第4話 秘書と蛮行
『幾度離れようとも針は必ず重なるんだ』
貫千はレジに並びながら、有栖川がビルから出るときに呟いた言葉を思い出していた。
有栖川は、俺と自分を時計の針に例えたのだろうか。
たとえ部署が変わっても、そして、たとえ日々の業務内容が変わっても、俺と有栖川は何度も顔を合わす瞬間があるのだと。
しかし──
長針は日に二十四回まわる。それに対して短針はたったの二回。
果たして俺は長針か、短針か──。
貫千が有栖川の呟きに応えることをしなかったのは、刹那の時間、自問自答を強いられてのことだった。
さて、と……
どうすっか……
そんなことを考えていた貫千は、釣銭と目薬を受け取りながら溜息を吐いた。
お坊っちゃんの割には熱血タイプだからな……あいつ……
貫千は短い時間でも有栖川と向かい合って座ることに抵抗を感じていた。
毎日昼になると訪れる有栖川をどうにか避けようとしていた。だが、配置替えされたばかりの貫千は外回りがない。今の部署では先輩となる派遣社員を差し置いて、有栖川が訪れるより先に休憩に入るわけにもいかない。つまり昼とともに現れる有栖川から逃れる手立ては今のところないというわけだった。
適当に弁当を買って食べるから、というと公園まで付いてくる。
食欲がない、という苦し紛れの言い訳も通じない。
今まで有栖川の誘いを断ることは滅多になかったので、ここにきて連続して断ってしまっては明らかに不自然に思われてしまうという懸念もある。
それは決して有栖川のことが気に食わない、などという稚拙な理由ではない。
たとえ数分であっても、膝を突き合わせて話しこんでしまえば、貫千をよく知る有栖川は貫千の異変に気がついてしまう、と恐れたためだ。
だからなるべく断るような真似はしたくなかったし、二人きりの時間を作りたくもなかった。
もう手遅れのような気もするが。
鰻か……
昔は好んで食べていたような気がする。
だが鰻など、今では財布が軽くなるだけの贅沢な食材、という印象しかない。
味音痴になったとして貫千の味覚を治そうとする有栖川。
どんな高級品を食べても無味乾燥、味も素っ気もないつまらない食事になってしまう貫千。そのことも貫千の昼休憩に暗い影を指していた。
貫千は味音痴ではなく、この星にあるなにを食べても物足りない身体になってしまっただけなのだ。
一か月前、向こうから帰ってきた日から──。
貫千は今までそのことを有栖川に打ち明けなかった。
信じてもらえないからではない。むしろ逆だ。
有栖川なら貫千のいうことを百パーセント信じるだろう。
だからこそ友であり同僚であり、ライバルであった有栖川を混乱させたくない。完全に私的なことで会社の成長株を煩わせたくない。お伽噺のような荒唐無稽な世界に有栖川を巻き込みたくない。
そんな思いからまだ話せずにいたのだった。
しかし無言の状態が五秒も続けば有栖川は必ず貫千の異変に斬り込んでくる。そして有栖川はその隙を常に窺っている──様子がひしひしと伝わってくる。
世話になった有栖川には話しておかないとな……
目薬をポケットにしまった貫千は、すべてを打ち明けるかどうかまだ多少迷いながらも、有栖川が待つ店へ向かうため薬局を出た。
直後──
──ガシャーン!
歩道の先から派手な音が聞こえてきたことに反射的に身構える。と同時、無意識のうちにそこにありもしない腰の剣を抜こうとしていたのは、まさにこの十年のうちに身についた職業的反射神経だった。
「──! す、すみません! ごめんなさい!!」
「ってめえ! なにしてくれてんだっ!」
騒音に続いて若い女性の声と男の罵声が聞こえてくる。
昼食時で混雑しているので、貫千のいる場所からでは背伸びをしてもなんの騒ぎか確認できない。
「どこ見て歩いてんだ!」
「こいつ! 先輩になンてことをっ!」
あっちからか……
声が聞こえてきたのは鰻屋とは反対の方向、つまり会社へ戻る方向だ。
正義感が働いた──のかどうかはわからないが、なにが起こったのか気になった貫千は騒ぎのした方へ向かった。
「すみません、ちょっと通してください、すみません」
人垣を掻き分けた貫千が目にした光景は、四人の男女の姿。
男性が二人、女性が二人──だったが、四人のうちの女性がひとり、歩道に倒れていた。
「さっさと立って先輩に謝れよ!」
男性が倒れた女性に向かって怒鳴りつける。
男二人はスーツを着ている。ひとりは三十代、もうひとりは二十代といったところか。いま怒鳴ったのは若い方の男だ。どちらも背が高く、体格は良いが、柄は良くなさそうに見受けられる。
女性の方は二人とも制服を着ているが、
ん? あれはうちの制服……?
見覚えのある制服は、貫千の勤める会社が支給しているものだった。
倒れている女性は金色の長い髪がとても目を惹く。
「さ、小百合、大丈夫?」
倒れた女性を庇うように、もうひとりの女性が手にしていた紙袋を歩道に置くと、女性の隣にしゃがみ込む。
男性二人は般若のような顔で金色の髪の女性を睨みつけている。
「っのアマぁ! どうしてくれんだっ!」
「も、申し訳ございません!」
金色の髪の女性が身体を支えられながらよろよろと立ち上がると、男性に向かって頭を下げた。
どうやら女性が男性にぶつかってしまったようだった。
それにしてもなんでぶつかったくらいでこんなにキレているんだ?
不思議に思った貫千は、男の足元を見て納得する。
うわ……こりゃひどい……
男のスーツは膝から下がぐちゃぐちゃ、正確にはひっくり返った弁当をかぶってえらいことになっていたのだった。
女性とぶつかった拍子に、女性の持っていた弁当がひっくり返ってしまったのだろう──と予想する。それも弁当は一個や二個じゃない。かなりの数だ。
貫千は同情した。弁当まみれの男に──もそうだが、泣きそうな……いや、すでに大粒の涙を零してしまっている金色の髪の女性に。
見れば散らかっているのは梅岩の包装紙だ。
ということは鰻弁当。
おそらく土用の丑の日と言うことで上司から頼まれたのだろうが……
これだけの数の弁当をこんなに細い女性二人に運ばせるとは、いったいどこの部署だろう……
女性たちは男にすごまれて、さらには高級な鰻弁当を台無しにしてしまって、どうしたらいいか困惑しているようだ。
硬直したまま、ただ身体を竦めている。
「聞いてんのかよ! 熱っちいわ、べたべただわ、これどうしてくれんだよっ!」
「てめえ! 先輩のこと馬鹿にしてんのか!?」
男が声を荒げる。
『あれ、梅岩さんのウナギじゃね?』
『うわ! ほんとだ! もったいね~』
ひそひそと話す野次馬たちの中から、
『私見てたけど、あの男の人たち女の人の前に回り込んでなかった?』
『動きが不自然だったもの。ぶつかったのもわざとじゃない?』
『ただ因縁付けたいだけじゃないの……? ほら、あの子たち可愛いから』
こんな会話も聞こえてきた。
ん?
わざと……?
「チッ! 黙ってるだけじゃどうにもならねぇぞ!」
「そうだ先輩! こいつにスーツを洗わせるっていうのはどうですか!」
「おお! そりゃいい考えだ! じゃあお前! 今夜俺の家にスーツを洗いに来い! 俺は寛大だからな! それで赦してやる!」
「決まりっすね! じゃあ……おい! 先輩とぶつかったおまえ! 連絡先を教えろ!」
『ほら、やっぱり……狙われたな……』
『おまえ助けてやれよ。ご褒美くれるかもしれないぜ?』
『いや、勘弁してくれよ……あんな大男に敵わないって』
……なるほど。
それが目的か。
知り合いのようにはみえないしな。
多少なりとも男らに同情してしまったことが悔やまれる。
やはりどんな局面においても状況把握能力は必須ということだ。
「早く教えろってンだよ! ほら、スマホ持ってンだろ? さっさと出せよ!」
「え……そ、それは……」
金色の髪の女性が堪らずに一歩下がる。
周囲の人だかりは遠巻きに見ているだけで、女性に助け船を出そうとする者はひとりもいなかった。
「なにグズッてンだ! 今夜先輩の家に来てスーツを洗えば全部水に流してやるって先輩が言ってくれてンだぞ! でなけりゃ──」
「でなけりゃ、なんですか?」
見かねた貫千が二組の間に割って入った。




