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第11話 迫る危機

「ソフィー?」


 わたしがずっと押し黙っているので、ファウロス殿下は心配したように声を掛けてきた。


「この話は別に今すぐ結論を出すことはないんだ。修道院のまで送ろう。戻ってゆっくり……」


 ファウロス殿下が言葉を言い終える前に俄かに外が騒がしくなる。私も何だろうと顔を上げた。


「ソフィー、君はここに居てくれ」


 険しい顔になったファウロス殿下が椅子から立ち上がり、立てかけてあった剣を手に取る。


「ファウロス様?」

「俺が呼びに来るまでここから出ないでくれ」


 声音に警戒を滲ませ、ファウロス殿下は天幕を出て行った。外からは、警戒を呼びかける声と叫び声が入り交じり、行き交う甲冑の音が忙しなく聞こえてくる。

 ふいに、私の体に悪寒のようなものが奔った。天幕の隙間から嫌な気のようなものが流れてくるのを感じる。


 穢れの気配に似ている……?

 でも、もっと……何と言うか、生臭い感じだわ。


 私は嫌な予感がして、椅子から立ち上がり天幕の入口の布をずらして外を見る。その瞬間、総毛立った。黒い、生き物とも言えないような黒い塊から触手のようなものが何本も伸び、黒い液体を垂らしながら這いずり回っている。酷い臭気がして周りの空気すら濁らせていた。


「何あれ……」


 私は思わず絶句してしまった。


「ソフィー!中に入っていろっ!」


 ファウロス殿下の怒号のような声が聞こえる。殿下の周りには武器を構えた騎士達が並んでいた。一様に警戒と恐怖が綯い交ぜになった表情を浮かべている。


「でも……」


 身の毛もよだつ怪物なのに私は目が離せない。


「殿下の言う通りだぜ。あれはドラゴンの吐いた瘴気から産まれた魔物だ。あぶねえから中に入ってな」


 口調こそいつも通り軽いけれど、ダグラスさんの声音は険しい。


「あれが……」


 見ているだけで穢れを移されそう。あんなものを相手に殿下も騎士の皆さんも戦っていたなんて……。

 魔物の動きは緩慢で、こちらを積極的に襲ってくるというような敵意も知能はなさそうに見える。ただ、醜悪な瘴気を撒き散らし、穢れを伝染させるように這いずり回っている。


「こんなところにまで現れるとはっ……! あいつの言う通り早く中へ!」


 剣を構えたイレーナさんが苦々しく呟く。イレーナさんは私を守るように、前に立った。騎士達が間合いを取りながら剣で切り裂く。その瞬間、私の耳に金切声のような叫び声が聞こえた。


「っ……」


 私の思わず耳を抑える。けれど、他の人はまるで何も聞こえていないみたいに異形の魔物を睨んでいる。

 慣れ切っているのかしら……?

 再び騎士達が槍や剣を使い、黒い塊に斬りかかった。切り裂かれたところはまるで霧散するように散っていく。その度に、私の耳に甲高い叫び声が聞こえてくる。

 誰もそれを気に留めていない……まさか、他の人には聞こえていないの?

 私は恐怖心と不快感を抑え、深呼吸する。あの叫び声が何かを伝えようとしているような気がして。浄化の力を使うときのように、心を静めて神経を研ぎ澄まさせる。

 魔物の叫び声が再び私の耳を劈く。


 ……これは悲鳴だわ。苦しんでいる。斬られたから? それだけではない気がする。

 そう、助けを求めている。悲しみ、憎しみ、恐れ、恨み……そういった負の感情に呑まれ苦しむ声だ。

 私は苦しむ”誰か”の為に祈った。穢れを祓うのと同じように。弱々しいけれど光の流れを感じる。精霊よ、かの者を癒し給え。

 私の願いに応えるように光が放射状に広がる。その温かい光に触れ、穢れの塊のような黒い魔物が白く煌めいて中空に消えて行った。


「魔物が消えた……」


 その様子を見ていたダグラスさんが放心したように呟く。他の騎士達も皆驚いて固まっていて、私は何となく居心地が悪い。


「これが聖女の……君の力なのか……」


 ファウロス殿下も眼を見開いて私を凝視している。


「私の力ではありません。私はただ精霊に祈っただけです。言うなれば私はただの通り道です」


 私は消えた魔物の先を見る。そこには黒ずみ燻り廃墟のように壊れたシルフィスの街とその周辺が見えた。

 あの魔物は一体何だったのかしら……私が知る魔物は人々を無差別に襲う恐ろしいものだと。けれど、苦しんでいるような声をあげるなんて、聞いたことがない。

 ドラゴンの吐く瘴気の炎から生じる魔物は他のものとは何か違うのかしら? まるで魔物そのものが呪われて苦しんでいるみたいだった。

 今までは単純に穢れを浄化すれば良いと思っていたけれど、それだけでは駄目な気がする。けれど、それが何かは分からない……けれど、救わなければいけない何かがあるような。そんな予感がする。

 そうだわ。私はここでやることがある。誰にも邪魔されずに。


「ファウロス殿下。先ほどの話ですけど、お受けします」

「ソフィー……」


 今この場で言うのか、というような顔で私を見つめる殿下。何だか妙に可笑しく思えて、私は頬が緩んだ。


「本当に、良いのか?」

「ええ。私はここで人々の役に立つ為に来たのですもの。聖公家に横やりを入れられるのは嫌ですから」

「分かった」

「ですけど、一つ条件があります」

「なんだ?」


 ファウロス殿下は不安げにじっと私を見つめる。私の決断が本当かどうかまだ疑っているみたい。


「貴方と結婚しても、私はこの地で治療を続けたいのです。それが叶わないなら、結婚の話はお断りします」


 ファウロス殿下、つまりマルバシアスの王家に嫁ぐとなれば王族の一員となること。それでどこぞの屋敷で大人しくしていろ、というなら何の意味もない。


「何だそんなことか」


 ほっとしたようにファウロス殿下は表情を緩めた。


「ソフィー。俺がそんな無駄なことをすると思うか。そもそも今のマルバシアスにそんな余裕などないよ。今までと同じように人々を癒して欲しい。だが、どうしても一度は俺と一緒に王都に来て欲しい。流石に兄上に話を通さない訳にはいかないからな」

「そうですか……分かりました」


 ここを離れるのは忍びないけれど、私と殿下が同意したからと言って、すぐに結婚出来るというものではないもの。仕方ないわ。

 現在のマルバシアス国王はファウロス殿下のお兄様、お名前は確か、ジュリアス様といったはず。どんな御方かしら……。

 私がぼんやり考えていると、ファウロス殿下が私の傍に来て、私の手を取る。その瞳に真剣さが宿る。


「ソフィー、受けてくれてありがとう。君を大切にする。決して誰にも傷つけさせはしないと誓う」

「ファ、ファウロス殿下……」


 手から伝わる熱に浮かれたように私も頬が赤くなる。

 これではまるで本当にプロポーズされているみたい。これは只の契約なのに。

 私は自惚れを消すように表情を引き締め、彼の手を握り返した。


「私もマルバシアスの国民の為に尽くすと誓います」


 勘違いしてはいけないわ。これは苦しむマルバシアスを救う為の契約結婚だもの。ファウロス様が優しく義理堅いからって勘違いしては駄目よ。


 私は何度も自分に言い聞かせた。


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