3-22 第三章エピローグ 英雄であるということ 1
「こちらが先輩のご実家ですか……」
麦わら帽子を大きく傾けた小百合が「まるでお寺のようです」と、聳え立つ仁王像を見上げながら感嘆の声を漏らした。
「ああ。俺が言うのもなんだが……歓迎する」
小百合の仕草に、像とは対極の優しい視線を送りながら貫千が返すと、
「お兄様が女性をお連れになるなど、初めてのことですね」
貫千の後ろに立つ明楽が、それに続いた。
小百合がはにかむような笑みを浮かべる。と、三人が立つ櫓門を、まだ朝の湿り気が残るそよ風が通り抜け──
しかしそよ風は一瞬の間につむじ風となり、小百合の金髪の長い髪を大きく揺らすと、清涼感のある白いワンピースの裾をも激しく巻き上げた。
「きゃっ!」
小百合が捲れる膝上の白布を両手で抑える。が、
「あっ!」
そのタイミングを計り、留守になってしまった上半身に狙いを定めていたかのように、風はつばの広い麦わら帽子を空高く舞い上げてしまった。
歓迎とはいっても、見えない何かがまるで悪戯でもってそれをしているかのようだ。
帽子は白いリボンをはためかせながら上空を舞うが、
「──ほら。大丈夫か」
軽やかな身のこなしで帽子をキャッチした貫千が、スカートを抑えて恥じらう小百合の頭に、ポン、とそれをのせた。
「あ、ありがとうございま──」
「こら! 与作! 田吾作! 意地の悪いことしてはなりません!」
しかし、小百合の謝辞は明楽の声で遮られてしまった。
「小百合さんに謝りなさい!」
明楽は二体の仁王像に向かって叱責している。
貫千と小百合はいきなり怒鳴り声を上げた明楽に驚きの目線を向けた。
「あ、あきらさん……まさかこの像が──」
「おい、アキラ。こいつらに名前をつけていたのか?」
どうやらその理由はそれぞれ異なるようだ。
「え? はい。雅様は海丸と空丸と呼んでいますよ?」
「……そうなのか? まったく知らなかったぞ」
「え? お兄様はなんと呼んでいるのですか?」
「あの……あきらさん……この像……」
「俺は名前でなど呼んだことはない。昔から威圧的だからな。こいつらは。目を合わせることですら憚られた」
「そんなことありません! 与作も田吾作も目がクリっとしていて、あ、少し悪戯好きですけれどそれでも……そ、そんなことよりお兄様、この荷物重いのですが!」
「おまえが持つから同行させてくれといったんだったよな?」
「そ、そうですけれど! か弱い乙女に牛肉百キロを持たせるなんて酷すぎます!」
「百キロもない。五キロはうちの冷蔵庫に入っているから、正確には九十五キロだ」
「五キロ減ったところで同じです!」
「そうなのか? おまえは一キロ太ったって、この世の終わりのように騒いでいたじゃないか」
「お、お兄様! 牛肉の五キロと私の一キロを一緒にしないでください!」
「あ、あの……」
「ん? どうした。ほら、行くぞ?」
「は、はい……」
車を降りたときよりも少し青い顔をした小百合に手招きをすると、貫千は二人を引き連れて厳かな櫓門をくぐった。
蓮台寺家別荘での事件から一週間が経ち──。
貫千は明楽と小百合とともに、都内にある貫千の実家を訪れていた。
というのも、小百合が今回世話になった礼を直接雅に伝えたいと言いだしたからである。
貫千はそんなことは必要ないと突っぱねたが、小百合は『療養中の母にもきつく言われていますから』と言ってきかなかった。
貫千は何度も断ったのだが──小百合は決して譲ろうとせず、結果、貫千が折れるかたちとなった。
貫千としても、雅に依頼していた件で報告を受けるという用事があったので、それならと一番早い休日を利用してやって来たのだった。
明楽が同行しているのは単に荷物持ち兼運転手としてである。
◆
「海空陸じゃねぇか!」
日除けとなるものが何もない広大な庭を中ほどまで進んだとき、道場のある方から貫千の名を呼ぶ声が聞こえ──貫千がそちらへ目を向ける。と、そこには道着を着た数十人の男らが立っていた。
その中には一週間前に戦線を共にした榊と西垣、山崎と永田もおり、その四人が笑顔を浮かべながら貫千のいる場所へ近寄ってきていた。
どうやら貫千の名を呼んだのは榊だったようだ。
『おい……あれ……』
『逃走者じゃねぇか』
『今さら何しに来やがったんだ』
貫千の耳まで届いてはいないが、残った門下生らは貫千のことを虫けらを見るような視線を送っている。
しかし、
『おい! 明楽さまも一緒だぞ!』
『おお! 本物だ! 写真じゃなくて本物だぞ!』
明楽の姿を見つけると、全員が一斉に走り出した。
「明楽さまぁ!!」
そして気がつくと、貫千ら三人はあっという間に汗まみれの猛者どもに取り囲まれてしまった。
といっても囲まれているのは小百合と明楽だけであり、貫千は脇で榊ら四人と対面しているのだが。
「榊、すっかり良さそうだな」
貫千は第一に旧知の友を思いやった。
「西垣さんもお世話になりました。山崎に永田も助かったぞ。ありがとう」
次いで三人にも改めて礼を言う。
「お、おう。身体の方は問題無ぇ」
すると榊は目を逸らし気味に、鼻の頭を掻いた。
「といってもこいつ、あの後三日ほど寝込んでたんですよ。明楽様に抱かれていた感触を覚えていないことにショックを受けて」
「それに夜な夜な枕に顔を埋めて『うぁぁああ!』って叫んでるんですよ。なにか消したい記憶でもあるのか──」
「お、おい! そんな話今はいいだろっ!」
山崎と永田の暴露に榊は顔を赤らめた。
その理由は当然、胸の裡を貫千にさらけ出してしまったからである。
「と、とにかくお前は弱ぇんだから、またなにかあったら力を貸してやるぜ」
榊の口から『弱い』という言葉が出て、西垣と山崎、永田の三人が視線を交差させた。
この三人は新月の闇夜で起きた出来事の真相を知っている。
あの日起きたことはすべて貫千の仕業だとこの三人は気づいていた。
西垣はあの日の夜、そのことを貫千に尋ねたのだが、貫千は核心に触れることなく穏やかに笑うだけであった。
──海空陸様は否定しない──
そのことに、それが答えだと西垣は悟ったのだった。
そして底の知れない貫千の秘めたる力を垣間見た西垣は、このことは笠原を含め、あの場に居合わせた四人の胸の中だけに留めておこうと指示を出したのである。
そのため、真実を知らない榊の『弱い』という発言に思わず顔を見合わせてしまったのであった。
「海空陸様、今日はどのようなご用件で?」
視線を貫千に戻した西垣が尋ねた。
「例の件で小百合が雅に直接礼を伝えたいと言い出したので──」
貫千はそう言いつつ、男の集団に向かって小百合の名を呼んだ。
すると人垣が割れて、その中からいっそう青い顔をした小百合と、機嫌の悪そうな顔をした明楽が出てきた。
小百合の顔が青いのは、突然汗臭い男に囲まれてしまい、戸惑ってしまったからだろう。
明楽が不機嫌そうなのは──貫千の悪口を聞かされたといったところか。
「小百合、こちらが西垣さんだ。で──榊は知っているよな。それからこっちが山崎でこっちが永田。この四人があのとき力を貸してくれた人たちだ。あともうひとりいるんだが、ここにはいない」
貫千が簡単に紹介すると
「その節は大変お世話になりました。本来、母が直接礼を言うべきなのですが、まだ療養中ですので、次女である私が代わりましてお礼を申し上げさせていただきます。本当にありがとうございました」
小百合は丁寧に腰を折った。
「任務を遂行したまでです。礼など必要ありません」
西垣が首を横に振りながら冷静に応じると
「礼を言うのはこっちですよ! 蓮台寺さんが持っていた解毒剤のおかげで俺の命が助かったんですから!」
やにわに小百合の手を取った榊が、その手をぶんぶんと振りながら礼を伝えた。
「あ、いえ……榊様もお元気そうでなによりで──」
猛者どもによる、予期せぬ歓待を受けながらも蓮台寺家当主代行の役割を果たした小百合に息をつかせることなく、榊が捲し立てる。
「いったいどんな秘薬を使ったんですか!? もしかしてすっげぇ高価なモノとか!? いや、そうに違いない! だって死ぬ一歩手前だったってのに、こんなに調子が良いんだから! 昔明楽様につけられた古傷だってまったく傷まないんすよ! もしかして蓮台寺さんは魔法使いかなんかなんじゃないっすか!」
「い、いえ……特別なことは……」
小百合はおどおどとめをふせているが、貫千は、なかなかいい線をついているじゃないか──と、榊の台詞に感心した。
貫千に一目置かれた榊ではあったが──
「榊さん! 大切なお客さまになんてことをするのですか!」
「──う、うおっ!」
そんな榊は激高した明楽に片手一本で投げ飛ばされ、情けない悲鳴を上げながら場外へと追いやられてしまった。
「あ、あきらさん……榊様はまだ病み上がり……」
「貫千の人間はあれくらいなんともありません。それより小百合さん、大丈夫でしたか? 本当に申し訳ありません。うちのガサツな男連中が……」
明楽が小百合に頭を下げる。
「い、いえ! 少し驚きましたけれど……」
小百合は榊に握られていた手を摩りながらぎこちない笑みを浮かべた。
そんなやりとりをしているなか、
「西垣師範! なんでこんなやつと親しげに喋ったりしてるんすか!」
門下生の一人が声を荒げた。
貫千のことをよく思っていない男によるものだろう。
すると、表情をさっと険しいものに変えた西垣と明楽が
「お前誰に向かって──」
「いい加減に──」
罵った男に対し、同時に詰め寄ろうとするが、
「西垣さん、じゃあ俺は雅に用事があるので失礼します。ほら、明楽も行くぞ?」
それを貫千が制した。
「しかし海空陸様……」
「お兄様……」
「俺はここから逃げ出した人間です。なんと言われようと仕方の無いことですから」
貫千がわざと明るい口調でそう続けると、西垣と明楽から剣呑さが引いた。
「そうだ、アキラ。西垣さんに土産を」
貫千にそう振られた明楽は手に持っていた大きな包みを前に出すと
「先週、帰途につく前に牧場に寄ったのですが、そこで賞品をいただいたのでそのお裾分けです」
少し重いですよ、と、西垣に渡した。
「極上牛肉九十五キロです。皆様で召し上がってください」
貫千が中身を説明すると、西垣は礼を言い、包みを先ほど貫千を罵った男に手渡すが、
「お、重っ!」
その重さから男は片膝をついてしまった。
そんなに重たいものを持っていながらも、片手で榊を投げ飛ばしてしまうとは──周りの男どもが、ジリ、と一歩後退りをする。
皆、夢から覚め、明楽の本当の力を思い出したかのようだ。
明楽はようやく荷物持ちから解放されたことに、涼しい顔で肩をトントンと叩いている。
「──その様子。鍛練は怠っていなかったようですね」
漢集団に似つかわしくない声が聞こえたかと思うと、再び人垣がすうっと割れ──
空気が変わったことを肌で感じた貫千ら三人は、その声のした方へ顔を向けた。
「お、お姉さ……雅様……」
声の主の姿を見た明楽が、はうっ、と息を呑む。
「良い心がけですよ。明楽さん」
畏まる門下生らの奥から現れた和装の女性。
「──後で稽古をつけて差し上げましょう」
その人物こそ、貫千流闘術次期当代、貫千雅であった。




