プリンと口裂け女【シリーズ・白根美紅】
高校から帰ってくるなり冷蔵庫を開けたミク(本名・白根美紅)は、直後に階段を踏み抜くような勢いで二階へと駆け上がると、蹴り破らんばかりの激しさでドアを押し開け、声を絞り出した。
「お兄ちゃんっ、どうして私のプリン食べちゃうの!」
「……おかえり」
パソコンで作曲に勤しんでいた兄は、背もたれに身体を預けながら穏やかに出迎える。
「おかえりじゃないよっ。プリンなの、プ・リ・ン!」
「わかった。次にお前が帰ってきた時はプリンって言うよ」
「挨拶じゃなくてっ。私が楽しみに取っておいたプリンを、どうして食べちゃったのかって聞いてるの! ご丁寧に名前まで書いておいたっていうのにっ」
妹の剣幕に焦りは見せなかったものの、その言い分に何やら思うところがあったのか、兄は少しだけ眉根を寄せた神妙な面持ちになると、動く度に悲鳴を上げる椅子から立ち上がって距離を縮めた。
「……ミクよ」
「な、なに?」
穏やか過ぎる反応が逆に不気味なのか、ミクは半歩身を引いて身構えた。彼女の側は肉弾戦も辞さない姿勢だ。
「座りなさい」
一方の兄は、激しい感情など一切感じさせることのない抑えた口ぶりでカーペットの一点を指差す。強くも怖くもない筈なのだが、どこか有無を言わせぬ雰囲気に圧されたのか、妹は渋々といった表情ながらも素直に正座をした。そんな彼女と少し――みかん箱一つ分くらいの距離を置いて、兄も同じように正座をする。妙に真剣な面持ちで向かい合う二人の姿は、これから囲碁か将棋の対局でも始まろうかという情景にも映った。
「ミクは、口裂け女を知っているか?」
「聞いたことはあるけど……」
口裂け女の名前が日本中を席巻したのは七十年代終盤から八十年代というところである。その当時生まれてもいなかった彼女が詳しい実情を知っている道理もない。その名を辛うじて耳にしたことがあったのは、有名な都市伝説の一つとしての知名度があればこそだろう。
もちろん、この経緯で口裂け女が登場する理由など、この兄と神にしかわかろう筈もない。
「ちょっと解説しておくと、この噂は当時の小学生を中心に広く流行ったものでな、歩いていると大きなマスクをした女性に声を掛けられ『私、キレイ?』と聞かれるんだ。キレイと答えるとマスクを外し、大きく裂けた口を見せながら、これでもかと聞いてくる。あるいは大きな口で食べられるとかっていうパターンもあったな」
「じゃあ、キレイじゃないって答えたら?」
「逆上した口裂け女に鎌や鋏で切り殺される、だったかな」
「どっちしろダメじゃん」
「だからそういうもんなの、口裂け女ってのは。んで、お前はこの話を信じるか?」
「は? 単なる噂でしょ、それ」
その当然すぎる返答に、兄の口元が釣り上がる。
「まぁそれが普通だわな。だが、それが真剣に、しかも大人まで巻き込んで信じられていた時期がある。実際に目撃証言から警察が動いたという記録も残っている。当時の小学生が夕方以降の外出を極端に避けたりという現象まで起こったほどだ」
「はー、凄い時代もあったもんだねー」
「口裂け女の起源には諸説あるんだが、信憑性が高いとされているのは大人が子供に対する戒めとして流布させたという説かな。岐阜だったかに元となる逸話というか昔話的な伝承があるらしいんだけど、それを原型としたかどうかはともかく、中部地域を発祥としているのは確かなようだね。だけど、この話は子供達にとって予想以上に効果的だった。恐らく、大人の嘘を子供に信じ込ませたという点において、最も成功した例の一つだと言えるだろうね」
「今でも残ってるくらいだから、当時はどんなだったんだろ」
小首を傾げる妹に、兄は頭を振って応じる。
「さすがに当時の感覚までは何ともわからんね。やがてこの噂は、色々な者達の思惑と都合を乗せて勝手に成長を始めた。恐怖の象徴としての彼女は強大な力とスピードを備え、まさしく化け物へと変じ、同時に対抗策としての対処法も確立していった」
「対処法?」
「キレイと聞かれたら普通と答えるとか、ポマードが苦手だからポマードと三回唱えると逃げていくとか、べっこう飴が好きだから与えると夢中で舐め出すから隙が出来るとか、そんな類の話だよ。驚くだろうが、当時の小学生はリアルにこの噂を信じていたらしい。もちろん、全員じゃなかっただろうが」
「それだけ怖かったってことでしょ?」
「そう、そういうことだ」
我が意を得たりとでも言いたげな顔で、兄はポンと一つ手を叩く。
「出所はともかく、この噂が広がったのは大人の都合だった。子供達を効率的に家へ戻すために、この噂がとても都合の良い話だったからだ。そして広がりすぎ、あまりに浸透が進みすぎた結果、今度は怯える子供達の都合から修正が加えられた。あるいは大人が入れ知恵をしたのかもしれないが、いずれにしても口裂け女は、数多くの欠点や弱点を有する凶悪な化け物へとなってしまったわけさ。結局、様々な後付設定を抱えさせられた挙句、心に病を患った何だか可哀想な人という設定に落ち着いて噂も収束している。身勝手な思惑に振り回されたという点では、確かに可哀想と言えるかもしれないな」
「そう、かもね」
「人間は嘘を吐く。問題は、その嘘が自分にとって都合が良かった時、それが嘘かどうかも考えずに信じ込んでしまうことだ。そのためにどれほどの真実が傷付いているのか、知ろうともせずにね」
兄の言葉に、妹は息を呑む。
ここに至って、話がようやく繋がったことはを理解したからだ。思い込みが生まれる時、重要なのは真実ではない。そうであれば良いという安心感や納まりの良いスッキリ感が必要なだけだ。
ミクという名前とパソコンでの作曲から『何だ、ボー○ロイドか』と判断するのも、立派な決め付けである。もちろん、決め付けが不正解であるかどうかは別の話だ。というか、大抵の場合は当たっているワケだが。
「……ゴメン、お兄ちゃん」
「うん?」
「いきなり疑ったことは謝るよ」
「そっか。わかればいいんだ」
二人の間に、いつもの穏やかな雰囲気が戻る。
「で、プリンは食べたの?」
「うん、食べた」
無言のまま渾身の牙突(零式)が兄の顔面中央に炸裂する。もし彼女が得物を持っていたら、間違いなく頭がなくなっていただろう。もはや痛いとかいうレベルではない。意識と記憶をゴッソリ奪われるような一撃であった。
「い……痛いぞ、妹よ」
「下らない嘘を吐くお兄ちゃんが悪いんでしょ!」
「嘘なんて吐いてないぞ。都合の良い話で煙に撒こうとしただけだ」
「余計悪いわっ!」
兄は嘘を吐かなかった、それは事実である。
しかし、食べ物の恨みは恐ろしいという真実を、もう少し知っておくべきであった。
え、初○ミクなんて知りませんよ。
曲なんて一つも聴いたことないし。
あれ、何で嘘ってバレたし(笑)