第6話 小百合と花澄 2
鰻の甘いたれの匂いが一帯に漂っている。
椀もひっくり返ってしまっているが、さすがに吸い物までは掬えない。中身の肝や麩を拾っては紙袋に放り込んでいく。
「鰻さん、ごめんなさい……」小百合が鰻に謝りながら、蒲焼をそっと重箱に戻している。
きっと育ちがいいのだろう、と、それを見た貫千が微笑み、「にしても高価そうな鰻だな……」ぼそっと呟きながら、土まみれになった分厚い鰻を拾い上げる。
こんなの誰が食うんだ……ん? 高そうな鰻? 秘書課……?
ま、まさかこの弁当って……
嫌な予感を覚えた貫千の顔から完全に笑みが消え、逆に血の気が引きかけたとき、
「あ! 先輩!」
ご飯粒を集めていた小百合が突然跳ねるように立ち上がったかと思うと
「クリーニング代! 私、すっかりそのことを忘れていました! お支払いします!」
ご飯粒まみれの手で自分のポーチを触ろうとした、ところを、
「いや! 今はいい!」貫千が慌てて止める。
「そのことなら今じゃなくていい。それよりこの弁当って誰が食べるんだ?」
貫千もすっくと立ち上がると、小百合に問う。
「重役と取引先の方々です。会食をなされるとのことで……」
「え!? ちょっと待て! それってまさか省庁の人たちも一緒の……?」
「……はい」
やっぱり!
マズイじゃないか!
それって、超、超、超大事な会食じゃないか!
その会食用の弁当がこんな無残な姿に!
「弁当は全部でいくつだ?」
「じゅ、十四です」
「そのうちのいくつが駄目になった?」
「私が持っていたのは七人分で、そのすべてが駄目になってしまいました」
「会食のホストとゲストの数は?」
「会社関係者が九名、取引先が五名です」
「会食の開始時間は?」
「十三時です」
貫千の質問に小百合が的確に答える。
貫千が腕時計を見ると、時計の針は十二時四十分を指していた。
あと二十分……
貫千の顔色が変わったことに、花澄も立ち上がる。
貫千はハンカチで手の汚れを拭うと、スマホを手に取った。
そしてパパッと操作すると──
『カンチ! 今どこにいるんだい! 何度も電話したんだよ!』
スピーカーの向こうから不機嫌そうな有栖川の声が聞こえてきた。
「ああ、そうみたいだな。悪い、ちょっといろいろあって」
『いろいろって……もう食事が運ばれてくるから早く店に来てよ! あ、それと勝手に料理を頼んだことに文句言うなよ! 時間通りに来なかったカンチが悪いんだぞ!』
「有栖川!」
貫千が大声を出すと、小百合と花澄の二人がビクッと身体を震わせる。
『な、なんだよ、カンチ、突然大声を出して。驚かせないでよ……』
女性二人だけでなく、通話先の有栖川もびっくりしたようだ。
「もしかして高いやつ頼んだか?」
『高い? あ、ああ。鰻なら一番高いコースを──』
「食うなっ! 食わずに折詰して持って帰ってきてくれ! おまえの分も!」
『はあ? カンチ、なにを言って──』
「頼む! ついでに同じのをあと五人分頼めないか?」
『五人分って、今日は予約制なんだから無理に決まってるだろ』
「そこを何とか! 一人前でもいい! 聞いてみてくれ!」
『ちょっとなんだって言うんだよ、まあ、聞いてみるけど……』
スマホの向こうで有栖川が店員とやりとりしている声が聞こえてくる。
しばらくそのまま待っていると──
『カンチ、聞こえてるかい? やっぱり無理だって』
「そうか……有栖川の名前を使っても無理か?」
『通用するわけないじゃないか! それよりいったいなにがあったんだよ!』
「あとで説明する! 悪いが鰻弁当二人前を一時までに秘書課まで持ってきてくれ! それと、なるべくうちの会社が注文した十四個口の弁当に内容と容器を揃えてもらってくれ!」
『ちょとカンチ! だからなにが──』
──プツッ
強制的に通話を終えた貫千は、口をあんぐりと口を空けている二人に向かって笑顔をみせる。
「最高級鰻弁当、とりあえず二人前確保したぞ!」