◆◆◆◆ 8-53 逃亡者 ◆◆◆◆
【 グンム 】
「……ふぁあっ……」
グンムが翠軍の幕舎で目を覚ましたのは、すでに日も落ちたころだった。
【 グンム 】
「やれやれ、もう真っ暗じゃねぇか」
ちらりと外を見て、ぼやくグンム。
【 グンム 】
「……いくらなんでも、ちと効きすぎたな、あの薬」
グンムがヤクモの前で無防備にすやすやと眠ってみせたのは――気が緩んだのも事実ではあったにせよ――あらかじめ飲んでおいた眠り薬のおかげであった。
胆力をヤクモに見せつけるためとはいえ、いささかやりすぎだったかもしれない。
【 グンム 】
(眠ってる間に胴と頭がおさらばして、二度と目が覚めないかとも思ったが……ま、そこは乗り切ったか)
しかし、安堵している暇もない。
対岸では、すでにコトが起きている頃だろう。
【 グンム 】
(さて、どうなってるやら?)
グンムは、先日のシュレイとのやりとりを思い出す――
【 シュレイ 】
「――人間の本質は、追い詰められたときにこそ、否応なく出てくるものです」
【 シュレイ 】
「その意味でいえば、烙宰相の本質は――“逃げ”にこそありましょう」
【 グンム 】
「ふむ……? しかし、逃げ足が速いっていうのは、悪いことじゃあるまい」
【 シュレイ 】
「ごもっともです。凡人は、土壇場に追い込まれてしまうと、そもそも決断することすら容易ではありません」
【 シュレイ 】
「ただただ、なんとかなる、なるはず……と根拠のない楽観に身を任せたあげく、結果的に破滅に陥るものです」
【 グンム 】
「だが、宰相はそうではあるまい?」
【 シュレイ 】
「はい、やはり只者ではありません。生涯で幾度か陥った窮地から、ことごとく生還しております」
【 シュレイ 】
「その本質は、後のことはあれこれ考えず、すべてを捨てて逃げ出せる思い切りの良さ――これに尽きるといえましょう」
【 グンム 】
「ま、なかなか、すべてを捨てるってのは簡単じゃないからな」
【 シュレイ 】
「ええ。たとえば〈三氏の乱〉の際、あの方は敵方の奇襲を受けて、あやうく一族皆殺しに遭うところでしたが……」
【 シュレイ 】
「ためらうことなく身ひとつで脱出し、無事に生き延びることができたのです」
【 シュレイ 】
「……その際、見捨てられた妻子眷属は、ことごとく殺戮されましたが」
【 グンム 】
「…………」
【 シュレイ 】
「そのような御仁なので、窮地に陥った場合……逃げ出す公算は大といえます」
【 グンム 】
「ふむ……それで?」
【 シュレイ 】
「三十六計、逃げるにしかず――というくらいで、確かに逃亡は妙策です」
【 シュレイ 】
「……が、つねにそうとは限りません」
【 グンム 】
「……やれるか?」
【 シュレイ 】
「…………」
楽・シュレイは、無言で一礼した。
【 レツドウ 】
(おのれっ……こんなことならば、あやつをそばに置いておくべきであったかっ……?)
【 レツドウ 】
(いや、あやつとて、あるいはっ……)
【 馬 】
「……ヒヒィンッ……!」
【 レツドウ 】
「ぬっ……?」
突然、レツドウを乗せた馬が足を止めた。
その先には――
【 レツドウ 】
「…………!」
まがまがしい妖気をまとったドス黒い影が、立ちはだかっている。
漆黒の馬にまたがった人影が、言葉を発した。
【 黒い影 】
『――久しいな、レツドウ――』
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