第一章 最悪の出会い①
「着替え終わった?」
ほんの少しだけ開いた扉から先程の男性の声だけが聞こえてくる。部屋の中にいるアローラに声が届くように配慮されたその行動は、口調とは異なり優しい気遣いであった。
「あっ……はい。終わりました。」
「中に入っていい?」
「はい。」
アローラの声にすぐに反応するかのように扉が開かれ、先程の男性が部屋に入ってくる。彼はアローラを横目に見つつ、椅子に座るように伝えると、そのままキッチンに立ってしまった。
アローラが言われるまま椅子に腰掛けると、暫くして机に何か置かれる音がする。顔を上げると目の前には湯気をたたえたミルクが置かれていた。
「ホットミルクだ。雨に打たれて身体が冷えただろ?これ飲んで少しは温まれ。」
「ありがとうございます。あの……お気遣いは結構です。すぐに立ち去りますので。」
アローラが慌てて席を立てば、男性はアローラの手を掴みそれを引き止めた。
「その格好で出歩く気?いくら治安がよくても、こんな格好で外に出たら襲ってくれと言っているようなもんだろ?」
「……誰も私なんかに手を出す者はいません。」
「お前さ、この部屋に入ってきてからもずっと俯いてばかりで。身なりからしてそれなりの身分の令嬢だろ?」
「……はい。」
「どうしてそんな格好でお供もつれず一人で歩いているんだ?」
「…………」
何も答えないアローラに男性は深いため息を吐いた。そのため息の次はアローラの見た目をバカにするに決まっている。アローラは降りかかる悪意に耐えるようにまた俯き手を膝の上で握り、覚悟を決める。しかし続く言葉はアローラの予想を反していた。
「悪い。名乗りもせずいろいろ聞きすぎた。俺はリム。ここで小さな店をやっている。歳は25歳だ。まあとりあえずそれ飲んで落ち着け。それうまいんだから。」
予想とは違う自己紹介に戸惑い言葉も出ないアローラは、促されるままミルクを口に含む。ミルクの味は濃く、ほのかに甘い。その後に少しピリリとする刺激が喉を通れば、身体がポカポカ温まる感覚を覚えた。
「美味しい……」
「だろ?はちみつで甘さを足して、ジンジャーを少し入れてあるんだ。ジンジャーは身体を温める。こうやって冷えた身体を温めるのには最適だ。」
そう言うとリムと名乗った青年は楽しそうに笑った。仏頂面だったリムがこんなにも楽しそうに笑うことにアローラは驚きつつ、覚悟を決めるようにカップを持つ手に力を込めた。
「アローラ……」
小さくか細い声で名前を告げれば、アローラはまた俯いた。名前を告げたことなど最近は全く経験しておらず、自分の名前なのに何故か告げたことが恥ずかしく思えていた。
「アローラか。いい名前じゃん!」
俯いていたから顔は分からないが、その弾むような声は本当にアローラの名前を誉めているような気がする。名前を聞かれることも最近はなかったからこそ、純粋に名前を誉めてくれるリムの反応をアローラは異様に感じてしまっていた。
「どうして……こんな……」
「何?」
「どうして……私なんかの名前を聞くんですか?」
「えっ?!」
「私の名前なんて聞いてくる人などいません。」
「いや、初対面なら普通聞くだろ?」
ただいい名前だと誉めただけなのに、アローラは俯いたままで喜ぶこともしない。それどころか名前を聞くことを尋ねてくるなど、ありえない反応にリムは困惑していた。まず出会ったら自己紹介が最初だ。自分が名乗らなかったこそアローラが話してくれないと考えていたのに、名乗ってもなお俯くアローラを理解できなかった。
正直面倒臭いと思いながらも、それでもこのまま外に出せばまたどこか別の場所で雨に濡れる気がして追い出せず、リムはもう少しアローラに付き合うことにしてみたが、こんなに会話が噛み合わないのは人生で初めてなため、手探りでの会話となっていた。
「あなたは……私のことをご存知ではなくて?」
リムの先程の返しには答えず、全く別の会話をアローラは始める。リムは益々付き合いにくいと考えつつとりあえず会話を続けることにした。
「悪いな。俺は貴族なんかに興味ないから知らねぇ。」
「……貴族でなくても知ってる人は多いわ。」
小さい声は益々小さくなる一方で、リムは面倒臭いと感じつつも彼女の会話に興味が出て来たため、アローラに少し近づいて耳を澄まし彼女の声を聞くことにした。
「へぇ。お前有名人なの?何して有名になったんだよ。」
興味津々に尋ねるリムとは反対に、アローラはリムが興味を持っても俯いたまま顔を上げることはしなかった。
「…………くるるん令嬢」
「はっ?」
「くるるん令嬢。……貴方はこの名前……聞いたことはないの?」
口調はキツかったが、アローラの手は小刻みに震えていた。まるで声に出したくもないと表しているその態度に、リムはアローラが話している内容を理解した。
「まさか……お前、そんな名前で呼ばれているのか?」
アローラはその問いかけにただ静かに頷いた。もちろん俯いたままだ。
「貴族社会は皆、私のことをそう呼ぶわ。他にも様々な呼び名はあるけど……」
今日新たに付けられた「毛玉令嬢」のことは流石に言えなかった。本当は「くるるん令嬢」だって言いたくはない。何年も言われ続けて、諦めてしまったからこそ、ようやく自分の口から言えるようになったぐらいだ。
「お前それ……、髪のことを言われてるのか?……もしかして……お前、名前を聞かれたことがないのか?」
「そうよ。名前なんて聞く必要ないの。だって私の名前は……すでに別の名前で知られているから。」
自分が言ってて余りにも惨めになる。親から与えられた大切な名前は知られず、揶揄われた名前が覚えられる。アローラという存在を消されたようで、アローラの髪だけがこの社会で生きているかのような錯覚に陥りそうで、それが苦しい。アローラは感情を抑えることができず、俯いたまま涙を流していた。
「くだらねぇ。」
そんなアローラに容赦なく冷たい言葉が突き刺さる。リムから発せられたその言葉はアローラの存在を否定するようで、その途端アローラは瞬時に怒りの感情が爆発し、泣き腫らしている顔などお構いなしに顔を上げるとリムをキツく睨んだ。
「くだらないって何よ!!」
慎ましやかな女性でなければならない貴族令嬢にとって、感情を爆発させるなどあり得ないことだが、アローラは我慢することなどできなかった。
俯いていたアローラが急に顔を上げるため普通は驚くはずだが、睨みつけられたリムは何故か驚くことをせず、何かにイラついているような顔をしていた。
「俺がくだらないって言ったのはお前のことじゃない。そんな陰口たたく奴のことだ。」
はっきりと強い口調で紡がれる言葉は、アローラの予想に反していた。
「えっ……」
聞き間違いかと思いアローラの思考は停止する。今まで同調する者はいても、アローラを傷付ける言葉に反論する者などいなかったからだ。
「だから貴族は嫌いなんだ。見てくれだけで判断して、着飾ることに精を出し、上に取り入ることばかり考える。どれだけ愚かなことか理解していない輩ばかりだ。」
「えっと……」
「お前もな、そんな奴の言葉でいちいち傷付くなよ。もっと自分に自信を持て!」
励まされていることは分かる。こんな風に声を掛けられたことだって両親以外では初めてかもしれない。だけどアローラはどうしてかその言葉に怒りを覚えていた。
「いちいち傷付くなですって?!自分に自信を持て?!あなたは私のことなんて何も知らないのに、綺麗事ばかり言わないで!!」
励ましたはずなのに怒られるため、流石のリムも目を丸くしている。
リムの顔を見た瞬間、頭に血が昇っていたアローラは瞬時に我に返る。励ましてくれたはずの人にあろうことか八つ当たりのように怒るなど、人として最低なことをしてしまった。こんなにもアローラ自身を見てくれた数少ない人の優しさを踏みにじむ行為に、冷静になったアローラは顔を真っ青にさせると、威勢の良さはどこかへ消え去り、再び先程のように俯いてしまった。
アローラが怒ってからリムは何も言い返さず、部屋は静寂に包まれる。
アローラは自身の愚かさにこれ以上耐えることは限界と感じ、部屋から出て行こうとした矢先、ドアチャイムの鈴の音が鳴った。
「悪い。誰か来たみたいだ。……対応してくる。」
ドアチャイムの鈴は玄関の扉に取り付けられており、扉が開けば鈴が鳴るようになっていた。つまり誰かがこの家に入って来たことを意味していた。
今すぐこの部屋から抜け出したかったが、抜け出すためにはリムと来客の前を通らなくてはいけない。これ以上惨めな姿を見せたくなかったアローラは動くこともできず、ただ俯いてリムが戻ってくるのを待つしかなかった。
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