第9話 空中庭園と白銀の髪の給仕 2
「おお、ようやく来たか……ん? まあいい。桜井君、急がせたまえ」
男の姿を見た仙石が一瞬なにかを言いかけたが、それよりも会食の開始を優先させ、桜井に指示を出した。
「畏まりました」桜井が小百合に目で合図をする。と、小百合は戸惑いながらも一歩脇に引いた。
男は庭園の石畳の上を滑るように歩き、トレイを片手に少しもバランスを崩すことなく八つ橋を渡りきると、十四人が円卓に座る浮き島までやってきた。
「こちらへ」桜井がサイドテーブルを示すと、男は会釈をしてその上にトレイを乗せる。
すると男は、男に注目している一同に向かい優美にお辞儀をしてみせた後、
「わたくしは生まれつき視力が弱く、このような姿でお伺いいしましたことお詫びいたします」
色の濃いサングラスをしたままでいる理由を述べた。
「ああ、構わん。桜井君、お客様に料理を運びなさい」男の容姿に納得した様子の仙石が桜井に指示を出す。
それを受けて桜井は給仕を開始しようとするが、男が持ってきた弁当を見ると一瞬身を固まらせてしまった。
しかしすぐに身体を動かすと「蓮台寺さん」桜井が小百合の名を呼ぶ。と、ぼーっと男を見ていた小百合は弾かれたように身体を動かし、桜井に倣って料理を運びだした。
入り口近くの花澄は受話器を持ったまま、ぽかんと口を開けて男を見ている。
受話器の向こうからは、食器を洗う音と、繰り返し花澄の名を呼ぶ声が聞こえてきていた。
「それではわたくしは失礼いたします」
「ちょっと君! 待ちなさい!」配膳が終了したことを見届けて、踵を返そうとする男を仙石が呼びとめた。
「いかがされましたか」男が仙石に向き直ると、胸の前に片手を添えて仙石の言葉を待つ
「なんだこの料理は? 梅岩には全員同じものを頼んだはずだが。桜井君、どうなっている」
仙石が客の前の弁当箱を見て怪訝そうな表情を浮かべる。
たしかに九人の前に並ぶ鰻弁当と、男が持ってきた弁当とでは見た目がまったく異なっている。
鰻弁当が豪華な折箱であるのに対し、男が持ってきたそれは安物の、言ってみれば五個百円で売られているような汎用品だ。
コンビニで売られている弁当の方がまだ凝ったデザインをしている。
ふたがされているので弁当の中身まではみえないが、つまり使用されている食材もそれ相応ということだろう。
「いえ、それは……」仙石に指摘されるまでもなくそのことに気づいていた桜井は困り顔で男を見る。
小百合も、仙石、桜井、男の三人の顔を、おろおろとしながら交互に見ている。
「お気に召されないようでしたらすぐにでもお取り換えいたしますが。いかがなさいましょうか」しかし男は眉一つ動かさずにそう答える。
「専務。我々のことはお気になさらずに。そうしていては十四時の会議が遅れてしまいます」
すると、そのやりとりを横で見ていた二階堂が口を挟んだ。
「予定通り会食を終えて、有栖川君のプレゼンを聞きましょう」二階堂がそう続ける。
「しかしどこの弁当かもわからないものを──」
「あの! わ、私が頼んだお弁当……だと思います……」
役員の一人が不安を口にすると、小百合が声を上げた。
「どういうこと?」桜井が小百合に問う。
「申し訳ございません。実は──」
小百合は簡潔に経緯を説明した。
人とぶつかり弁当を駄目にしてしまったこと。
困り果てていたところを同じ会社の人に助けてもらい、その人が不足分の弁当を用意する、と約束してくれたこと。
そして、時間ちょうどにその弁当が届けられたこと。
貫千からは黙っているように言われたので、貫千の名前は伏せたが、同じ社の人間が関与しているということに、弁当自体は多少信頼されたようだ。
だが──
「桜井君、君ともあろう者がこれは大失態だぞ」仙石が険しい顔で桜井を睨みつける。
「せ、専務、これはすべて私に責任が──」小百合が一歩前に出たとき──
「まあまあ、仙石専務。お叱りはそのへんで。私たちも今日は食事をいただきに来たのではなく、あくまでもこの後の会議に参加しに来たのですから」
二階堂がそう言って眼鏡をくいと上げる。
『──たかが食事になにを……』二階堂の呟きは隣に座る北条にしか聞きとることはできなかった。
事実、食事などといった行為に興味を持たない二階堂からすれば、豪華だろうが質素だろうが、山盛りの鰻だろうが梅干しひとつだろうが、空腹という身体の症状を抑えることができ、かつ傷んでさえいなければ、なにを給されて構いはしなかった。食事に対するこだわりなどまったくない。その点は部下である北条と非常に馬があった。
二階堂クラスの官僚ともなれば接待も多く、贅を尽くした食事を毎晩のように食べているのかと思われがちだが、二階堂に限ってはむしろ逆だった。
二階堂は接待や会食といった行為をことのほか嫌っていた。だから本当に必要な場合以外はすべての誘いを断っていた。清廉潔白を是とした殊勝な価値観からではない。
二階堂は他人と食事をすることが苦痛で仕方がなかったのだ。人が食事をしている姿を見させられることを拷問であるかのように感じていた。
次から次へと下品に口にモノを詰め込み、咀嚼を繰り返して嚥下する。
口の周りを汚し、テーブルを汚し、ときにはソースの付いた唇でグラスを汚し、飲み物で口の中のモノを流し込む。そして口内が空になるとまた詰め込み始める。それを欲求が満たされるまで延々と続けるのだ。
なんとおぞましい光景か。
たった今も、少しでも早く会食を切り上げたかった二階堂は、相手の不手際を不快に思うどころか、むしろ手違いであろうとも小ざっぱりとした食事を運んできた男に感謝したいほどであった。
そのような二階堂であるから、仙石がしきりに自分たちの豪華な弁当との交換を懇願してきても、角が立たないよう丁寧に断っていた。
そして最終的には──「誠に申し訳ない」仙石が折れたことで決着がついた。
「君も大変だったね?」二階堂が小百合を労う。
結果として二階堂に手を差し伸べられたことになった桜井と小百合は、二階堂に向かって恐縮顔で一礼をした。
『とにかく桜井君、あとで私のところまで報告に来るように。それと菓子折りの用意を。ああ、あの男の店も調べておくように。今後二度と注文を出さないよう秘書課だけでなく総務にも通達せなければいかん』
そう小声で指示を出すと、仙石は秘書を下がらせた。
会食の場が沈静化すると男は、役目は終えたとばかりに退室しようとする。が、
「あなた、どこの店の従業員? どうやってここまで入ってきたの?」
背中に桜井の声がかけられると、男はピタリと足を止めた。
そして、くるりと身体を回転させると
「特定の店は構えておりません。必要とされたときにのみ開店する形態をとっておりますので。本日も急遽依頼を受けましたので、特別にご用意させていただきました」
「よくわからないのだけれど。社員の誰に頼まれたの?」
「お急ぎのようでしたのでお名前までは伺っておりません」
「男? 女? それくらいわかるでしょう?」
「男性でございました。ただ、十三時に五人分の食事を用意してほしいとだけおっしゃられておりましたので、それ以外につきましては存じ上げません」
「なに? そんないい加減な注文でここまで運んできたっていうの?」
「当店は信頼を軸に営業をしておりますので」
「信頼……それなら、あなたがあの食事に毒を盛っていないという証拠は? それも信頼?」
桜井のストレートな質問にも嫌な顔ひとつせずに答えていた男だったが、毒という言葉が桜井の口から出たときに初めて、ほんの僅かに口角を上げた。
「それにつきましては、召し上がった方の御顔をご覧になればおわかりいただけるかと」
感情を見せない、だが決して冷酷な印象を与えるわけではない男の笑み。
背筋に冷たいものが流れるのを感じた桜井だったが、仙石が湯呑を落としてしまったことで急いで円卓に戻った。




