第3話 運命の選択
社長たちが姿を消すと、ロビーを支配していた重々しい空気が霧散した。
誰かが息を吐き出すと、それに続くかのようにあちらこちらで安堵のため息が連発される。
緊張が去り、それぞれが思い思いの行動を始める──かと思いきや、そうはならなかった。ロビーにいた社員はほぼ全員がその場から動くことなく、先ほどの光景を見て好き勝手なことを話し始めた。
「さすが有栖川様。エリート官僚と並んでもまったく見劣りしないわね」
「それよりあの美人誰だよ! あんな奇麗な人、俺見たことねぇぞ!」
「北条って呼ばれてたよな、あの人。まさか北条グループと関係してたりして」
「有栖川様とお知り合いならその可能性も──」
社員の話題は、数分前までの貫千の陰口から、有栖川に対する称賛と謎の美女の詮索に切り替わっていた。
有栖川へと送られる視線は、尊敬、羨望、憧憬、多少の嫉妬も混ざってはいるが、概ね好意的なものだった。
「さあカンチ。行こうか」
やや硬い顔つきでエレベーターホールを見ていた有栖川だったが、社員らの視線に気づいたのか、いつもの柔和な表情に戻すと貫千に声をかけた。
そして──
「おう」
何事もなかったかのように、ひとり平然とした顔つきの貫千がそれに続いた。
「亜里沙、ますます奇麗になっていたよ」
「そうか。俺は下を向いていたからわからないが、目の肥えたお前がそう言うのなら相当だろうな」
「笑いかけるぐらいしてあげてもよかったのに」
「俺がか? んなことできるわけないだろ。俺なんかと顔見知りだと思われたらあいつも迷惑だろ」
「またそんなこと言って。それだと僕の立場がないんだけどな。──まあ、亜里沙のためにも今日は頑張らないとね」
「なにせ社運がかかっているからな。俺が言うのもなんだが、成功させてくれ」
貫千と有栖川の二人が、社長一行が歩いてきたロビーを反対側に進む。
「カンチがどれほど凄いのか、僕が証明してみせるよ」
「有栖川。頼むから俺の名前はもう出さないでくれ。生きた心地がしない」
社員らの注目を一身に受けた有栖川が覚悟の宿った表情で宣言すると、貫千はおどけてみせた。
「────」
自動ドアが開き、ビルから出る間際、有栖川がぼそりと呟いた。
貫千にはそれが聞こえていたはずだが、貫千はその呟きを拾うことはしなかった。
◆
「初めて挨拶したけど、カンチが言っていた通り二階堂さんって仕事ができそうな人だね。握手しただけでそれが伝わってきたよ」
オフィスビルを出て店へと歩きながら、有栖川が先ほど面識を持った男の感想を述べる。
「ああ。あの人は凄い。とにかくストイックだ。俺もあの人に赤い血が流れているのか本気で疑ったことがある。まあ人間らしさもあるっていえばあるんだけどな」
「カンチが記憶障害なんかにならなければ、そんな二階堂さんとタッグを組んでいられたのにね……」
「それはわからないさ。向こうは役人だ。イニシアチブは常にあっちにある」
歩道の信号が赤になり、貫千は立ち止まる。
記憶障害、か……
貫千は交差点の高層ビルを見上げながらひと月前のことを思い出した。
六月のある日、取引先に向かっていた貫千は、目的の駅に着き電車を降りようとしたところ、突然視界がぶれたことに両目を手で押さえた。
車両からホームへ足をかける直前だったために危険を感じ、それでもどうにか目を開ける。
するとあり得ないことに、目の前にはあるはずの地下鉄のホームがなく、なぜか広大な草原が広がっていたのだ。
驚き後ろを振り返る。と、貫千の目に入ったのは先ほどまで乗っていた電車の車両ではなく、一頭の白い馬。
しかも貫千はなぜかその馬の手綱を握っている。まさに馬から降りた瞬間、といったような状況にいたのだった。
草原と白い馬。それが貫千の向こうでの十年間の始まりだった。
そして十年が経ち、貫千は帰還することになる。
十年の間に出会った友人や仲間たちとの別れを惜しみつつ術を行使した貫千は、気がつくと見覚えのある地下鉄のホームに立っていた。
後ろを振り返ると、そこには電車の車両があり、扉が閉まりかけている。
大賢者が言っていた通り、転移したまさにその瞬間に戻ってきたのだった。
戻ることができたまではいいが、そこからが大変だった。ある意味、第三の人生の始まりなのだ。
なにせ十年もの時間を向こうで過ごしてきたのだから、十年前の自分がなにをしようとしていたのかまったく思い出せない。
会社へ連絡して自分がどこに行く予定だったかを確認するが、取引先の社名や担当者を聞いてもなにも思い出せなかった。
結局その案件は上手くいかずに流れてしまう。向こうの担当者が今までのやり取りをすべて忘れてしまっていた貫千を不審に思ってのことだ。
それからも貫千は今までとは別人のようにミスを連発するようになる。
アポイントメントがあってもそれを忘れていて訪問せず、その対応もまるで要点を得ないもの。
取引先の担当者だけでなく、上司や自社のチームメンバーの名前も憶えていない。
担当している案件の進捗について上司から報告を求められてもなにも答えられない。
──といった致命的なミスだけでなく、細かいところでは役員とすれ違っても挨拶もしない、パソコンのデータを消失してしまう、などということもあった。
貫千が医師から記憶障害と診断されたことにより、懇意にしていた取引先もみな離れていった。結果、会社に少なくない損失を与えることになってしまったのだ。
貫千が抱えていた最大のプロジェクトも流れかけたが、貫千と幹部が必死で二階堂に頭を下げ、有栖川が後を引き継ぐという形でどうにか繋ぎとめることができたのだった。
貫千は解雇こそ免れたが、それらの責をとって今の部署に異動になった。
本来ならそれに甘んじることなく自ら辞表を提出するべきなのであろうが、貫千には周囲からなんと言われようと、この会社に残らなければならない理由があった。
あのプロジェクトだけは……
「青だよ、カンチ」
有栖川の声で我に帰った貫千は横断歩道へ踏み出した。
「──迎賓館が完成したら、僕たちも招待してくれるのかな」
「……どうだろうな。俺はもう無理だろうが……それに建設する場所が場所だからな」
「でもレセプションくらいは呼ばれたいじゃないか」
「そうだといいんだが、その前にやるべきことはまだたくさん──」
人の流れに乗りながら、二人はそんな会話を交わすのだった。
◆
「やっぱり今日は行列だね。予約しておいてよかったよ」
有栖川の言葉に貫千が前方に目をやれば、なるほど、そこには長い行列ができていた。
「あの鰻を食べればカンチの味音痴も治るよ」
「……やっぱりそれが目的か」
「そうじゃないって。でも美味しいものを食べるんだ。もしかしたら、って思うくらいはいいだろう?」
「はぁ……」貫千はわざと大きなため息を吐いてみせるが、有栖川はまったく意に介さないといった様子でにこにこと笑っている。
「何度も言うけど、別に俺は味音痴ってわけじゃないんだけどね……」
ん?
こんなところにも薬局があったのか……
貫千がぼやきながら行列の最後尾を追い越そうとしたとき、薬局の看板があることに気がついた。
行列の最後尾は店から三件手前の薬局にまで差し掛かっていたようだ。
歩きながら貫千が腕時計を見ると、十二時二十五分を指していた。
予約の時間まであと五分。
五分あれば間に合うよな……
貫千は目薬を購入しておきたかった。
無論、それは少しでも老眼を遠ざけるための涙ぐましい努力の第一歩である。
こっちでは二十四年しか生きていないから、老眼をケアするには少し早い。だが、向こうでの十年を入れると三十四になる計算だ。
肉体的な衰えはまったく感じないが、貫千は『老眼は四十を越えると急速に近づいてくる』と父親に脅されていたこともあり、
「有栖川。目薬買ってから行くから先に店に入っててくれ」有栖川にそう断りを入れた。
「目薬? それなら後で医務室に行けば──」
「老眼用のいいやつが欲しいんだよ」
「ろ、老眼って、僕たちまだ二十四だよ? なにをおじさんみたいなこと言ってるんだい」
「慣れない作業をすると一気に老けるんだよ」
唖然としている有栖川に向かって貫千がキーボードを叩くジェスチャーをする。
「そうなの? うん、それじゃあ先に行ってるよ。僕の名前で予約してあるから」
貫千は、納得して店に歩いていく有栖川の背に手を振る。
このとき、有栖川の言う通り医務室で目薬をもらうか、食事を終えた後に薬局に寄っていたのであれば、あるいは貫千の今後の人生は平穏なものになっていたのかもしれない。
しかし碧い目の女神がそれを良しとしなかったのか。
運命を分ける重且つ大な局面がすぐそこに迫っていた。
だが、そのことをこのときの貫千は知る由もなかった。




