2-10 緊急帰国
トルッケンがデザートを口にするのを、貫千と小百合が静かに見守る。
トルッケンはまず、フォークに乗せたザルツブルガー・ノッケルンを鼻先にもっていった。
まぶたを閉じると鼻孔を膨らませ、すぅっと息を吸い込む。
長い時間をかけてゆっくりと吸い込む。
タキシードのシャツが窮屈そうだが、それでもまだ吸い込む。
まるで肺の中をザルツブルガー・ノッケルンの香りで充満させようとしているかのように。
やがて満足したのか、それ以上吸い込むことが不可能になったのか、トルッケンはゆっくりと何度か頷くと、鼻から空気を送り出した。
そして鼻先に固定していたフォークを移動させて、おもむろに開いた口にザルツブルガー・ノッケルンを──
「ッ素晴らシイ!!」
入れるや否や、トルッケンは閉じていた目を見開き絶賛した。
そのタイミングで、貫千が赤ワインをグラスに注ぐ。
すると、トルッケンはそうするのが当たり前であるかのように、グラスを持つと赤ワインを口に流し込んだ。
そしてまたザルツブルガー・ノッケルンを口に入れ、赤ワインを飲む。
それを一心不乱に五度ほど繰り返すと
「ッヴゥンダバァッ!」
トルッケンはイスを蹴倒して立ち上がった。
そしてグラスに残った最後のワインを一気に呷るとそれを乱暴にテーブルに置き、
「おいオマエ! これを作った女を呼びもどセ!」貫千に向かって右手を、ぶん、と払いながら大声を出した。
しかし、貫千は表情を崩すことなくトルッケンが倒したイスを元に戻すと、
「それは出来かねます。アライド様。先ほど申し上げましたように、この料理を作った料理人はすでに当ホテルを発っています。今頃は空港、もしくは飛行機の中かと」
そう言って最後に小さく頭を下げる。
「ソンナことは聞いてイナイ! いいから今すぐここに連れてコイッ!」
「申し訳ありませんが、アライド様のお望みを叶えることは不可能でございます」
トルッケンは激高するが、それでも貫千は態度を変えない。
「チッ! 使えない奴ダッ! 名前でもなんでもイイッ! その女にツイテ知っていることを話セッ!」
「それでしたら、『万が一、アライド様に私のことを尋ねられたらこう答えてください』という言葉は調理場のスタッフ経由でお預かりしております」
「最初からそう言エッ! それでナント言ってイタノダ!」
貫千は「承知いたしました」と頭を下げた後、さもその言葉を思い出すかのように少しの間を取ると、女性からの言葉として話し始めた。
「『ある事情から私の素性は明かせません』」
「どういうことダッ!」
「まだ続きがありますので。『私のザルツブルガー・ノッケルンはいかがでしたでしょうか。お気に召していただけたのであれば、再びお作りできる日が来ることを楽しみにしております。ですが私は本国に帰り着き次第、とある名士のお館に入ることが決まっております。それは料理番としてではなく妾としてですので、今後はアライド様にお目通りすることはできなくなるかと思われます』」
貫千はここでいったん話を切った。
「それだけカ!」トルッケンが苛立ったような手付きでタキシードのタイを緩める。
「いえ。最後にこう言っていたそうです。『私をアライド家の料理人として迎え入れていただけるのであれば、私はそちらを選択したいと考えております。その際にはどうか私が名士の館に入ってしまう前に、アライド様自ら迎えにお越しください。そしてその名士と交渉をしてはいただけませんでしょうか』──以上でございます」
話を終えた貫千は優雅にお辞儀をした。
「ナンダト……」トルッケンは喉の奥から絞り出すような声を出すと、どっかとイスに腰掛けた。
「……その女の歳はいくつなのダ」
トルッケンがまだ五分の一ほど残っているデザートを見ながら貫千に訊ねる。
「それが、年齢も伏せていたそうなのです。ですが、スタッフが言うには十六、七歳ほどだとか」
「そんなに若いノカ!」
貫千が答えるとトルッケンは驚いたような声を上げた。
「レイヒル、今日の本国行きのフライトは!」
トルッケンがドアの方に向かって声を発すると、
「少々お待ちを。エェト──」ドアの横で控えていた秘書を務める外国人の男が端末を操作する。
「11時50分と16時50分デス」男がそう伝えると
「女は何時にホテルを出タ」トルッケンが今度は貫千に訊ねる。
「三時間ほど前かと」貫千が適当に答える。
その女が実際に存在するとして、十一時五十分のフライトにギリギリ間に合うかどうかという時間だ。
すると、トルッケンが腕時計で時間を確認する。
「レイヒル! 本国のオフィスに連絡を入れテ11時50分東京発の便で帰国する十七、八くらいの女を全員空港で足止めさせてオケ!」
腕時計からデザートに視線を移したトルッケンが指示を出す。
指示を出しながらもデザートの皿から目を離そうとしない。
そして小百合もデザートを見ていた。
残り一人分をどちらが食べるか──静かな戦いが巻き起こっているかのようだ。
「ボス! さすがにそれは無理デス!」
「無理でもヤレ! ワタシはこのザルツブルガー・ノッケルンのためなら全財産をはたいてもカマワナイ!」
トルッケンが怒声を上げる。
するとそれを見ていた小百合が
「給仕係さん。アライド様はお忙しいようなので、残りは私がいただきます」
貫千に残りをすべて皿に盛るよう頼んだ。
「ハハハ! サユリはもうたくさん食べたじゃないカ! 無理しなくてイイ! それは私がイタダクヨ!」しかし横からトルッケンが割り込んでくる。
貫千はどうしたかというと──無言のまま、トルッケンの皿に最後のザルツブルガー・ノッケルンを盛り付けた。
「あっ」小百合が小さい声を出す。
しかし貫千は構わずにトルッケンの前に皿を置いた。
「この世で一番上手いザルツブルガー・ノッケルンだ! これは祖母をも越えタ!」
顔を赤くしながらザルツブルガー・ノッケルンを頬張る。
破滅の貴公子が、今ではただの甘いモノ好きの外国人にしかみえない。
「レイヒル! 16時50分の便で本国へ帰るゾ! アジアでのすべての予定をキャンセルしておケ!」
皿を綺麗にしたトルッケンが席から立ち上がる。
「サユリ。ワタシは急用ができた。蓮台寺サンには悪いが、今回は予定を見送って次回マタ発表を行うトシヨウ」
「──そうですね」
小百合が不機嫌そうに応じるのは、婚約の延期のせいではなくて、最後のひと皿を食べられてしまったからということをトルッケンは理解しているだろうか。
「後藤さん。今の話を聞いていましたか? 蓮台寺へは後藤さんから連絡をしておいてください。それとお集まりいただいているマスコミの対応もお願いたします」
そう言う小百合の声はいっそう冷たい。
後藤という男が嫌いなのか、やはり最後の一口が食べられなかったからなのか。
「は、はい!」後藤は慌てて返事をすると急いで電話をかけ始めた。
「レイヒル! 急ぐゾ!」
トルッケンはやや走るようにして、SPともう秘書を引き連れて部屋から出て行ってしまった。
残っていた後藤も電話を終えたのか、
「お嬢様! 下のフロアに行ってまいります!」部屋から出ていった。
◆
「先輩! 大成功です!」
広い部屋に二人きりになると小百合は立ち上がり、笑みを浮かべて貫千の前に歩み寄る。
「だがまだやることがある」
しかし、貫千はまだ歯を見せない。
おもむろに電話を取り出して指先で操作をすると
「──ああ。俺だ。雅、早速で済まないが今朝言っていた三つ目の条件を使わせてもらう」
雅のプライベート用の電話に連絡を入れた。
「まあそう言うな。──ああ。また近いうちな。で、最初の依頼だが、今から言う国の空港を監視してほしい。監視対象は若い女性をターゲットにしているマフィアだ。──ああ、そう仕向けてくれ。相手は武器商人だ、やり方は任せる。トップはトルッケン=アライド。できるか? ──さすがだな。俺の手が省ける。では今からその国とフライト時間を伝えるから──」
そのやりとりを小百合はきょとんとした顔で聞いていた。
そして電話を終えると──
「これでようやくミッションコンプリートだ」
貫千が大きく伸びをした。
「──先輩! 本当にありがとうございました!」
それを見て小百合も深く頭を下げる。
「これでトルッケンは当分の間、いや、もう二度と日本に来ることはできないかもしれないな」
「……? でも良い気味です。それで先輩、先ほどのお電話は……」
「ああ、後始末屋、みたいなものだ。小百合は気にしなくていい」
貫千は、恐る恐ると言った感じで質問をしてくる小百合に適当に答えた。
小百合もそれ以上は追及しないようだ。
助けてもらった恩人の言うことは素直に聞き入れるらしい。
「だが、家の内情までは口を挟めないからな。それに関してはそっちで何とかしてくれ」
貫千が蓮台寺家について言及すると、小百合が「はい」──しっかりと頷く。
「先輩……?」まだ心配ごとが残っているかのような口調で貫千を見上げる小百合に
「ん? どうした? なにかまだやりのこしていたか?」貫千が首を傾げる。
「いえ。ただ……助けていただいたすぐあとで厚かましいのですが……この間おっしゃていた向こうの食材の秘密、いつ教えていただけるのでしょうか……? 先ほどのデザートもとても美味しくて……」
「ん? ああ……そういえば……」
そう約束したな、と貫千は刹那、頭の中で考えを巡らせると、
「小百合はこの後の予定はどうなっている?」小百合の予定を訊ねた。
「差し当たっては後藤さんが対応してくれていますし……一本連絡しておけば、家へは夜に帰れば大丈夫です」
「そうか。なら今から家に来ないか? 外でする話でもないから家で説明しよう」
「先輩の家? よろしいのですか? それは楽しみです! あ、そうです。先輩、ポーション使わなかったのでお返しします」
小百合はそう言うと、小さな手提げバッグから貫千がもしものときのために渡しておいた魔力回復薬を手渡してきた。
しかし、それを見た貫千は
「いや、この先なにがあるかわからない。それは小百合が持っていてくれ。回復魔法に長けたシャル……というか元シャル……でいいのか? ──の小百合が使う回復魔法なら、即死でもない限り治癒はできるはずだ。それもあとで試してみよう。だが昨日も言った通り、人前では決して使うなよ?」
そう言い、続いて保管上の注意点をいくつか説明する。
「金庫はありますが……いいのですか? このような貴重な薬、私に持たせてしまって……」
「ああ。いつも小百合が危険なときに俺が傍にいるとは限らない。向こうとは違うからな」
「それならいっそのこと……」
小百合がなにかを言いかけたが、
「さあ。帰るか。だらしない妹がいるから紹介しよう」
貫千はドアへ向かって歩き出してしまった。
「あ、は、はい!」そしてそれを小百合が小走りで追いかける。
テーブルの上には、それは見事なまでに綺麗に平らげられたデザート皿が残っていた。
こうしてひとまずの危機を乗り越えた二人は、ホテルを後にして貫千の自宅へと場所を移すのだった。




