3-3 北条亜里沙
「お兄様と小百合さんと長野に旅行なんて、とても楽しみです!」
小百合と、小百合の母親の病について話し合った翌日の朝。
鍛錬の汗を流した明楽が食卓に座ると、嬉しそうに貫千に話しかけた。
「だからアキラ。何度も言っているが旅行じゃないぞ」
フライパンに溶き卵を流し入れていた貫千が明楽に返す。
「わかっています! でもお兄様とどこかに一泊するなど私が小学生のとき以来のことですから、どうしても頬が緩んでしまうのです! ──あ、レンタカーの手配はお任せください!」
両頬を手で押さえる明楽を
「ったく。それよりあの真芯斬りはなんだ? 剣筋は丸見えだわ軸はぶれてるわ、散々だぞ。明日から素振りを三百追加するから覚悟しておけよ」
フライパンを手際よく返して、出来上がったオムレツを皿に盛り付けながら、貫千が窘める。
「そ、そんな! お兄様はレベルが高すぎます! お強くなった秘密が異世界での十年にあるのですし、私などでは到底──」
「なにもそこまで求めていないさ。だが、向こうではどんな人間であっても驚くほどあっさりと死んでいく。そして死というものは弱いものほど早く訪れる。この世界だってこれから先どうなっていくのか俺たちにはわからないんだ。なら、自分の身は自分で護れるようになっておいて損はないだろう」
テーブルに皿を並べながら、貫千が鍛錬強化の理由を説明する。
「お兄様はいずれ地球がそういった世界になるとお思いなのですか?」支度を手伝おうと席を立ち上がった明楽が問う。
「──それはわからない。だが少なからずズレは修正されるはずだと思う」
「ズレ、ですか……? それはいったい……」
「いずれかの段階でこの星の実態に見合った環境に強制的に軌道修正されるんじゃないかってことだ。そして俺の考えでは、ズレが修正されると同時、かなりのツケを払うことになる」
「ツケ……」
「たとえばだ。この地球がある日突然、魔法が使える星になったらどうなる?」
「え? 魔法……?」
「ああ。魔法だ」
「それは……」急須を傾けて、湯呑みに茶を注ぎながら明楽が真剣に考える。
今までであれば小馬鹿にされていると捉え『お兄様?』と眉尻を上げていただろうが、実際小百合の魔法を目の当たりにした明楽にそのような疑心はなかった。
だが、明楽が答えるより先に貫千が口を開いた。
「向こうと違い、魔法と向き合ったことのないこの世界に於いては、秩序は無くなり、法は意味を成さないものになるだろう。魔法の適性を持ち、魔臓が大きいものほど権力を振るうようになる。勢力図は大きく変わることになるだろうな」
「それはもしかして、お兄様のおっしゃっていた制御装置が壊れて……といったことでしょうか?」
貫千の席に湯呑みを置こうとしていた明楽の表情がサッと曇る。
「いや、脅すつもりじゃない。仮にそうなるとしても当分先のことだろう。それこそ俺たちが死んでさらに何世紀も後のことかもしれない。まあ、とにかくだ。アキラには俺のすべてを叩き込む。そしてなんなら好きな男の一人や二人、まとめて護ってやれ」
フォークを持ってきた貫千が「さあ食おう」と席に着く。
「そ、そんな男性いません!」
茶を淹れ終えた明楽も口を尖らせながら席に着いた。
「──でも魔法が使えるようになってしまうのはとても恐ろしいことです……」
「それがツケだ」茶をすすりながら、貫千が感情のない声で答えると
「もしもそんな世界が訪れたらどうすれば……」両手を添えた湯呑みに目線を落とした明楽が不安そうに呟く。
「──死に行くものに意味があるように、また、生かされているものにもそれだけの理由がある。生きている理由。それを見つけることができれば自ずと生きる道が示されるさ」
そう言うと貫千は朝食を口に運び始めた。
「現代に生きる若者の言葉とはとても思えませんが……」
「実際のところ三十四だからな。世間的には十分おっさんの部類に入るんじゃないか?」
「お、おじさん……わ、私のお兄様が、お……」
「伊達に歳は食っていないつもりだ」──自虐を言う貫千は、複雑な顔をしている明楽にそう答えるのだった。
◆
定時になり、貫千はパソコンの電源を落とした。
そして
「さて──」
何事もなく一日の業務を終えた貫千であったが、億劫そうに席を立った。
まるで肩に重い荷物でも背負っているかのようだ。
先週起きた食堂の件で上司に呼ばれるようなこともなかった。
有栖川との昼食も特に問題はなかった。
土曜日のことで相談をしたところ、『ARISUGAWAに赴く用事があるから長野には同行できない』とのことではあったが、そのくらいだ。
小百合とは時間が合わずに会話ができていないが、特に変わったこともない。
例のストーカーについて一度だけメールでやり取りをしたが、今のところ目にしていないとのことであった。
社内では相変わらず婚約延期の噂が囁かれているが、それについては歓迎する意見が多く、問題視するほどでもなかった。
貫千と待ち合わせをしていたことも広がっている様子はない。
要するに、至って平穏な一日、であった。
にもかかわらず貫千が辛そうにしているのには──
二つの理由があった。
一つは先週、食堂で偶然助けた安土から『礼をしたいから一杯奢らせてくれ』との誘いを受け、今日は都合が悪いからと断りを入れたところ『では明日』と誘われてしまったことである。
そしてもう一つは──
「……亜里沙か」
安土の誘いを断った原因、北条亜里沙から半ば強引に待ち合わせを決められてしまったからであった。
今週は早く帰って土曜日に備えておく必要があった。
巨人豆を煮込んでスープを拵えなければならないからだ。
今日、明日と用事が入ってしまっては、木曜と金曜の二日間しか豆を煮込む時間がなくなってしまう。
今日届いた三つ目芋虫を料理してもいいのだが、なにせ三つ目芋虫は見た目がグロい。
味には自信があるが、病人に食べてもらうには……。
明日以降届く食材を使用してもいいのだが、なにが届くかはそのときになってみないとわからない。
それらを考えると、やはり昨日届いた巨人豆でスープを作っておくことが最善となったのだった。
明楽に調理させるという方法も考えたが、向こうの食材は卵の殻ひとかけらであっても扱いには注意が必要である。
こっちの生態系にどのような影響を及ぼしてしまうか未知だからだ。
豆の皮一枚ゴミ箱に捨てることはできない。
それらの廃棄物はすべて貫千がイマジナリボックス経由で向こうに返却している。
そこまでする必要がある食材の管理を明楽に任せるのは酷だ。
誤ってスープをシンクに流してしまい、それが下水に流入して、ネズミや昆虫の体内に取り込まれたら……大変危険だ。
だから料理に関してはすべて自らの責任で完結する必要があった。
巨人豆は非常に硬く、料理にかなりの時間を要する食材だ。
スープにするには二日はほしい。病人が摂取することを考慮するとさらにトロトロになるまで煮込みたいから四日、最低でも三日。
今日帰ったら早速調理に取り掛かろう──そう思っていたのだった。
だが、そこへきて安土と亜里沙からの誘いである。
安土に関してはなにかしらの理由を付けて明日も断るつもりでいるが、亜里沙は……
「機嫌悪かったな……」
亜里沙からは何度も電話がかかってきていた。
しかしそれらの悉くが貫千の忙しいタイミングでの着信だった。
そのため電話に出ることができずにいたのである。
もちろん逃げていたわけではない。
その証拠に、貫千からも二度ほど折り返しの連絡を入れていた。
だが亜里沙もタイミングが合わなかったのか、電話に出ることはなかったのである。
そして今日の昼にかかってきた電話によって、ようやく意思の疎通ができたのであった。
一方通行ではあったが。
『今夜七時、チャールストンに来て』
チャールストンとは貫千らが学生時代に通っていたカフェの名である。
そこで今夜待ち合わせとなってしまったのだ。
断ることもできたが、有栖川から『亜里沙のことを頼む』と言われていた手前、無下にすることはできなかった。
有栖川の目の前で電話がかかってきたのだからなおさらだ。
有栖川に相談したところ『亜里沙になら正直に話しても大丈夫だよ』と返ってきた。
だから貫千は、『二階堂さんには黙っているよう念を押しつつ亜里沙にも打ち明けてみようか』と考えたのだった。
明楽にも連絡は済ませてある。
明楽に遅くなる旨のメールを入れたところ、高槻というカメラマンからちょうど食事の誘いを受けて断ったところだったので、食事に行けるようになったとすぐに伝えるから遅くなっても大丈夫、とのことだった。
「要点だけを話してなるべく早く家に帰ろう……」
そんなことを考えながら貫千はオフィスを後にするのだった。
◆
待ち合わせ時間五分前に店の扉を開いた貫千は店内を見渡した。
といっても、そこにいるだろうという場所を確認したに過ぎない。
先日あった会議の場にも亜里沙はいたはずだが、貫千は仙石以外の人物と目を合わせないようにしていたので亜里沙の姿を見てはいない。
そのため亜里沙をすぐに見つけられるか不安ではあったが──その心配は無用だったようだ。
案の定、そこに座るオリーブ色の髪の女性を見つけた貫千は、その女性が亜里沙だとすぐにわかった。
学生のときと同じようにお気に入りのソファーに座っている亜里沙。
扉が開き、流れた風を感じたのか、亜里沙が入り口を振り返る。
そして──。
亜里沙であるのに記憶の中の亜里沙とはだいぶ異なっていたことに、貫千は、ハッ、と息を呑んだ。
貫千の知っている亜里沙よりも髪が伸びていた。
貫千の知っている亜里沙よりも大人の女性になっていた。
そしてなによりも──貫千の知っている亜里沙よりも美しくなっていた。
有栖川が『ますます奇麗になっていた』と言っていたが、これほどとは……
戸惑いながらも貫千は亜里沙のもとへ近寄って行く。
亜里沙が貫千の目をまっすぐに見続ける。
だから貫千も亜里沙から目を逸らせない。
見えない力で引き寄せられるように、貫千は亜里沙のもとへ近寄って行く。
「よう」
「──久しぶり」
「髪、伸びたな」
「そう、かしら」
「ああ。似合ってるよ」
「……ありがとう」
「ここ、座っていいか?」
「もちろん」
「なんだか亜里沙じゃないみたいだ……」亜里沙の向かいに座りながら貫千が呟くように言った。
卒業してから貫千と亜里沙とは一度だけ会っている。
社会に出てから一カ月後。
当時の仲間と集まりそれぞれの近況を報告しあったことがあった。
その後もメールや電話で話したことは何度かあるが、顔を合わせたのはそれが最後だった。
お互い二年以上会っていないことになるが、その空白はすぐに埋まった。
亜里沙は。
しかし貫千はさらに十年の空白がある。
常に死と隣り合わせにいた、激しく内容の濃い十年だ。
そのため貫千は当時の記憶がおぼろげなものになっていたのだったが──
「……どう? 私を振ったこと、少しは後悔した?」
続けられた亜里沙の言葉に、貫千の頭の中に一気に記憶が流れ込んできた。
お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
少し忙しく、しばらくの間は投稿が不定期になるかと思いますが、なるべく間が空かないように頑張ります。
執筆の進捗具合はツイッターで呟いたりしていますので、たまに覘いていただければと思います。
@shirohi_jp(始めたばかりで殺風景なツイッターですが……)




