空いたとぼやく瑠衣に、農協の人がテントに誘って、豚汁と梅干しのお握りを渡してくれた。もちろん只貰いである。二つを平らげると何となく気分が落着いて、その後、二時間ほど売店の手伝いをした。
売店はひっきりなしにやってくる野次馬の対応に忙しかった。農協の理事長も自分の軽トラックにトウモロコシを満載してやってくる。そのかわりにトウモロコシの皮やら芯、生ゴミや紙コップ、発泡スチロールのどんぶりなどのごみを積んで帰る。何度かそうやって顔を出しては、頑張れと声を掛け、ごみを回収する、その忙しさもすさまじい。余りの忙しさに、いくら若い瑠衣も二時間と持たなかった。見学にやってきた早苗たちを捕まえてバトンタッチをして、家に戻った時には三時を回っていた。本当なら今頃暇を持て余してヒマワリ迷路に張り付いていなければならない時間だ。夕方の五時までの当番だった。でも今日、迷路は閉鎖され、瑠衣たちの代わりに警邏の警官が立っている。瑠衣の出番はない。
旅館は朝の九時過ぎから午後四時くらいまで暇だ。だからたいてい交代で休む。瑠衣も自室にこもって少し遅い昼寝を決め込んだ。しかし早々に四時には叩き起こされ、調理場を手伝わされた。ここから旅館にとって戦場である。
瑠衣は銘々膳をいくつも積んでは運んでいく。宴会場に食事の用意をし、飲み物を運ぶ。
この頃では団体の客は少ない。かつては近隣の県の企業が、忘年会やら新年会を泊まりがけでやることも珍しくなかった。その名残で広い宴会場があるのだが、今はそんな客はない。せいぜい五、六人のグループが大人数と言える。だから宴会場をいくつかに区分して夕食をとってもらうことにしている。申し出があれば個室を用意したり、ついたてを持ってきたりするが、今時の客はそれほど気にしないのか、そんなケースは少ない。
今日も誰もそんな些細なことを気にしない。宴会場は二つのグループが盛り上がっていた。一つは発見者のおばさんたちだ。恐ろしかったのは最初だけだったらしく、こんな体験は滅多にあるものじゃない。非日常を楽しんでいる節もある。元気なおばさんパワー全開で盛り上がる。もう一つは川瀬だ。その周りに新聞社の記者が集まっている。彼らは事件の取材のために被害者の泊っていた旅館にやってきて、そのまま泊まり込んだ格好だ。刑事は捜査をして被害者のボストンバッグを持って帰っていったが、記者たちはそのまま居残った。空室に悩んでいた旅館にとって、棚ぼたと言っていい。
何本ものビールを竹の籠に入れて、瑠衣は何度も調理場と宴会場を往復する。
宴会場に置かれた大型テレビで、地方局のローカルニュースを流しているのを、一同は食い入るように見ている。
「あー、映りがよくないな」
「もっと瘠せているはずなのにどうして肥って見えるんだろう。おかしいな」
みんな、事件の内容と全く関係のない話ばかりが盛り上がる。おばさんばかりか、新聞記者までがテレビ映りを気にしているとは思いもよらなかった。実は瑠衣も自分がどう映っているか気になってこっそりニュースを録画予約しておいた。
「どうぞごゆっくりしてください。それでは空の瓶を下げさせていただきます。後でお代わりを持ってきますから」
瑠衣が接客する。この程度ならいつもやっている。
「ねぇちゃん、お酌してくれる」
「一緒に飲もうよ」
客たちはむちゃくちゃ言っている。未成年に飲酒を勧めてどうする。
「若女将、調理場で呼んでますよ」
仲居の良子さんが気を利かせてくれた。瑠衣も記者たちから事件について聞きたかったが、酔っ払いに絡まれるのはいやだ。良子さんは御年五十、伊達に年をとっているわけではなく、貫禄が違う。尻を撫でてくる手をぴしゃりと叩く。
「こんなおばあちゃんに何を色目使っているんです」
良子さんは軽くいなした。男たちが悪酔いしない程度に場を締め、お開きにさせる技は見事というしかない。このあたりは十六になったばかりの瑠衣には逆立ちしてもまねのできない年季のなせる技だ。頼もしい限りである。
しばらくして客間からは廊下にも響き渡るような派手なイビキが聞こえてきた。もちろん女性客とは離して部屋をとっている。そこら辺は旅館の気遣いというものだ。もっとも今回の女性客は静寂を楽しもうというよりはお喋りに盛り上がるタイプの人たちだったので、いびきと同じくらいうるさかったのはちょっとした誤算ではあった。
調理場に戻ると、玄さんとお爺ちゃんがうれしそうに予約台帳を覗いていた。
「どうなの」
「それが嬢ちゃん、満室に近いんですよ。しかも一応四日抑えるという報道の人たちばかり。前金ですよ、前金」
「すっごい」
うまくいっている。思いもよらず、飛び込みで新聞社が来た。七月の夏休み前の平日に満室に近い、なんて言うことは結城温泉では滅多にないことだ。瑠衣はちょっと胸が痛んだが、あの遺書、もう四日ほど黙っていようと思った。
翌日どんより二日酔いの男たちと、血気盛んなおばさんたちが、朝の膳をついばんでいる。朝食メニューはごく平凡なものだ。ご飯に海苔、味噌汁、納豆、卵と香の物、山菜とキノコのほう葉焼がメインディッシュでワカサギの甘露煮がつく。
食後すぐおばさんたちは連れだって見物に出かけた。うまくいけば殺人現場が見られるかもしれないとキャッキャッと騒いでいる。そう騒ぎながら、デジカメやケータイの操作の確認を怠らない。
瑠衣も気になって仕方がない。とはいえ瑠衣はしょせん高校生、泊まり客の新聞記者にいろいろ尋ねてもからかわれただけで何も教えてもらえなかった。朝食の後片付けが終われば仲居は順に休みを取る。夕方まで旅館にはこれと言って用事はない。売店に売り子として立つのは通いの仲居で電話番もする。予約の応対をするのだ。瑠衣もいつもなら週末の昼間はのんびりと午睡を楽しむのだが、今日ばかりは寝てなどいられない。仲居の着物からさっさとジーンズ、Tシャツに着替えて自分のマウンテンバイクを引き出す。
まず、目指すはヒマワリ迷路。当然のように黄色いパーテーションが張られ、警邏の警官が立っている。隣村の駐在さんは人のいい中年のおじさんで聞くと何でも教えてくれたが、今立っている男たちはどんな問いにも何も答えないぞと決意しているかのように、口を横一文字に引き、見物人を睨みつけている。まるで『喋るな、危険』とでも書かれた看板を背負っているかのようだ。
警官に声を掛けるのはあきらめて、売店の農協のおばさんたちに挨拶をして、挨拶のお返しにと焼きトウモロコシを一本貰う。小腹がすいていたのでちょうどいい。後、キャベツ畑、トウモロコシ迷路にも足を延ばす。こっちにも多くの観光客が出ていたのには驚いた。あの事件の御蔭かもしれない。そう思うと、遺書を隠した心のとげが緩くなっていくように思えた。そのうち話せばいい、そんな気持ちになる。
元牧場、現在スキー場のゲレンデには極彩色の花畑がある。一応ルノワールの絵を拡大したはずだが、ごちゃごちゃとして何が何だかわからなくなっている。単なる巨大なお花畑だ。これならいっそもっと大がかりなお花畑にした方が見栄えがするかもしれない。いちいちどこに何の種を播くか、気にしなくてもいいし、今回これだけたくさんの花が咲いてきっと膨大な量の種が出来るだろうから、それを集めて来年播けばもっともっと壮観な風景が出来るだろう。有料で花摘み会をしてもいい。そんな算段をしつつ瑠衣は村を一周したが、それにはさして時間はかからなかった。温泉街に戻ってきて美由紀のホテルに顔を出したが、気分が悪くて寝ついていると仲居が教えてくれたので、会うことはしなかった。
ホテルを出る時にふと裏庭の雰囲気が変わっていることに気付いた。
「あれ、ひまわりは……」
死んでいた男坂口の遺書があるので、殺人ではない。しかし殺人である方が騒ぎが大きくなって宣伝効果があると、瑠衣は黙っていた。村の騒動は治る事なく、観光客でごった返す。




