2-6 貫千流闘術次期当代 貫千雅
「じゃあ行ってくる。昼からも用事があるから帰りは遅くなると思う。夕飯は先に食べててくれ」
「承知いたしました。行ってらっしゃいませ。お兄様。お気をつけてください──特に雅様には」
「……ああ」
朝七時。
いつも通り朝の鍛錬を終えた貫千は、本家へ向かうため自宅を出た。
呼び出しを受けた貫千流闘術次期当代、貫千雅と面会をするためだ。
呼び出された理由については思い当たる節がある。
十中八九、いや、九分九厘、昨日食堂で起きた騒動についてだろう。
昼間、会社内で起きたことを夕方には把握しているとは──。
貫千家の情報収集能力の高さを改めて思い知らされた貫千は唸るしかなかった。
貫千の中では言い訳など特にないので、人命救助の一点で押し通すつもりだが、雅はそれで納得するだろうか。
あれ以来、俺を毛嫌いしている雅が……
昼からは小百合の将来を決める重要な作戦が控えている。
そのためなるべく早く本家を発ちたい。
「特に雅には……か……」
待たせていたタクシーに乗り込んで早々、貫千は明楽の忠告を呟いた。
◆
「変わらないな、ここも……」
子供のころから少しも変化をみせない、威圧するような櫓門を見上げた貫千は、次いで左右に立つ仁王像へ視線を向けた。
歴史的価値も高い、貫千の背の倍以上ある巨大な像だ。
そして、誰であろうと差別することなく睨みつけるその形相に、昔この像が怖くてたまらなかったことを思い出した。
「少し早すぎたか……」
時刻は七時半。
土曜日の朝ということもあり比較的道路が空いていたため、三十分足らずで本家に到着してしまった。
本家敷地内にある道場では、まだ朝の鍛練をしている時間だろう。
「散歩でもして時間を潰すか……」
鍛練中の雅を呼び出すなど、虎の尾を踏む行為に等しい。
普段通りであれば、鍛練は八時には終了するはずだ。
それまで貫千は本家の周りを散歩でもしようかと考えた。
敷地に沿ってゆっくり歩けば、ちょうど三十分ほどで一周できる。
こっちの時間ではわずか一年と数か月なのだが、貫千的には実に十一年振りの帰省となる。
何を訊ねられようと、動揺せずにいられる心構えを準備するにも好都合だった。
そして貫千が櫓門に背を向けたところ──
「おやぁ? これはこれは。社会の歯車の一員になった海空陸さんじゃないですかぁ」
敷地の中から声が聞こえてきた。
貫千が振り返ると──
「本当だ! 歯車っても噛み合いもしない、役立たずの歯車って噂ですけどね」
門の向こうに道着を着た二人の男が立っていた。
その男の顔をまじまじと見た後、
「……誰だ?」眉を寄せた貫千が首を傾ける。
その仕草が癪に障ったのか、年配の方の男が眉を吊り上げて叫んだ。
「てめぇ! 俺のこと忘れやがったのか! いくら当代の息子だからってでけぇ顔してんじゃねぇぞ! 負け犬が!」
「まあまあ、榊さん、あんなのに腹を立てても仕方がないですって。もう俺らとは関係ないんですから」
それをもう一人の若い男が宥める。
「ああ、おまえ、榊か。髪が薄くなったから気づかなかったわ」
貫千は二人のことを相手にもせず、「じゃあ」と言って振り返った。
「ま、待ちやがれッ!」
すると、立ち去ろうとする貫千の肩を、駆け寄った榊が荒々しく掴んだ。
榊の顔は茹でた蛸のように赤くなっている。
「あいつ、榊さんが一番気にしてることを……」若い男がボソッと呟く。
榊は頭髪について触れられると性格が激変するのか。
肩を掴まれた貫千は面倒そうに振り返る。
「いったいここに何しにきやがった!」榊が貫千の顔に唾が飛ぶ勢いで訊くと、
「なんだおまえ。聞いてないのか?」貫千がひどく不快そうな顔で受け答えをする。
「聞いてないって、何を、誰にだ!」
「俺が来ることを、雅にだよ」
「雅様だとっ! な、なんで雅様がおまえなんかと!」
「それはこっちが聞きたいんだが。わかったら手を放せ。俺はもう少し時間を潰してから顔を出す」
「て、てめぇ! いったいなんの用だ!」
「だから……ってか、おまえら今の時間になにやってんだ? 鍛錬は終わったのか?」
貫千が呆れ顔でそう言うと
「う!」榊が気まずそうに目を逸らす。
「さ、榊さん! 早く走って戻らないともう一周増やされますよ!」
「ちっ! わあってるよ! てめえ、貫千流から逃げたんだ、二度とこの辺りをうろうろすんじゃねぇぞ!」
榊はそう啖呵を切ると、若い男と一緒に走り去った。
おそらく鍛錬中になにかやらかして屋敷の外周を走ってこいとでも言われたのだろう。
「俺だって来たくないっての……」
貫千はそうごちると、男らの走っていった方へ歩き出した。
◆
「まあまあ! 海空陸お坊ちゃま! よくお帰りになられました!」
八時になった頃合いで本家の敷居を跨いだ貫千は、玄関先で乳母に抱きしめられていた。
「……し、しずさん。ごほっ。苦しいって」貫千が咽ながら、しずの肩を引き剥がす。
「しばらく見ないうちにまたご立派になられて! しっかりとお食事は召し上がっていますか? お休みになられる際には布団は蹴飛ばしていないですか? お坊ちゃま、せめてひと月に一回はお顔を見せに来てくださいまし!」
貫千に会えたことがよほど嬉しいのか、しずは貫千の身体をぺたぺたと触りながら言葉を捲し立てる。
「そのお坊ちゃまって、もうやめてくれないか? さすがにいい大人が──」
「何をおっしゃいます! お坊ちゃまはいくつになろうとお坊ちゃまでございます! まだ赤子のころ、泣き叫ぶお坊ちゃまのおむつを替えて──」
「わかった! その話はそのくらいにして、雅はいるかな?」
年寄りが昔話をし始めると収拾がつかなくなる。
貫千は慌ててしずの話を遮り、用件を伝えた。
「雅様にご用事で? これは珍しいことがあったものですね。お坊ちゃまが雅様をお尋ねになるなど」
「いや、尋ねに来たわけじゃない。呼び出されたんだ。線香あげたら客間で待ってるから呼んできてくれないか?」
「さようでしたか。ではお坊ちゃまがいらしたとお伝えして参ります。ちょうど鍛錬が終わった頃かと思いますので」
貫千は靴を脱ぐと玄関に上がった。そして仏間へ行こうとしたが
「お坊ちゃま。旦那様はいかがいたしますか?」
しずがそう言ったことで足を止めた。
「親父は……」わずかに逡巡した後、貫千はしずを振り返り、
「……親父には俺が来たことを報せなくていい。今日は雅に呼ばれて来ただけだからな」そう回答した。
しずは落胆したのか「……承知いたしました」と元気なく返事をする。
しかし「お袋もまだ山荘だしな」と貫千が続けると
「奥様とはご連絡を取られているのですか! それはそれは!」表情を明るくした。
「秋になれば戻ってくるようなことを言っていたぞ?」
「そうですか! それは楽しみです!」
しかしすぐに表情を曇らせると、しずは
「奥様ときたらお坊ちゃまがここを出られてから塞ぎ込んでしまって、静養のために長野の山荘に行ったきり……私は奥様が心配で……」
前掛けをいじりながら俯きがちに貫千の母親の話を始めた。
「ああ。でも向こうで元気にしているようだ。三日に一回は電話をかけてきて、息子から煩わしいと思われるほどには」
そんなしずを励まそうと、貫千が近況を聞かせる。
「煩わしいだなんてお坊ちゃま! 奥様がどれだけお坊ちゃまのことを──」
「わかってる、わかってる。それより雅を呼んできてもらえるかな? そうゆっくりしていられる時間もないんだ」
しずが気を取り直したタイミングで貫千が腕時計をチョンと触れると
「そうでしたか。ではすぐにお呼びしてまいりますので」
それに気づいたしずは、長い廊下を奥へと走っていった。
◆
仏壇に線香をあげた貫千は客間に移動した。
畳の上で胡坐をかいて雅が来るのを待つ。
するとそこへ、湯呑を乗せた盆を持つ使用人が入室してきた。
十五、六歳の少女。貫千の知らない顔だ。
いや、先ほどの榊の例もある。
もしかしたら忘れているだけかもしれない、と、貫千は茶の入った湯呑を机の上に置く使用人の顔を凝視した。
「あの……なにか……?」
少女が恥ずかしそうに身をよじらせる。
どうやら向こうも貫千のことを知らないようだ。
ということはここ一年でこの家に来た、ということか。
「あ、いや。何でもない。君は……最近この家に入ったのかな?」
そのことを貫千は少女に確認してみた。
「は、はい。この四月から働かせていただいております、早乙女しずの孫の、早乙女舞と申します……」
「え!? しずさんの孫? おお! そうなんだ! そういわれてみると目元のあたりがそっくりだ」
もじもじしている少女の顔を、「へえ~そうか~」と無遠慮にいろんな角度から貫千が眺めていると、
「相も変わらず下衆いこと」氷のように冷たい声が聞こえてきた。
びくっとした貫千が声のした方を見ると──
「み、雅!」
音もなく開いた襖の向こうに、たとえ何年経とうとも決して忘れやしない人物の姿を捉えた。
絶対零度の声を発したのは、和服姿の雅であった。
貫千がもっとも苦手とする人物の一人、雅の登場に、貫千は思わず正座をする。
で、その隣では舞が頬を赤くしている。
「ち、違うぞ! 雅、これは舞ちゃんがしずさんのお孫さんだっていうから! あのしずさんにこんなに可愛い孫がいるのかと──」
貫千が弁明するが、それに耳を貸そうともせずに雅は上座に座った。
「舞。さがりなさい」
「は、はい」
雅の前に湯呑を置いた舞が「失礼いたします」と出ていく。
しばらくしても貫千と雅の二人は、お互い口を開くことなく、客間は重苦しい静けさが支配した。
なんとも微妙な空気に貫千は居心地の悪さを感じる。
一分は経っただろうか。
「まずはお久しぶりですね。ミクリ様」雅が先に沈黙を破った。
濡れ羽色の長い髪を、白く細い指の先で耳にかける。
切れ長の目で見据えられると、とても二十歳とは思えない艶やかさに貫千はハッと息を呑む。
貫千が高三、雅がまだ中学三年生のときに見せた雅の涙が、刹那、貫千の脳裏にフラッシュバックする。
上から覆いかぶさるように貫千を押さえつける雅。
雅の黒い髪の毛先が貫千の頬をそっと撫でる。
雅の小さな唇は、わずかに震えていた。
その唇が迫り来るのを感じた貫千が一言発する。
すると、雅の深く黒い双眸が瞬く間に潤む。
そしてポタリ、ポタリと零れ落ちた涙が貫千の鼻や唇を濡らす。
蝉の声が煩い、暑い夏の午後──。
今となって思い返せば、あれは涙ではなく汗だったのかもしれない──。
「──ああ。久しぶりだ……本当に……」
昔はこんなに苦手意識はなかったはずだ──
そういえば、あのとき俺はなんと言ったのだったか……
そんなことを思いながら、貫千は雅に挨拶を返した。




