3-11 ふり
「さあ! 早く入りましょう! 小百合さん!」
「ええ。水着のサイズも問題なさそうで良かったです」
強烈な日差しが照りつけるプールサイド。
青い水のきらめきが、二人の白い素肌を美しく浮かび上がらせる。
小百合は、被っていたつばの広い帽子をテーブルに置くとプールデッキに腰かけ、両足を水の中に落とした。
その隣で明楽が、もう我慢できないとばかりに頭から飛び込む。
水飛沫が一瞬の虹を創り出すと、しばらくして数メートル向こうに亜麻色の髪が姿を出した。
「気持ちいい~!」
小百合を振り返り、明楽が手を振る。
小百合は「ふふ」と小さく笑うと、手を振り返した。
すうっと明楽が小百合の足先に向けて泳いでくる。
そしてデッキに手をかけると肩まで水につかった状態で小百合を見上げ、話しかけた。
「全身が潤うようで本当に爽快です。お兄様もご一緒できれば良かったのですが」
「残念ですが、仕方ありません。先輩はそれどころではないでしょうから……」
小百合が後方の窓を気にした様子でそう言うと、明楽も窓の一つを窺い見ながら
「お兄様は楽しんでいるふりをしろとおっしゃいましたが、これでは本当に楽しんでしまいそうです」──小百合に答えた。
脱力して全身を水面に浮かべた明楽の目はすでにとろんとしている。
「ふふ。先輩には申し訳ないですが、私も言い付け通り、ふりをしようかしら」
明楽の気持ち良さそうな表情に感化されたのか、小百合も、ちゃぽん、と小さな水音を立ててプールに全身を浸けた。
「本当! 気持ちいいですね! 気分が澄み渡っていきます」
「車移動となってしまって、お兄様に抱っこしていただけなかったもやもやも吹き飛びましたか?」
「もう! あきらさん!」
「きゃ! 冷たい!」
風がそよぎ、テーブルの上の帽子がふわりと揺らぐ。
ウッドパラソルの下には、いつの間にかフルーツの入ったドリンクが用意されていた。
二人は黄色い声を上げながら、夏の午後を満喫するのであった。
貫千が傍にいるというだけで、こうも安心できるのか。
それはそれで結構なことではあるが……
雅が派遣した、むさ苦しい使いの者と警備の調整を終えた貫千は、
おい。
本当にふりかよ、あれ……
プールで楽しそうにはしゃぐ二人を見て、暑さで玉のように流れ出る額の汗を拭いながら羨望の眼差しを向けるのだった。
◆
しばらく時間は遡り──。
貫千らのゲストルームは、牡丹が眠る部屋と同じ二階に用意された。
当初はここを訪れるほかの客と同様、一階に用意されたのだが、貫千の意見により二階に変更となった。
牡丹の部屋を出て大理石の廊下を進むと、一階に下りる大階段がある。そこを通り過ぎ、いくつか扉を数えた先の部屋を三つ並びで用意してもらった。
牡丹の部屋から一番近い場所が貫千、その隣に二階堂、そしてさらにその隣が明楽という配置だ。ちなみに小百合の私室は、牡丹の部屋の二つ隣と、この四人の中で牡丹の部屋から最も近い場所にあった。最奥にある牡丹の部屋の隣は女中が控える小部屋となっている。
予定外の宿泊なので全員荷物など持ってはいないが、各自一度部屋に戻り、少しばかり休憩をしてから一階のダイニングに集合となった。のだが──
「小百合。夕飯のことで相談したいんだが、少しいいか?」
その際、部屋に入ろうとする小百合を貫千が引きとめた。
ドアノブに手をかけていた小百合が、きょとんとした顔で貫千を振り返る。
「夕飯、ですか?」
「ああ。突然おじゃましてなにもしないのは気が引ける。調理場でなにか手伝おうと思ってな」
小百合に貫千がわけを説明するが、小百合は困惑顔をする。
「お客様にそのようなことをしていただくわけには──」
「アキラも勉強になる。いい機会だからいろいろと教えてやってほしい」
「え!? わ、私もですか!?」蚊帳の外のつもりでいた明楽があたふたと慌てだす。
「当り前だ。おまえの手料理、恭介さんにも食べてもらえ」
貫千の命令に明楽が項垂れる。そんな明楽を放ってはおけないと、
「私も手伝おう。海空陸君の言うとおり、ただ泊めてもらうのは抵抗がある。まあ、役に立つかは別だが」
二階堂が助けを申し出た。
「二階堂様まで……でもそういうことでしたら、それもなんだか楽しそうです。では皆様どうぞ。私の部屋で献立の相談をしましょう」
小百合が扉を大きく開け放ち、三人を迎え入れようとするが、明楽が部屋に入ったところで
「いや。恭介さんにはさっき驚かされたからな」
貫千が二階堂の前に立ちはだかり、二階堂の入室を阻止する。
「今度は俺が恭介さんを驚かせたい。向こうの食材を使った特別な料理で。──というわけで恭介さんは部屋に戻って楽しみに待っていてください。夕飯の手伝いも必要ありませんからね」
向こうの食材、と聞いて二階堂の瞳が輝きを増す。
「そうか。それなら夕飯までゆっくりさせてもらおうかな。海空陸君、楽しみにしているよ。話はその後でゆっくりと」
二階堂が廊下の奥に姿を消すと、三人は小百合の部屋に入った。
「お兄様。どうなさったのですか……? 二階堂様に向こうの食材をお出しするなどと……」
明楽が扉を閉めながら貫千に尋ねる。
明楽は、二階堂がすでに向こうの食材を口にしていることを知っている。
そして貫千から、向こうの食材をあまり摂取しない方がいい、という話も聞いている。
兄の大事な取引先である二階堂を案じての台詞だったが
「よろしいのですか!?」
それとは反対に、小百合はとても嬉しそうである。
しかし──
「あいつは偽物だ」
部屋の扉が閉まるや否や、貫千が誰も予想しなかったことを口にすると
「え!?」
小百合と明楽が動きを止めた。
「あの男は二階堂恭介ではない。まったくの別人だ」
「お、お兄様!? な、なにを根拠に──」明楽が、なにを言いだすのですか、といった顔で貫千を見る。
「二階堂様が……?」小百合も貫千の言葉の意味を飲み込めないのか、青ざめた顔でただ貫千の目を見ている。
そんな二人に貫千は説明を始めた。
「──まず一つに、二階堂恭介は決して妹さんの傍を離れるような人間ではない。美咲ちゃんは身体が弱い。そのため宿泊を伴う出張はすべて優秀な部下に任せて自分は東京から指示を出してきた。今日は俺への興味を理由にうまく言い訳を作って一泊するなどと言いだしたが……恭介さんなら俺の不思議な力など一ミリも興味を持たないはずだ。そんなことに時間を割くような性格はしていない。あの人の時間はすべて美咲ちゃんのためにあると言っても過言ではないからな。俺の魔法を見たとしても、眉一つ動かさずに『フン。そんな遊戯、いったいどこで習ったのだ』と嘲笑して美咲ちゃんが待つ家に帰る。それが二階堂恭介という男だ」
だからこそ、そぼろに対する執着心には驚かされた、と貫千は言うが、そう聞かされても二階堂のことをよく知らない二人は半信半疑のようだ。
お互いに顔を合わせて首を傾げている。
「それからもう一つ」
二人の様子に、貫千は言葉を続ける。
「あの男は決定的なミスを犯した。俺の変化した姿をみて『あのときの』と言ってしまったことだ。俺は魔力が少ないこともあったが、確信を得ようと敢えて中途半端な術を使った。小百合は横から見ていたのと、リクウ補正がかかっているから気づかなかっただろうが、俺が変えたのはこの姿だ」
そう言って貫千が術を行使する。
「あ! 本当です! リクウ様ではありません」
「え? そうなのですか? 私、この姿が向こうでのお兄様の姿かと思ってしまいました……」
リクウを見たことがない明楽の言うことももっともだろう。
だが、リクウを知る者からすれば、今の貫千の姿はそれとは似ても似つかないものだった。
髪はたしかに白銀ではあるが、とても短い。というか角刈りだ。
見た目は外国人だが……北欧風ではなく、どう見ても東アジア系にしか見えない。
要するに、そこにいるのは東洋系の顔をした白髪で角刈りのおっさんだ。
この浅黒い肌をしたおっさんのどこが会議室の給仕係と結び付くというのか。
『だ、だれ……』
ショックを受けた様子の小百合がぼそっと呟く。
「お兄様、まだ魔力があったのですか?」
白銀の髪の給仕係を知らないため、小百合に同情することができない明楽は別の質問をする。
「ああ。あの男を油断させるためだ」貫千は姿を戻すと
「つまり、あの男は『白髪』『外国人』という特徴だけで俺のことを、『あのときの男』と勘違いしたことになる。あの場にいた小百合ならあの男が偽物だということがわかっただろう」
小百合と目を合わせて頷いた。
「で、でも先輩はどうしてあの男と親しげに話したりなどなさったのですか?」
「そうです! 今からでも捕まえて警察に突き出しましょう!」
自然と声が大きくなる二人に、音量を落とすよう仕草を交えて諭すと
「あの男にはいろいろと訊きたいことがある」
あの男がいったい何者なのか、本物の二階堂はどうしているのか、諸々の情報をどこで手に入れたのか。
林道での襲撃犯と関係があるのか。
魔力反応はないが、あの男が使用しているのは変化魔法なのか。すると、向こうからの帰還者なのか。
そして──貫千の秘密をどこまで知っているのか。
貫千はそれらのことを探りたい、と二人に説明した。
「でもそれでは牡丹様や小百合さんが危険な目に……」
明楽が、手遅れになってしまうのではと心配する。
「殺すつもりならもっと早く──毒であることを前提としてだが、あのような回りくどいことはせずに手をかけていただろう。言葉として適切ではないが、いつでも亡き者にすることはできたはずだ。あの毒は殺すことが最終目的ではなく『不治の病』という診断で寝たきりにさせることが目的ではないだろうか。つまり、奴ら側には牡丹さんを殺せない事情があるのかもしれない」
「殺せない事情……ですか?」貫千の説明に小百合がつばを呑む。
「小百合。確認だが、牡丹さんに万が一のことがあった場合、蓮台寺の当主はどうなる?」
「その場合は……姉、私、妹の三人の中から次の当主が選ばれることになりますが……」
「そう。牡丹さんを殺すのであれば、三人の中の二人も狙われることになる。完全な次期当主争いだ。この場合、小百合以外の二人の犯行が疑われる。無論、小百合が犯人でないことを──」
「わ、私は──」
「そんなことはわかっている。が、言い方が悪かったな。すまない。林道での襲撃犯は『足止め』と言っていた。小百合の命を奪おうとまではしておらず、当主争いの線は薄くなる」
悲壮な顔をする小百合に貫千が謝罪する。
「い、いえ……申し訳ありません……」
「アプローチを変えよう。犯人は牡丹さんに死なれると拙いと考える人物。牡丹さんを生かさず殺さずの状態に陥れ、それでもなお当主とさせておく必要がある人物の犯行だとすると、いろいろと辻褄が合ってくる。つまり──牡丹さんの命はなんとしてでも守らなければならない。そういうことになる」
「やはりお父様……」自分の考えていたことと貫千の話とが次第に合致してくると、小百合の顔面は蒼白となった。
「そう考えるのが妥当だろう。蓮台寺家現当主の牡丹さんが生き続けるかぎり、そしてその牡丹さんが口を挟むことがない限り、表面上の当主である重蔵氏は真の権力を維持することが可能となる」
「その牡丹様の様子を探るためにあの男が……」明楽が声にする。
「だろうな。とにかく俺たちのすることは決まっている。牡丹さんの病を治療し、小百合の日常を取り戻す。その延長で蓮台寺を浄化させることになるかもしれないが……」
「お力を貸してください! 先輩! 私、父の性根を叩き直すと決めたのです」
立ち直った小百合が頭を下げると
「もちろんだ」──貫千は力強く頷いた。
「お兄様。この後、私たちはどのようにすればよいのでしょうか」
話の大筋は理解したものの、どのように行動すれば自分たちの目的を達成することができるのかと、明楽が指示を仰ぐ。
「なに。普段通りで構わないさ。むしろ敵を油断させるためにも存分に楽しんでいるふりをすればいい。さすがに温泉は許可を出せないが……プールで水浴びするくらいならいいんじゃないか?」
別荘の敷地から出なければいい、と貫千が言うと、一瞬飛び上るような素振りをみせた明楽だったが
「あ、でも水着が……」と浮かない顔をする。
「……水浴びするだけなら水着など必要ないだろう」
敵が館内にいることを理解しているのか。
あくまでも楽しんでいるふりをすればいいだけだ。
貫千が明楽にそう言い聞かせるが
お兄様が普段通りで構わないとおっしゃるのであれば余計な心配などする必要はありません。
それに私は不器用なので、心配事が顔に出てしまいます。
それでは偽物男に勘づかれてしまいます!
と突っぱねる。
「あきらさん……私のでよろしければ何点か……」
兄妹の口論を見かねた小百合がクローゼットからいくつかの水着を取り出してベッドに並べると、文字通り飛び跳ねた明楽が、
「お兄様。着替えますのでご退出を」
とても愛らしくニコリと笑うのだった。




