§階は現。
「何で泣いてんのさ。死んだんなら焼却炉に入れればいいでしょ?そしたら生き返るんだからさ」
玻菜はそう言って僕らを地下の部屋へと案内した。
壁のない、骨組みだけのエレベーター。
Z、α、Ω、謎の記号に並ぶ3のボタンを押せば、扉は閉じて上に上がる。
グンッという反動の後に訪れる重力。
手を出せば斬られてしまいそうなほど目の前の景色が勢いよく変わる。
僕は香羽を両腕に抱えてその恐怖にジッと耐えた。
頭から血を流し、目を覚まさなくなった、冷たい彼女。
再びグンッという浮遊感に襲われた直後、扉が開いた。
戸惑っていれば挟まれてしまいそうで、急いで飛び出れば扉はギロチンの如く殺人的に閉まり、下へ降りていった。
ホッと1つ息をついて正面を向く。
錆びついた廃墟のような場所。
上に上がったはずなのに地下にしか見えない。
何本ものパイプが壁に張り付き、頼りない豆電球が不定期にぶら下がっている。
いつ崩れてもおかしくないそこ。
灰色の世界。
先の見えない闇に橘月は一歩踏み出した。
そういえばどうして地下にいたのか。
何故香羽が死んでいるのか。
何1つ覚えていない。
そもそもここは何処なのか、それすら分からない。
ただ1つ確信しているのは香羽を生き返らせなければいけないということで、胸の中でモヤモヤとしたこの感覚は罪悪感なのだと。
彼女が息をしなくなったのは自分のせいだということだけが分かっていた。
暗い道を進んでいくと2つの道に分かれた。
片方はすぐに扉に繋がっており、怪しげに緑色に光っている。
もう片方は更に闇に続いており、直感的にそちらに行くべきだと思った。
香羽を抱えなおして、更に奥へ。
一歩進むごとに靴の音が反響して高く響く。
不気味なそこは時折雨音も鳴らし、橘月は何度引き返したくなったか分からなかった。
しばらく歩いて、ようやく景色に変化が現れる。
幾つもの四角い鉄の箱が1本の縄で繋がれている。
橘月はほぼ無意識にその1つの箱を開けて香羽を入れた。
刹那、機械音。
歯車が回る音やエンジンがかかる音が聞こえ、箱が縄に引っ張られ奥へと持っていかれた。
今更ながら玻菜が言う“焼却炉”という言葉に違和感を覚える。
ふつう焼却炉はゴミを燃やすもの。
玻菜はそれに入れれば死者を生き返らせることができるというが、それならば焼却炉という名は不謹慎なのではないか。
しかしそんな考えはすぐに一掃された。
元気になった香羽が奥の方から歩いてきたのだ。
「ごめんね、迷惑かけちゃって」
一度死んだはずの彼女は至極当然のように生き返った。
ふわりと花のような微笑みは間違いなく彼女のもので。
言及するよりも何よりも嬉しさの方が優ってしまって。
「…っごめ、ごめんっっ!!香羽ぇぇ…っ!」
僕は泣きながら彼女に抱きついた。
それまでの常識なんて知らない。
この”焼却炉“に入れれば人が生き返る、それが今日から僕の常識になった。
*
この世界では人がよく死ぬ。
「今日は大荒れだね」
海が荒れたある日、焼却炉はよく燃えた。
「今日は雹が降るんだってさ」
夏場に降った雹、その日も焼却炉はよく燃えた。
僕と香羽はよく焼却炉を観に行った。
そこには警備員も管理人もいなくて、僕らは端の方へ腰掛けて永遠と奥に運ばれる鉄の箱を眺めた。
けれど、僕は誰かが死体を箱に入れる瞬間も、誰かが奥の方から戻ってくるところも見たことがない。
休まず動き続ける鉄の箱の中に何が入っているのか、見てみようとは思わなかった。
「香水、」
「ん?」
「買いに行こ」
「香水?」
「病んでるって、玻菜が」
「僕らのこと?」
「うん。気分転換しろって」
「香水はつけない主義なんだけどなァ」
ある日、香羽の提案で僕らは香水を買いに行くことにした。
そういえば久しく空を見ていない。
いつの間にか地下の住人になっていた。
エレベーターを降りて、違うエレベーターへ。
するとなにやら嬉しそうにエレベーターの前で記念撮影をしている観光客がいた。
そこは危ないのに。
案の定1人が降りてきたエレベーターに押しつぶされて血飛沫が舞う。
仲間たちが焦ったようにアタフタとした。
この世界のエレベーターには何故か最下位にバネがなく、床と直面している。
だから気づかずにその下にいれば潰されてしまう。
まあ、焼却炉に連れていけばいい話だ。
「あの、僕ら上に行くんで。エレベーターが退いたらその人を焼却炉に連れて行ってください」
真っ青な顔をした観光客の1人にそう言って、僕らはエレベーターに乗った。
§、∂、⌘、3、4
並ぶ記号のうちの4を押す。
そういえばエレベーターに潰された肉塊を全て箱に入れなきゃ元に戻らないのだろうか。
そんなことを頭の片隅で思ったけれどすぐに思考は目の前のボタンへと持っていかれる。
この変な記号のボタンを押せば何処に着くのか。
引き寄せられるように指を持って行って撫でれば、香羽が僕の手を掴んだ。
「そこは楽しくないから」
香羽の表情から察するに、動物がいる場所らしかった。
エレベーターを降りて雑貨屋に行くと、玻菜と玲六がいた。
蛍光ピンクと、蛍光イエローと、派手な物が所狭しと置かれているそこは物の多さの割にいつも何か物足りなく感じる。
もしかしたら曲がかかっていないことが原因かもしれない。
ラジオが拾う雑音のような音が耳障りではあるけれど。
「2人も帽子買いに来たの?」
玻菜がヘラリと笑う。
珍しく上機嫌。玲六がいるからだろうか。
しかし続けられた言葉に耳を疑った。
「あ、でも帽子はやめた方がいいよ。そろそろ“神さん“が起きるって噂。派手なもんつけて嫌われたらお終いだよぉ」
そう言って首をちょん切る仕草をしてケラケラ笑う。
「物騒だよなぁ」
玲六もそう言ってカラカラ笑った。
「そもそも帽子なんて買わないよ。帽子被ると呪われるって有名じゃん」
「福音?言い伝えだっけ?怖い話よね」
「いやいや、知ってるなら何で玻菜たちは帽子被ってんの?」
「だって生きるなら好きに生きたいじゃん?」
「だからって帽子ぐらい…」
「帽子ぐらいって、ホントに言ってんの?」
お揃いの黒のキャップをかぶる玻菜と玲六。
2人は仲良く手を繋いでいる。
その薬指にはめられた指輪に気づいた瞬間、心臓がドキリと跳ねた。
「そんなに特別な物なら最愛の人との証にぴったりでしょ?絶対手放さないね」
そう言って満面の笑みを浮かべた玻菜。
その笑顔には悪戯っ子のような、心底楽しんでいる色が伺えて羨ましく見えた。
機嫌の良さそうな2人は、じゃあねと手を振って店を後にした。
残された僕らは店の前で佇む。
心配そうな顔をした香羽が僕の顔を覗き込んだ。
「どうする?」
最愛の人との証。
その甘美な響きに魅了されてしまっている。
僕はゆっくりと首を振った。
どうせなら僕らも。
いや、それなら別の方法で。
「仮面、買お」
「え?」
「ほら、売ってるから。僕らの特別をつくろ」
僕が指差した先にあるのは、目の縁を紅い紅で塗った兎の面。
僕は何故か好みでもないその面に惹かれた。
「じゃあ、私はそれにするから。橘月はあれね」
香羽はそう言って兎の面と少し離れた場所を指差した。
そこにあったのは兎と同じような顔をした猫の面。
「うん、いいよ」
顔を見合わせて笑って。
それは幸せに満ちた笑顔で。
これから起きるであろう不幸から目を背けた一時だった。
*
まるでゲームのようだと。
死んだら焼却炉へ、何事もなかったかのように生き返る。
死に無頓着になった者たちはやがて、身を守ることを忘れた。
目の前で起きた死を平気で眺める。
僕も同じ。
香羽が死ねば焼却炉に連れて行き。
僕が死ねば香羽が焼却炉に連れて行く。
恐れのない幸せな生活。
そうして僕らは死を忘れて、常識を忘れて。
気づけば僕らは子どもを3人も持つ親になっていた。
*
「ママ、おかし!」
「だーめ。この前買ったばかりでしょ」
4歳の娘がお決まりのようにお菓子コーナーで足を止める。
ピンクのダウンジャケットを着て、季節は冬だ。
死のないこの世界に老いはなく、香羽の姿は変わらない。
しかし子どもたちはぐんぐん成長していく。
これもまた、この世界の常識。
「肉取ってきたー」
長男がそう言ってカゴを押してくる。
今年で15。
だいぶ男前になってきた。
「僕やさいとってきた!」
「ん?お願いした人参がないみたいだけど?」
「えぇ〜?だってパパも嫌いでしょお?」
ふにゃりと笑う次男は8歳。
垂れ目な瞳をさらに下げて誤魔化し笑いの息子は最近野菜嫌いが激しい。
「野菜食べなきゃ大きくなれないぞ?」
「いいもん。僕、かわいいから」
おませな奴だ。
たしかに可愛いこの息子は女子人気が高い。
それに僕自身も反抗的なのよりはこうやって甘えてくる方がかわいく思える。
まだ柔らかい髪質の彼の頭をクシャクシャと撫でた。
「かわいいのはいいけど、野菜食べなきゃ太るからね」
「ふとんないよー」
「太るよ。パパの友達はそれで最近悩んでいるらしい」
「だれぇ?」
「玻菜」
「あ…。僕、ちゃんとやさいたべる…」
「よしよし、いい子だ」
こんな会話玻菜に聞かれたら殺されるな、なんて。
これで素直になるこの子もこの子。
随分可愛らしく成長したものだ。
「ねぇ、パパ」
子どもたちが離れたのを見計らってそっと体を寄せる香羽。
小さな声は内緒話をする時と同じ。
「実は子どもたちに内緒でお酒買うつもりなんだけど」
今夜、2人きりでお喋りしよ?
そう言って悪戯っ子のように笑う僕の嫁が愛しいのなんのって。
幸せだと、感じざるを得ないじゃないか。
「久しぶりにオール?」
「それもいいね」
「僕お酒得意じゃないけど」
「それはお互い様でしょ」
うふふっ、楽しみだなぁ
そう言って嬉しそうに笑う香羽の頭を僕は先ほどと同じようにクシャクシャと撫でた。
しかし、僕らはその後、あの噂を思い出すことになる。
スーパーを出てすぐ、外がにわかに騒がしくなった。
どうやらビルの一部が欠けたらしく、男が下敷きになったとのこと。
そんなことかと様子を見ていたが、不意に嫌な気配がした。
「ママ、車とってくるね」
息子たちに荷物を預けた香羽が駐車場のあるそちらの方へと向かう。
瞬間、突風が吹いて欠けた所から更に破片が降り注いだ。
「香羽!」
いくら生き返るとはいえ心臓が縮むものだ。
瓦礫をもろ頭に食らった香羽が地面に倒れこむ。
慌てて駆け寄って彼女を抱き抱えればザワリと嫌な予感が全身を撫でた。
頭から血を流した彼女は固く目を閉ざしている。
「お前たちは車に荷物置いてこい!」
息子たちにそう言って駐車場の方へ行かせる。
香羽のこんな姿を見せたくないというのも1つあったが、何故だろう、いつもとは何かが違う。
焼却炉に行かないと。
そう思って足を動かした時、キンッと耳鳴りがした。
それは周りの人間も同じようで一様に耳を抑えている。
とにかく焼却炉へ。
それだけが頭を支配していた僕には聞こえなかった。
『これより吸収を行いまーす』
悪魔のような、その声が。
街は一気に騒がしくなった。
地面が大きく揺れ、それに伴って建物が崩れる。
そしてそれとは別に、突然現れた人喰い狼が逃げ惑う人間を食い殺していた。
僕はその人混みに逆らって焼却炉へと向かっていた。
明るい道から徐々に暗く。
いくつものエレベーターを乗り換えて最奥へ。
途中襲ってきた狼も蹴り飛ばして。
とにかく息をしない嫁をキツく抱きしめていた。
息子たちは無事に車に辿り着いただろうか。
おそらく長男あたりが車を運転しようかと言い出すはず。
ゲームで手馴れているしある程度の操作は分かっている。
ママがいないと泣き出す娘をなだめるのは次男の役目。
本人もきっと不安だろうけど、それを隠して必死に笑う。
大丈夫、あの子たちなら。
僕と香羽の子どもだもの。
やればできる子たちだ。
ようやく最後のエレベーターを降りるといつも通りの暗い道が続いていた。
しかしいつもと違うのはすぐそこに箱があること。
どうなっているのか、コンベアーのように動く地面の上に乗せられた箱は地面の下から現れ次々と奥に運ばれていた。
「なんだ、これ…」
思わず固まる体。
しかしすぐに本題を思い出し奥へと走る。
いつもより長く感じるそこは永遠に続くようにすら思えた。
早くこの嫌な予感を拭いたい。
早く安心したい。
香羽の笑顔を見て、よかったって。
子どもたちのところにも早く帰らなけばいけない。
息を切らしながらひたすら走り続けてやっと2つの道に分かれた時。
僕は足を止めた。
分かれ道の中間にいる男。
いや、僕は本能的に確信した。
彼が“神”だ。
「話を聞いていなかったのかい?これから吸収を始めるんだ」
「きゅう…しゅう…?」
彼の言っていることが分からない。
呆然とする僕を見て彼は悪魔みたいに笑った。
「そんなに阿保面をしなくても見れば分かるさ。ほら、早速吸収が始まる」
彼がそう言った瞬間、ヒヤリとした感覚が背中を這った。
反射的に体を震わせて後ろを見れば、虚ろな目をした人たちがゾンビのようにユラリユラリと体を揺らして、長い列を作っていた。
腕がない、頭がない、彼らが焼却炉に入れられる前の死んだ人間だと分かる。
しかし死者は自ら動かないはず。
それに彼らは焼却炉へ向かわず、もう一本の道、緑色に光る扉の方へと歩みを進めた。
「そろそろ生きるのにも飽きただろう?」
彼が不意にそう言った。
「死ぬことのない無限の時間の中で散々生きただろう。それに私も眠るのには飽きてしまったからね。久しぶりに実験をしようと思ったんだよ」
あの扉の奥にいるのは何だと思う?
「私が昔作った失敗作。ただの化け物。けれど、それに再生可能な人間をいくつも吸収させたらどうなると思う?面白いものができるとは思わないかい?」
ニヤリと笑う彼にゾッとした。
久しぶりの感覚だ。
今僕が見ているのは人が“本当に”死んでいく姿なんだ。
焼却炉の存在で久しく忘れていた死への恐怖。
それが蘇りガタガタと体が震えた。
いや、待て。
なら今、焼却炉に運ばれていっているこの箱は何だ?
僕の心中を察したかのように彼が笑う。
「この箱はもういらないから消しているのさ」
ヒュッと冷たい空気を飲み込んだ。
香羽を生き返らせることができない、そんな残酷な現実を突きつけられて。
「ま、待って。まだ香羽を生き返らせてない!」
「生き返らせる必要はないだろう?どうせそいつも吸収する」
ほら、そう言って彼が指差した先。
ゾンビの列の中間。
腹に穴の開いた長男、次男と、両腕のない娘。
全身から血の気が引いた。
「ま…て、よ…待てよ!待てよ!おかしいだろ!おい!何であの子たちが死んでんだよ!」
「さあね?殺されたんじゃないかい?」
「ふざけんな!箱を止めろ!あの子たちを生き返らせる!」
「何を言ってるんだ」
「はあっ?!」
一度引いた熱がぶり返す。
噛みつくように彼を睨みつければ、彼は困ったように笑った。
「生き返らせる力は元々お前たちのものではないだろう?何故そうも傲慢なことが言えるんだ?」
「あ、あ…」
いつか思った、ゲームのようだと。
しかし現実はあまりに残酷だった。
「ほら、そいつも吸収しないと」
クイっと彼が指を動かす。
瞬間、香羽の体が僕の腕を離れそして列の中に消えていった。
「やめろ!やめろやめろやめろッッ!!返せよ!あいつらを返せよッッ!!」
「“返せ”は正しくない。元々私が生み出したものだ」
「なら何故僕を殺さないッ?!何故僕だけッ?!」
「お前の趣味は良い。猫の面は私と同じ好みだ」
猫の面。
かつて香羽と買った思い出の。
最愛の人の証。
けど、
あいつがいないのなら意味がない。
この世界に生きる意味がない。
それなら共に死んだ方がマシだ。
グッと拳を握って。
奥歯を噛み締めて。
僕は目を走らせた。
都合よく近くに落ちていたナイフ。
駆け寄って手に取って、そして首に思い切り突き刺した。
しかし、
「なんで死ねねぇんだよ…っっ!!!!」
刺しても刺しても刺さらない。
ゴムのおもちゃのようにクビを避ける。
ケラケラと笑う声が聞こえた。
「お前だけ特別だ。私の好みと同じだからな。良かっただろう?お前らは随分と死なないことを気に入っていたからな」
「ぅうあ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッツツ!!!!」
僕の叫びは虚しく地下の世界に木霊した。
それからの記憶はない。
最後に見た景色は冷たくて重い鉄の箱と死人の列。
僕の家族は焼けて消えてしまった。