菜々子と洒音~意地悪なあの娘に口づけを~
洒音 (しゃのん) は菜々子が苦手だ。何かあるとすぐに突っかかってくる、それも公衆の面前で。武家の次男に生まれた洒音だが、彼は武芸より文学を好む。それでも一人の男子として、女子に罵倒され続ける事に対し忸怩たる思いがあった。
足立国立図書館は湊神社の奥にある。日米海戦の戦勝を祝って建てられた神社に併設された図書館は、同盟国であった中華皇国より寄贈された書物が収められており、洒音はそこで希少本を読み漁るのが日課だった。
しかし、そんな彼の至福な時間を、かき乱すのは騒がしき黒猫。セミロングの髪を揺らし、菜々子は洒音の前に立つ。無言で睨み続ける彼女を無視して読書を続ける彼ではあったが、ざわつき始めた周囲が気になり集中できない。仕方なく声をかける。
「……何か用?」
「あなた、今日は増本山で軍事訓練でしてよ」
「……自由参加だろ」
「帝国男子なら参加すべきでしょうに、弱虫ね」
「……帝国女子なら静かにしてくれないか」
周囲から笑い声がする。確かに男子の多くは訓練に自主参加して、今頃は森でハイキングか釣りでもしているのだろう。図書館には洒音を除いて女子しかいない。それが余計に、菜々子を苛立たせるのだった。
「本当は怖いんでしょ、山に入るのが」
「……むしろ図書館で騒ぐ君が怖いね」
周囲の笑い声に拍車がかかる。中には拍手する者もいた。いつも洒音に突っかかる菜々子を苦手とする女子は多い。忌憚なく言えば、ここにいる全員の女子が彼女の敵だ。何か言うたびに軽く言い返される菜々子、今度は彼が読む本にケチをつけ始めた。
「死海文書に日本書紀? センスのない組み合わせね」
「……身につける知識にセンスは不要だよ」
「あらあら、自分にセンスがないと認めるわけね」
「……与える知識にセンスが問われるのさ」
周囲は笑い声どころか嬌声が上がり始める。もはや菜々子を非難する声もなく、洒音の人気だけが上がり続けていた。富国強兵の国策で、戦勝が続くこの国で、粗雑な男子が増える中、図書館で瀟洒に読書をする洒音は多くの女子と一部の男子の注目を浴びていた。当の本人は、それを知らない。
「ここは足立図書館、中国の書籍を読めば良いのに」
「……敦煌文献も読んだよ」
「と、とんこつ……」
「……とんこう、まあいい、ボクは写本が読みたいんだ」
「写本?」
「……手書きで複製した本のことさ、もういいだろ」
「洒音が写本、あははは、笑わせないで」
周囲は笑わなかった。図書館の窓では乾いた枯葉が最後の舞を見せている。増本山を登る男子たちも、今頃秋の紅葉を楽しんでいるだろうか。しかし一番赤いのは、ジョークが滑って大いに恥じる菜々子の顔だった。
「神話レベルに古い書籍は、あまねく写本だよ」
「……」
「言葉が文字に変わるとき、必ず誰かの嘘が混ざる」
「……」
「ボクは嘘が好きなんだ、そこにセンスを感じたい」
「……」
「少しの苦みが甘さを引き立てる、そうだろ菜々子」
洒音は立ち上がり、真っ赤になって涙ぐむ菜々子の頬に触れた。そして顔を引き寄せ軽いキス。
洒音は菜々子が苦手だ。二人っきりだと執拗に甘えてくるくせに、人前だと罵倒してくる。本当はこうして欲しかったのはわかっていたが、彼女の婉曲な要求にウンザリしていたのだった。
だから避けていたファーストキス……
……だけど我慢の限界だ
必死な菜々子の意地悪と、赤く膨れた涙顔
その落差に射抜かれない男なんていないさ。
君とボクの物語には、手書きの原本ひとつだけ。
◇◇◇
菜々子は内心ほくそ笑む。図書館ゆえに虫干しは必要だ。
ファーストキスのあの日から図書館の利用者は激減した。