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第15話 知恵者の話

「ここが図書室になります」


 ぎぃっと重い音を立てて、扉が開く。その瞬間、埃っぽさと籠ったような空気が流れてきた。本を守る為に陽の光が極力入らないようになっているらしく、薄暗く先が見通せない。


「失礼します……」


 恐る恐る入ってみると、等間隔に並んだ書棚が部屋の先の暗がりにどこまでも続いているように見える。床には書棚に入り切らなかった本が堆く積まれ、書見台にも本や紙片が散らばっている。

 アザーフ教区長がふーっとため息を吐いた。


「こんな状態で申し訳ございません」

「いいえ。お忙しいのですから多少整理されてなくても仕方ありません」


 そうは言ったものの、余りの雑然とした図書室に入るのは躊躇ってしまう。すると書棚の陰からひょこっと腰の曲がった老神官が現れた。白髪に白い髭、白く長い眉毛に目がほとんど隠れていて、何だかちょっと可愛らしくも見えるわね。勿論、失礼な感想なのは百も承知なのだけど。


「おお、ピオ爺ではないかっ」


 老神官を見て嬉しそうな声を上げたのはファウロス殿下だった。


「ピオじい?」


 私は首を傾げる。親しい感じだけど、殿下のお知り合いかしら?


「ああ。ピオじ……ピオニウス殿は俺や兄上に神学の講義をしてくれていた人なんだ」

「左様。懐かしいですなぁ……ファウロス殿下はやんちゃでじじいの話はつまらんと、いつも外に飛び出しておりましてなぁ……それがこんなに立派になって」

「昔の話は良いんだ……」


 正に好々爺の笑みで話すピオニウスさんに対して少々バツの悪そうな殿下に、私も口元が綻ぶ。


「それで殿下、この爺に何用ですかな?」

「用があるのは俺ではない。こちらはマルシーヌ聖公家のソフィー嬢」


 私の名を聞いてピオニウスさんの白い片眉が上がった。驚いていらっしゃるのかしら?


「ソフィーと申します。突然の訪問、ご容赦下さいませ」

「ソフィー様は穢れの件でお聞きしたいことがあるようだ。お答えせよ」


 アザーフ教区長がピオニウスさんに説明するのを聞いて、私も頭を下げる。


「どうかよろしくお願いします」

「こんな爺でお役に立てることがあれば、勿論ご協力致しますじゃ。どうぞ中へ。ワシは最近めっきり足腰が悪くなってしまいましてのう。立って話すのは辛いんですじゃ」


 手招きされて私達は図書室の中へ入る。座る場所があるかしら……。

 私が密かに心配していると、図書室の中の一角に平たい長方形のテーブルがあり、そこにも勿論本や紙片が散らばっているけれど、一応座る椅子はある。私達はそこへ座った。


「ワシはど辺境と言いますか、非常に田舎で育ちまして。まぁ、言い伝えというか古い信仰の残滓がまだ残っておりましてな。年寄りの与太話と思って聞いて下され」


 ピオニウスさんはご自身の白い髭を撫でながら話し始める。


「聖女信仰の総本山であるギルレーヌでは異なる教えが入る隙間はないのだろうが、マルバシアスはそこまでかっちりとはしていないんだ」


 ファウロス殿下がマルバシアスの宗教的な考え方を補足してくれる。

 ギルレーヌ国と聖公家が中心となって教義を纏める間に、それに則さない話や考え方は、捨てられたり忘れ去られたりした。ギルレーヌではほとんど一掃されたけれど、聖公家の影響が薄い場所では古い話もまだ残っているのね。


「それで、どういった言い伝えが残っているのでしょう?」

「ふむ。ワシの聞いた話ではか聖女の能力、つまり浄化の力は決して特別な力ではなかった、という話ですじゃ。聖公家の方に言うのは忍びない話ですがの」

「特別な力ではなかった……それは一体どういうことでしょう?」


 もし浄化の力が誰でも使えるものなら、誰でも”聖女”になり得るということかしら? 聖女の血脈でなくとも。だとしたら、聖公家には都合の悪い話だわ。だからこそ封殺されてきたのかもしれない。


「古い時代は、人々は精霊達ともっと近かったと言われておりましたのじゃ。澱んだ気を、澄んだ気へと浄化し、世界に循環させていく。それが古の人々じゃった」

「循環……つまり流れがあるということでしょうか?」


 私が力を使う時に感じる流れのことを思い出した。世界は見えない精霊の力の流れがある、ということなのね。


「左様。全ては精霊の力の流れ。それが澱めば魔物が生まれる。その澱みを解消するのが、浄化の力だと伝わっておりますのじゃ」

「かつてはそういった力を持った人々がたくさんいた……」

 私の呟きにピオニウスさんが頷く。

「ですが時代が下り、人々は精霊から遠ざかった。そして浄化の力を持つ者も少なくなっていったとワシは思いますのじゃ」


 それで聖女様の時代には、聖女様以外使えなくなっていた……だから聖女様は特別になったんだわ。


「ソフィー様、穢れとはつまり精霊力の澱み……その澱みがなぜ出来るのか、考えたことはございますかな?」

「いいえ。正直、ここに来るまで言葉でしか知らなくて……すみません」


 私は恥ずかしくて顔を伏せた。本当に私は考えなしだったわ。


「いえ、聖公家の方なら当然でございましょう。澱みは言わば、陰の気とも言いますか。例えば、人を呪ったり、攻撃したり、いえ、実際に行動には起こさなくても敵意を向けただけでも溜まると言われておりまする」


 聖教では、呪術の類は教義に合わぬ、と禁忌扱いになっているけれど、在野では呪術の使い手もいる。それはつまり、それらを利用する者達も存在している、ということ。


「誰かが誰かを呪う度にこの世界に満ちている精霊力が澱むと……」

「そうですじゃ。大地の持つ精霊力を以てしても浄化できなかった穢れが澱みを生み、その瘴気から魔物が生まれる。魔物を倒しても一刻姿を消すだけで澱みが消える訳ではない。それがやがて集まって大きくなれば……」

「ドラゴンになる……」


 本当ならとんでもない話だわ。人は自分で自分の首を締めているってこと。


「ワシはかつてそう聞いたことがあるんですじゃ」

「それではドラゴンを生みだしたのは我々人である、と言うことですか?」


 ピオニウスさんが頷いた。確かにこんな言説は、人々に受け入れられないわ。魔物を生みだしているのが人々の悪意だなんて。


「でもそれならば納得出来ます。あの魔物には何か嘆きや悲しみを感じたのは、恨みを反映しているから……」

「恨む方も恨まれる方も苦しいものです。ソフィー様、どうか溜まった澱を浄化して下され」


 凪いだ水面のように穏やかにピオニウスさんが言った。


「ピオニウスさん……力の限り務めさせて頂きます」


 私は気が引き締まる思いで、そう応える。


「少し良いでだろうか」


 今まで静かに私達のやり取りを聞いていたファウロス殿下が声をあげた。


「どうぞ、殿下」

「現状シルフィスの街を中心に穢れが広まっていて、とてもソフィー一人では浄化出来ないと思うのだが」


 ファウロス殿下の懸念は確かにその通りだわ。人々が負った穢れを浄化しているけれど、それはとても小規模なものでとても広大な土地を癒せるとは思えない。


「シルフィスの泉が何故人々の信仰を集めているのかご存知ですかな?」

「シルフィスの中心部に湧き出る泉が万病を癒すからだろう?」


 当然だと言わんばかりにファウロス殿下が答える。


「勿論そうですじゃ。ただそれだけではなく、泉の水はその身に受けた呪詛や穢れを浄化することも出来ますのじゃ。つまり、泉の水さえ浄化出来れば、水が大地を巡り、穢れを浄化してくれるでしょう」

「それほど強く精霊の力を含んでいるなら、今でも穢れを浄化しているのではないか?」


 ファウロス殿下が口にした疑問は最もだわ。ピオニウスさんの言葉が本当なら、穢れを浄化し大地を今すぐにでも癒せるはず。


「これはワシの勝手な推測になりますが、泉が穢れたことにより、浄化の力が反転し、邪気を強めているのではないかと存じます」

「……つまり、街の中心にある泉を浄化しない限り、穢れは消えない、と?」

 

 ファウロス殿下の問いにピオニウスさんは頷いた。


「しかし、それは容易なことじゃありやせんぜ。何せ、街に近づけば近づくほど、邪気と澱みが酷くて、一息吸うだけでも穢れが体に入って来るようなザマですぜ」


 渋い顔でダグラスさんが告げた。ファウロス殿下やイレーナさんも同じような表情をしている。最前線で戦って来てる人達だもの、泉に近づくことがどれだけ大変か、よくご存知なんだわ。


「周囲から徐々に穢れを祓っていくしかありますまいな。精霊の力を邪から聖に戻すのですじゃ。そうすれば大地は本来の力を取り戻し、穢れを受け付けなくなるかと」

 修道院でミラやアンリさんも言っていたわね。修道院の周囲の空気が清められて、治療がしやすくなったって。それを他のところでもやれってことね。


「しかし、途方もない話だ……」


 イレーナさんが思わずと言った感じで呟いて、慌てて口を噤んだ。確かに広大な土地を巡って、浄化を進めて行くなんて大変なことだわ。

 けれどやらねばならない。やるしかない。やるしかないんだわ。

 私は魔物に相対した時のぞわぞわした感覚を思い出し、震えた。その震える手を殿下が握ってくれた。

 

 ただそれだけで、心が温かくなるような気がした。


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