蜘蛛の糸
気鋭の昆虫学者が数々の難事件に挑む! 柏木祐介の事件簿、シリーズ第六話。
第一期完結。
【登場人物/レギュラー】
柏木祐介(三十四歳) 昆虫学者 東京大学応用昆虫研究室の准教授
前園弘(三十二歳) 警視庁の鑑識官
堂島健吾(四十五歳) 警視庁捜査一課の警部補
【登場人物/第六話】
霧島豊(三十四歳) 蜘蛛の糸の研究者 ベンチャー企業の社長
霧島恵子(三十二歳) 豊の妻 資産家の娘、豊の会社への出資者
大和俊二(二十八歳) システムエンジニア 恵子の愛人
残暑もようやく和らいだ九月の午後、大学の研究室にいる柏木祐介のもとに、堂島警部補から電話が入った。
「堂島さん、先日はどうも。すっかりご馳走になってしまって」
「いいんですよ。柏木さんにはいつもご協力いただいているんだから。感謝状も、一枚や二枚なら話の種くらいにはなりますが、これだけ増えるとねえ、せめて美味しいものでも召し上がっていただかなくては……、と言うそばから何ですが、実はまた一件、ご相談したい事件が起こりましてね」
「どんな事件でしょう?」
「霧島豊という、蜘蛛の糸の研究者をご存じですか?」
「名前ははっきり覚えていませんが、最近蜘蛛の糸の画期的な合成方法を開発した方ですよね。蜘蛛の糸は非常に優秀な繊維として注目されているんですが、これまでは蜘蛛の遺伝子をバクテリアなどに組み込んで、原料となるたんぱく質を合成していたんです。ただ、この方法では生産性が低いので、コストが高くなるという問題がありました。彼が開発したのは、生物を使わずにタンパク質を合成する方法なんですね。これによって、人工の蜘蛛の糸がいよいよ実用段階に入るのではないかと言われています。確か、彼は民間企業の研究者でしたね」
「ええ、彼自身が起業したベンチャー企業の社長です。今回の事件というのは、昨夜、彼の妻である霧島恵子が、自宅のマンションで何者かに殺害されたというものなんです。年齢は三十二歳、コーヒーを衣服にこぼして、着替えのついでにシャワーを浴びていたところを襲われ、絞殺されました。有力な容疑者とされているのは、彼女の愛人の大和俊二という二十八歳のシステムエンジニアです。防犯カメラの映像から、彼が死亡推定時刻の午後九時頃マンションを訪れ、程なく立ち去ったことが判明しています。彼以外には、不審な人物の姿は記録されていません。一方、夫の豊氏は当時関西に出張中でした。相手企業の社員の証言で裏付けも取れています。状況的には、犯人が大和俊二であることは決定的なようですが、私としては、まだすっきりしない点が残っているんです」
「どんなことですか?」
「大和と被害者のスマートホンのやり取りからうかがえるのは、彼らの親密な関係ばかりで、諍いの痕跡などどこにも見当たらないんです。もちろん男女関係ですから、急に冷めたりもめたりすることだってあるでしょうが、被害者は侵入してきた犯人にいきなり殺害されたように思える。コーヒーを飲んだのは彼女だけなんです」
「コーヒーを飲んでいるところに大和が現れ、口論になってコーヒーがこぼれたとは? その後始末で彼女がシャワーを浴びているところを、大和が襲った……」
「そこなんですが、彼女を絞殺した凶器が見つかっていないんです。争いが突発的なものだったのなら、部屋にある手近な紐とか電源コードの類が使われそうですが、犯行に使われたのは、ワイヤーやピアノ線のような、もっと細い凶器なんです。そんなものがとっさに手に取れるようなところにあったとは考えにくいし、夫の豊氏も心当たりがないと言っている」
「犯人が絞殺用の紐かなにかを持ち込んで彼女を殺害し、凶器を持ち帰ったと?」
「断定はできませんが、現場の状況を見ると、そう考えるほうが自然です。それと、漠然とした言い方しかできなくてお恥ずかしい限りですが、絞殺された被害者の傷跡に、妙な違和感を覚えるんです」
「大和は犯行を否認しているんですね?」
「ええ。エントランスのインターホンを押しても返事がないので、合鍵で入室したところ、浴室ですでに殺害されていたのだと主張しています」
「繰り返しになりますが、防犯カメラには、彼以外の不審人物は写っていなくて、夫の豊氏は出張中だった……」
「ええ、死亡推定時刻の少なくとも二時間前には新幹線に乗っています」
「遺体の第一発見者は誰だったんですか?」
「豊氏です。メールに全く返信がないので、予定を早めて始発で東京に戻り、夫人の遺体を発見したそうです。警察の記録では、通報を受けたのは午前九時十二分となっています」
柏木はしばらく考え込んでから尋ねた。
「経緯は大体わかりましたが、僕はどんな協力をすればいいんでしょう?」
「それなんですが、霧島豊氏に会ってみていただけないでしょうか?」
「僕がですか?」
「ええ。先程申し上げた通り、彼は蜘蛛の糸の研究者なんです。同じ研究者である柏木さんの目に彼がどう映るか、それを知りたいと思ってご連絡させていただいたんです。彼を調べて欲しいとお願いしているわけではありません。ごく普通の会話をして、その印象を聞かせていただければ、それで十分ですから」
「そうですね、画期的な成果を上げた研究者と直接話ができる貴重な機会だ。喜んでお引き受けしましょう」
「ありがとうございます。指紋採取のために預かった食器を返しに行くことになっているので、その時ご一緒しましょう。都合の良い日時を教えていただければ、こちらで調整させていただきます」
「わかりました。後ほどメールをお送りします」
「お手数をおかけします」
「いえ、豊氏の研究だけでなく、彼自身にも興味が湧いてきました。大学や企業の後ろ盾もなく、自ら起業して成功した人物ですものね。会うのが楽しみだ」
「お忙しいのにそこまで言っていただけると、有難い限りです。では、ひとますこれで失礼します」
翌日の午後五時、柏木は池尻大橋駅の西口で堂島と落ち合い、霧島豊の自宅マンションに向かった。
「ちょっと寄り道して構いませんか?」
住宅街の入り口にあるコンビニエンスストアに目を留めた柏木が堂島に尋ねた。
「ええ、もちろんです」
「すぐ済みますから」
柏木が歩み寄ったのは、店の前に並んだ、五台のトイカプセルの販売機だった。
「こちらに来ることはめったにないので、何か珍しい種類のものがないかと……」
気になる商品を見つけたらしく、柏木は左端の販売機の前で足を止めた。
「何か良いものがありましたか?」
「ええ」
柏木が選んだのは十二種類のトカゲとヤモリのマグネットだった。
「トカゲですね」
「ええ、外国産の派手な種類ではなくて、日本の在来種に絞っているのもなかなかの見識だ」
そう答えながら、柏木は百円硬貨二枚を販売機に入れ、ハンドルを回した。
「お目当てのものが出ましたか?」
カプセルの中を覗き込んでいる柏木に、堂島が声をかけた。
「ええ、尾が青い。ニホントカゲの幼体です。今日はついているな」
柏木は満足そうな笑みを浮かべて、カプセルをキャリングバッグの中にしまい込んだ。
「私も尻尾の青いトカゲを見かけたことがありますが、あれは子供なんですか?」
再び霧島豊のマンションに向かいながら、堂島が尋ねた。
「ええ。青い方が目立つから、例の尻尾切りがより有効になる、ということのようです」
「なるほど……。しかし、ガチャガチャでしたっけ? 柏木さんがこんなにお好きとは知りませんでした」
「ミニチュアには、その物体だけでなく、それが存在していた空間も一緒に縮小しているような感覚があって、そこがたまらなく好きなんです。小宇宙を手にしている感覚とでも言うのかな。壜の中に帆船を入れたボトルシップや鉄道模型のジオラマを例に挙げたらわかりやすいでしょうか……。僕が寄生バチに惹かれたのも、そのせいかもしれません。大型昆虫の数百分の一の大きさなのに、能力的にはまったく引けを取らない」
「すると、寄生バチは昆虫のミニチュアですか」
「僕にとってはそうだったのかもしれません。残念なのは、小さすぎるせいで、その形態の珍しさや美しさに気づく人がほとんどいないことですね。僕が研究しているゾウムシコガネコバチは、成虫でも体長三ミリ以下ですが、金属光沢のある、実に美しい緑色をしているんです」
「寄生バチのガチャガチャが登場したら人気が出そうですね」
「ええ、ダンゴムシやスズメバチまで商品化されたから、密かに期待しているんです。監修させてくれるなら、ギャランティがなくても喜んで引き受けるんですが……」
閑静な住宅街をさらに五分程歩いた時、柏木は実が赤く色づき始めた柿の木の枝に、ジョロウグモが直径一メートルはあろうかという網を張っていることに気づいて言った。
「こうして成熟した雌が堂々とした網を張っているのを見ると、いよいよ秋も本番だという実感が湧いてくるんです」
黄地に緑青色の横帯のある蜘蛛の腹背と、黄色味を帯びた横糸を夕陽が照らしていて、全体が金色に輝いて見えた。
「蜘蛛を見て季節を感じるとは、いかにも柏木さんらしいですね。実を言うと、私は蜘蛛が大の苦手なんです。子供の頃、手のひらほどもある蜘蛛が蛙を餌食にしているところを目撃して以来、大きな蜘蛛を見ただけで冷や汗が出てくる……」
「ああ、アシダカグモですね。人間にとって危険な相手ではないけれど、徘徊性の蜘蛛としては日本最大で、捕食シーンは大迫力だからなあ……。不幸な体験でしたね」
「柏木さんには、そうしたトラウマになるような体験がなかったんですね」
「ええ、蜘蛛には割と興味と好感を持っていました。第一の理由はやはりファーブル昆虫記で観察記録を呼んだことですが、それに続いて偶然読んだ本の影響も大きいんですよ」
「ほう、どんな本ですか?」
「尾崎一雄という小説家の、『虫のいろいろ』です。中学二年の時、図書委員をやっていたんですが、傷んだ本を処分するから、欲しいものがあったら持って行っていいと言われて、昆虫記だと思ってこの本を選んだんです。で、家に帰って早速読んでみたら、昆虫記ではなくて短編小説集だったんですよ。理系の本ばかり読んでいた当時の僕にとっては、こんな文章表現の世界があるのかと、とにかく衝撃的でした」
「どんな話なんですか?」
「病身で床についていることの多い作者が、身のまわりで目にする虫を題材に心境を綴っているんですが、そのユーモラスで軽やかな筆致がただ事ではないんです。蜘蛛についての章では、男性用のトイレで、蜘蛛が二枚の窓ガラスの間に閉じ込められる格好になっているところを見つけて、根くらべをしてやろうと考える……」
「ずいぶん変わった人物ですね」
「ええ、確かに。そして、家人にガラス戸を動かさないように命じておいて、トイレで用を足すたびに蜘蛛と、その向こうにそびえる富士山を眺める。富士山は天候と時刻によって様々な佇まいを見せ、蜘蛛はじっと動かないまま、徐々にやせてゆく……」
「最後はどうなるんですか?」
「あと少しで二カ月になるというところで、トイレ掃除をしていた奥さんが逃がしてしまうんです。いつもはガラス戸を重ねたまま動かすのに、うっかり一枚だけ動かすと、隙間からものすごい速さで逃げ出してゆく」
「ほう、大した生命力だ」
「ええ。それに、無駄にあがいたりせずに体力を温存して、ただひたすら一瞬のチャンスを待つ……。実に見事な生存戦略です。他にも、精巧な幾何学模様の網を作ったり、糸を伸ばして風に乗って空を飛んだり、実に巧みな糸遣いを見せる。蜘蛛は調べれば調べるほど興味深い発見があります」
「それでしたら、霧島氏ともきっと話が合いますね。同行をお願いしたのは、やはり正解だったようだ」
霧島豊が住んでいるのは、駅から十分程のところにある3LDKのマンションだった。
「電話でもお話ししましたが、こちらが昆虫学者の柏木准教授です」
「初めまして、柏木です。蜘蛛の糸の人工合成に成功されたというニュースを、新聞で拝見しました。実に興味深い技術ですね」
「霧島です。お目にかかれて光栄です。とにかく、こちらにおかけください」
霧島はそう言って、リビングのソファーを二人に示した。身長一六〇センチ程とやや小柄で痩身、黒縁の眼鏡をかけている。
「まず、先日お預かりしたコーヒーカップをお返しします」
堂島はそう言って緩衝材の包みをテーブルに置いた。
「何か見つかりましたか?」
「いえ、特に何も。奥様の指紋が確認されただけです。だからこそ早めにお返ししようとこうしてお邪魔しました。このカップ、確かマイセンですね。壊しでもしたら事だ」
「そうなんですか? 食器のブランドとか、私は何も知らないんです。全部妻の趣味なもので」
「かなり高額のアンティークだと思いますよ。広々とした室内に趣味の良い家具と調度品……、すばらしいお住まいですね」
「ご承知でしょうが、このマンションは妻の持ち物でした。結婚祝いにと、親にねだって買ってもらったんです。家具や調度品も同様です」
「話は変わりますが、一点だけ腑に落ちないことがありましてね。霧島さんのお考えをうかがってもよろしいですか?」
「どんなことでしょう?」
「申し上げにくいんですが、奥様と大和俊二のスマートホンのやり取りを見る限り、二人の間に不和が生じていたことを示す痕跡が何もないんです。奥様の態度に、最近何か変化はありませんでしたか?」
「どうでしょう……、すでに申し上げた通り、妻に愛人がいたことすら気づいていませんでしたから。ただ、私と妻の関係で言えば、大手繊維メーカーとの業務提携が実現しそうなので、彼女に出してもらっていた七千万円は近々返せそうだという話をしたところでした」
「ほう、それはいつのことで?」
「事件の当日です。内密に願いたいんですが、あの日の出張もその話をつめるためだったんです」
「なるほど。柏木さんもおっしゃっていましたが、蜘蛛の糸の人工合成というのは、実に有望な技術なんですね」
「蜘蛛の糸は、鉄に匹敵する強度を持っている上に、極めて軽い。しかも、一般的な化学繊維とは違い、加工に有機溶剤を使わないし、微生物によって分解される生分解性も備えているから、環境への負荷も小さい。マイクロプラスチックのような問題は生じないんです」
「まさに夢の素材だ……。ところで、霧島さんは蜘蛛を飼っていらっしゃらないんですか?」と堂島は尋ねた。
「オフィスではジョロウグモとコガネグモを飼っていますが、ここでは飼っていません。妻が蜘蛛嫌いだったもので……。まあ、蜘蛛が平気な女性というのは、ごく稀な存在なのかもしれませんね」
「先日、その稀な女性に会いましたよ。銀製の蜘蛛のブローチをしていて、昆虫の生態にも詳しかった」と柏木が言った。
「是非会ってみたいですね」
「きっと話が弾むと思いますよ。昆虫には紫外線が見えることも知っていたし、偏光と自然光を見分けられると知って興味津々でしたからね」
「なるほど、それはすばらしい。世の中には、そんな女性もいるんですね……」
「コガネグモといえば、紫外線を反射する糸と、反射しないで吸収する糸を使い分けていることをご存じでしたか?」と柏木は尋ねた。
「いえ、絹糸に比べて、蜘蛛の糸が紫外線に対して高い耐性を持っていることは把握していますが、紫外線の反射、吸収については調べたことがなかったですね」
「霧島さんが飼われているコガネグモの網にも、ジグザグの模様があるんじゃないかと思うんですが、いかがでしょう?」
「ええ、確かに。ジグザク模様の帯がX型になっていて、その真ん中に蜘蛛がいますね」
「あれを隠れ帯、スタビリメンタムなどと呼ぶんですが、あの模様を作っている糸と、コガネグモの本体が、紫外線を反射しているんです。それで、海外の実験ですが、あの模様が多いほど網にかかる獲物の数が増えるというデータがあって、紫外線の反射を利用して獲物を捕まえているのではないかという説があるんです。花の蜜を求める昆虫は、紫外線を反射する花弁にまず引きつけられ、さらに蜜のある紫外線吸収部に誘導されるので、その習性を利用しているのではないか、というわけです」
「なるほど、面白いですね」
「他には、鳥も紫外線が見えるので、鳥にぶつかられて網を破られないようにしているのだという説もあります。効果が一つとは限らないんだから、両方の役に立っているとしておいて構わないように思ういますが」
「紫外線の反射、吸収か……、ジョロウグモの糸の場合、太陽光の強度に近い紫外線を照射すると、一時的に強度が上昇するというデータもあるし、紫外線の吸収率と強度の相関を調べてみるべきかもしれませんね……」
二人の研究者のやり取りはさらに一時間以上続き、堂島と柏木が霧島のもとを辞したのは、午後八時をまわってからだった。
「すみません、すっかり話し込んでしまって」
駅に向かって夜道を急ぎながら柏木が言った。
「いいんですよ。こちらがお願いしたんですから……。それで、霧島氏の印象はいかがでしたか?」
「非常に優秀な研究者ですね……。そして、今回の事件については、残念ながら彼が夫人を絞殺した犯人だと思います」と、柏木は沈んだ声で答えた。
「確かですか?」
「ええ、恐らく。遺体はそのまま保管されているんでしたね? これから言う物質が遺体に付着していないか、前園君に調べてもらってください。殺害のトリックはそれで解明できるはずです」
翌々日の午後十時に、柏木と堂島は堂島の運転する捜査車両で再び霧島の自宅を訪れた。帰宅の時刻は、事前に霧島の会社に電話を入れて確認済みだった。
リビングに通されるなり、堂島は逮捕状を霧島に示しながら言った。
「霧島豊さん、あなたを妻、霧島恵子さんを殺害した容疑で逮捕します」
「そうですか……。先日柏木さんと一緒にいらした時から、こうなりそうな予感はしていました」
霧島は淡々した口調で答えた。
「僕の推理を申し上げますから、もし間違っているところがあったらご指摘願えますか?」
柏木の言葉に、霧島は静かにうなずいた。
「わかりました」
「出張に出かける前に、あなたはコーヒーを飲んでいた恵子さんを吸入麻酔薬で昏睡させ、首に人工の蜘蛛の糸で作った紐を巻きつけておいた。蜘蛛の糸の欠点は水に濡れると縮んでしまうことだから、実用化に向けて、水に対する収縮特性の異なる糸を何種類も合成したはずだ。収縮性の低い糸が見つかる一方で、強靭で収縮性の高い糸も見つかったことでしょう。そんな実用には不向きな糸が、今回の犯罪では絶好の凶器となったわけですね。それからあなたは恵子さんの衣服にコーヒーをこぼしておいた。昏睡から覚めた彼女は、居眠りをしてコーヒーをこぼしたのだと考えたことでしょう。あなたが出張すると知って、彼女は大和俊二と会う約束をしていた。彼女が急いで身支度を整えようとシャワーを浴びると、首に巻いてあった紐が収縮し、彼女は窒息した。―ベテランの堂島警部補が感じた違和感の原因はここにありました。つまり、通常は紐を左右に引いて首を絞めるのに、今回は紐そのものが縮んで首に食い込んだ」
「さすがだ。その通りです……。逮捕状があるということは、証拠も見つけられたんですね?」
「遺体の首の傷跡から、タンパク質の分解酵素が検出されています。首に深く食い込んだ紐を不自然な痕跡を残すことなく外すために、分解酵素を使ったんですね。蜘蛛の糸がタンパク質でできているからこそ可能な方法だ」
「水に濡れると蜘蛛の糸が縮むことをよくご存じでしたね」と霧島が言った。
「先日、こちらにうかがう途中でジョロウグモを見かけた時、昔やった悪戯のことを思い出したんです」
「どんな悪戯ですか?」
「中学二年の水泳大会の時、待ち時間が長くて退屈だったから、フェンスの上で網を張っていたジョロウグモを捕まえたんです。それで、ふと絹糸のようなものが採れないかと思いついて、尻のところの糸疣から糸を引き出して、人差し指に巻きつけてみたんです。何十周も巻いてゆくと、黄色い指輪のようなものができました。金色がかって見える光沢があって、なかなか綺麗でしたよ。ジョロウグモの糸が黄色いことに気づいたのは、その時が初めてでした。丁度その時出番がまわってきて、糸を巻きつけたままプールに入ったら、急に糸が縮んで、痛いくらいに指が絞めつけられたんです」
「ジョロウグモの糸は、収縮率がおよそ五〇パーセントですからね。面白い偶然だな。僕も小学生の頃、柏木さんと同じような悪戯をしたことがるんです。さすがに、水に濡らしはしませんでしたが。思えば、あれが蜘蛛の糸に関心を持つきっかけだったのかもしれません」
霧島は懐かしそうにそう答えると、少し間を置いてから話を続けた。
「一週間前、妻が僕の会社に貸しつけている七千万を引き揚げると言い出しましてね。紡糸押出機を二台、新たに買い入れたばかりのところだったんです。資金繰りが苦しくなるから、せめて一月待って欲しいと頼んでも、一向に耳を貸そうとしなかった。大和俊二が立ち上げるAI関連のベンチャー企業に出資するつもりだったようです。こちらは資金繰りが行き詰まったら、業務提携がお流れになるどころじゃない、会社そのものがお終いだった」
「恵子さんを思いとどまらせるのは不可能だと考えて、今回の犯行を思い立ったんですね?」
「ええ。実はこのところ、悪夢にうなされるようになっていましてね。蜘蛛になった自分が、妻の首を絞めているんです。彼女を殺したところで、別にどうということもないと思っていたんですが、心というのは、想像していたよりもはるかに脆いものですね。とはいえ、進んで自首する勇気は、私にはありませんでした……。柏木さん、お会いできて本当によかった」
「霧島さん、必ず再起してください。あなたのように優秀な研究者がキャリアを絶たれてしまうのは、社会的な損失だ」
「ありがとうございます。ああそうだ、話がそれますが、見た目が少しばかり派手なだけでジョロウグモというのは、いくらなんでもあんまりだと思いませんか?」
「ジョロウグモの名前は、高級女官の上臈から来たという説もあります。それなら蔑称ということにはならないでしょう」
「そうですか、それはよかった……」
霧島は微笑みながら柏木に歩み寄ると、握手を求めて右手を差し出した。
エピローグ
柏木祐介氏の事件簿もいよいよ終わりに近づいてきた。二年足らずの間に六件もの事件を解決できたのは、彼の才能もさることながら、たとえ都会であっても、実に様々な昆虫が我々とともに暮らしているからだろう。
昆虫は我々と同じ世界で生きながらも、我々とは異なったものを見、異なった音を聴き、我々には嗅ぎ取れない匂いを嗅ぎ取って、そこに我々の知らない意味を見出しているのだと、柏木氏は繰り返し語っている。この事件簿をお読みになった方々はすでにご承知であろうが、昆虫たちは我々の想像をはるかに超えた能力をその小さな体に備えている。
ヒトリガ(火取蛾)の超音波感知能力と回避行動は事件簿にも登場したが、柏木氏によると、ヒトリガ科の多くはさらに、コウモリに対して自ら超音波を発することまでして身を守っている。この超音波には、自分が有毒であることを警告する、相手を驚かせる、相手が行なっている反響定位を妨害する、という三つの効果があると見られている。しかも、超音波を発する能力を持つヒトリガの中には、超音波を求愛行動に利用するものまで存在するというのだ。雌の性フェロモンに反応して雄が超音波を発すると、雌も超音波で応える、これによって雄は雌を定位し、交尾に至る。超音波センサーによる生き残りをかけた空中戦の一方で、我々の耳には聞こえない愛のささやきが、密やかに交わされていたのである。
それにしても、最先端の捜査機器でも発見できなかった証拠が、昆虫を介して見出されるとは、何と痛快なことだろう。柏木氏のおかげで、我々は昆虫という新たな目撃者と捜査官を得たのだ。もちろん、断片的な事実から真実に到達するのに、研究活動とチェスで培った、柏木氏の精緻な分析力と論理構成能力が不可欠であることは言を俟たない。
さて、序章に書いた通り、ここで私が何者であるかをお伝えしておこう。私の名は門脇佑馬、東大で柏木氏とともにチェスサークルに在籍し、彼に建部綾足の『折々草』に出てくる怪死事件の話を聞かせた者だ。最初の事件の記事を週刊誌に掲載した際に名を伏せたのは、普段の私が怪異譚や幻想小説の執筆を旨としているので、事件簿に虚構が交えてあると受け取られることを恐れたからだった。しかし、ここまでお読みいただいた方々に、その心配はもはや無用だろう。柏木祐介と昆虫の名コンビが、今後も数々の事件を解決してゆくであろうことを、私は信じて疑わない。柏木氏の新たな活躍をお伝えする日を楽しみに、ひとまずここで筆を置くことにしよう。