橘リッカ
時計を見ると午前4時半だった。
上のベッドではユカイが寝息を立てている。
そっと布団を脱け出すと、俺はNKUの制服を着て、音を立てずにハッチを開けて外へ出た。
待ちきれなかった。なぜかはわからないが、リッカに会えることが楽しみで仕方なかった。
さる……山田先輩は昨日、帰って来なかった。べつに心配はしていない。
いつものことだ。先輩は何か隊長に報告しにくいことをしでかしてしまった時には、とにかく逃げる。
ブリキを逃してしまったことをどやされるのを恐れて、おそらく言い訳ができなくなる瀬戸際まで帰ってこないつもりだろう。
外へ出るとまだ暗かった。しかし東の空は夜が白く溶けはじめている。
とりあえず湖へ行ってみることにした。もうリッカが来てくれているかもしれない。彼女がいなくても、マオがいるかもしれない。
誰もいなかった。
俺は岩の上に腰を下ろした。
森が静かな音を立てて揺れている。夜が明けるまであと1時間はあるだろう。俺はリッカの顔を想像しながら待った。
マコトさんに続いて、産まれてから見る二人目の女性だ。
やはりマコトさんのように、トゲトゲしているのだろうか。やはりマコトさんのように、強いのだろうか。やはりマコトさんのように、いい匂いがして、綺麗で、仲良くなりたいと、苦しいほどに思ってしまうのだろうか。
足音がした。まだ辺りは暗い。
「……リッカ?」
俺が声を投げると、不吉な唸り声が聞こえた。
闇の中から、薄明るくなりはじめた空の下に、そいつが姿を現した。太い四肢、立派な体躯、鋭い牙を見せつけて、黄色に黒い縦縞の入ったその大型の獣は、草を踏んでまっすぐに俺のほうへ歩いてくる。
それは見たこともない、いかにも凶暴な姿をした獣だった。
口の中で涎を反芻させるような音を立てて、俺に迫ってくる。
俺は死神に魅入られたように足が動かなかった。
慌てて腰からマタタビ銃を抜くと、震える手で乱射するも、まったく当たらない。恐ろしい目で俺をまっすぐ睨みながら、それはじりじりと距離を詰めてくる。
遂に俺のすぐ近くまでくると、怒り狂った嵐のような大声をあげ、そいつが俺に飛びかかってきた。
手足がバラバラになったような動きで俺は、しかし逃げられなかった。
泣きながら悲鳴をあげた時、後ろから透き通るような声が響いた。
「ママ! アウア、ブリニャッピ!」
獣の動きが止まった。
顔は俺の顔と向き合い、至近距離だ。
ドッキリ大成功のようにニヤリと笑うと、ぶっとい声でそいつは言った。
「イーきにー」
「ひゃひ!?」
俺は情けない声を出してしまった。
後ろから近づいてくる足音がする。さっきの透き通った声の主だろう。
俺は獣から目を離せずにいたが、おそるおそると、なんとか振り向いて、その人を見た。
あれは誰の作ってくれた絵本だったのだろう。
俺は子供の頃、その絵本が大好きだった。
他の大半の人間と同じく、人工子宮装置の中で産まれた俺は、両親を知らない。
だからあれは誰か育児施設の職員だったのだろう。その誰かが手作りをして、読んでくれた絵本があった。
そこに描かれた月の女神に、子供心に俺は恋をしていた。
長い黒髪、細い身体、透き通るような白いロングドレスを身に纏い、慈愛に満ちた優しいその顔は、細面だった。
その月の女神が、今、俺の目の前に、立っていた。
「あなたがミチタカ?」
月の女神が、喋った。
「私、リッカよ」
俺は驚きにしばらくの間、口をパクパクさせていた。
何も言わない俺のことを不思議そうに見つめる彼女の、優しい切れ長の目が、眩しすぎる月明かりのようで。
「どうしたの?」
リッカがまたその可愛い唇を開いた。
「……もしかしてミチタカじゃ……ないの?」
「俺! 俺俺! 俺だよ、俺!」
俺は挙動不審になってしまった。
「俺、ミチタカ! 冴木ミチタカです!」
「よかった」
リッカが背中から白い光を放って笑う。
「会えたね、ミチタカ」
後頭部を舐められた。振り向くと、さっきの獣が口を開けて、俺を食おうとしていた。
「わあっ!」
「大丈夫よ、怖くない」
リッカが後ろからくすくすと笑った。
「優しい虎だから」
「と……、虎!?」
その動物の名前は聞いたことがあった。見るのは初めてだったが。
確か、猫の仲間で、特別獰猛で、人間でも食ってしまうやつだ。
からかうように意地悪な笑顔を浮かべる虎が、俺の鼻に鼻をくっつけてくる。
「こ……、この虎さんは……リッカの知り合い?」
俺が聞くと、彼女は俺を落ち着かせてくれるような声で、教えてくれた。
「私のママよ」
「ママ!?」
「ええ」
リッカが何でもないことを口にするように、くすくすと笑いながら、言った。
「私は虎に育てられた人間なの」




