2-2 見覚えのある顔
『昨日のプロジェクトの件で、専務から呼び出されたので昼を一緒にできなくなった。すまない』
有栖川からの社内メールを確認した貫千は、
「べつに謝る必要はないんだが……」パソコンの電源を落としながらごちた。と同時に、さて昼をどうするか、と考える。
昨日までは有栖川が毎日誘いに来ていたので、どこで何を食べるか別段考えなくともよかった。
昼になるとやってくる有栖川に『今日は何にしようか』と質問されれば『なんでもいい』と答える。
すると有栖川は『了解』と、すでに店を決めていたかのように貫千を様々な店へと連れ出す。
そして、貫千は着いた店で適当な食事を注文するだけでよかったのだ。
一カ月近く趣向の異なる店を選び続けるなど、よほどマメじゃないとできないことだろう。
しかも混雑する昼時だというのに、ほとんど待たされた記憶が貫千にはない。たまたま空いていたり、運よく客が帰った後だったり。
どんな魔法を使っていたのやら……
知り合ったころとは大違いだ。
まあ、あのころからできる男ではあったが……
有栖川に自分の変化について詮索されたくないという理由から『有難迷惑だ』などと捉えていたが、有栖川の手際の良さを再認識した今、貫千は旧友の見事な段取りに感心と感謝の念を持たざるを得なかった。
今更ながら、ひと月経ってようやく、である。
これも昨日、小百合と秘密を打ち明けあったことによって、心の余裕ができたからかもしれない。
外に出るのも億劫だし……
食堂にでも行くか……
有栖川はただの一度も社員用食堂を選ばなかった。
それは貫千を気遣ってのことに違いない。
無論、貫千もそのことに気づいている。
単に食堂といっても、貫千らが務める企業の食堂はかなり広い。
二十五階、二十六階の二フロアを贅沢に使用しているので千人は収容が可能だ。
そんな場所に貫千が姿を見せようものなら、瞬く間に話題は貫千のものとなり、ゆっくり食事をすることなど不可能となる。
だから有栖川は貫千を外に連れ出していたのだが、しかし、有栖川が隣におらず自分ひとりきりであれば、たとえ千人から白い目で見られようとも、貫千にとってはどうということはなかった。
自分ひとりであれば──。
しかし、今、そんな貫千が珍しく動揺している。
会社では俺に関わらないほうがいい、と、釘を刺しておいたにもかかわらず、
「先輩もここで召し上がるのですか!」
貫千を見つけた小百合が小走りで駆け寄ってきたからだ。
「蓮台寺さん……会社では俺に近寄らないようにって言っておいたはずだが……?」
「先輩! 呼び方が戻っています!」
小百合がぷくっと頬を膨らませる。
「当たり前だろう。こんな人前で自ら地雷を踏むやつはいないぞ」
貫千の言うことはもっともだ。
他人の目など気にしないとはいえ、あえてトラブルを招くようなことは避けたい。
当然、貫千を睨んでいる男が絡んでのトラブルだが。
貫千だけならまだしも、小百合の評判に影響が及ぶ恐れもあるのだ。
「でも……」納得がいかないのか、拗ねたように俯いた小百合の隣に
「貫千先輩! 昨日は助かりました!」近寄ってきた花澄が並んだ。
「小百合ぃ、ひとりで行かないで先輩がいるって私にも教えてよ」花澄が小百合の脇を突く。
「きゃ」という小百合の反応を楽しんだ花澄が続ける。
「昨日、残業を終わらせてすぐに先輩を訪ねたのですが、もう帰られた後だったようで……お礼が遅くなりましたが、本当にありがとうございました」
「お礼を言ってもらっておいてなんだが、俺は何もしていないんだ。ただ、知り合いの店に連絡をしただけで……」
貫千はそう言って小百合をチラッと見た。が、すぐにそのことを後悔する。
貫千と目が合った小百合が『そうです! そうですよね!』とでも言いたげな様子で、嬉しそうに微笑みながら頷いたのだ。
これでは二人はまるで秘密を共有するカップルのようだ。
花澄はそんな小百合を見て「?」と首を傾げている。
──当然、周囲はざわついている。
「愛川さん、蓮台寺さん。先に席に──あら、あなた……」
三人で話しているところへスーツを着た女性社員が声をかけてきた。
秘書課課長の桜井だ。
「あ、課長! こちら貫千先輩です! 今、昨日のお礼を──」
「か、花澄さん! ほら、課長を待たせては──」
花澄がうっかり口を滑らせてしまいそうになるのを小百合がうまくフォローする。
「昨日の……お礼……?」
しかしそれを聞き逃さなかった桜井の表情が一瞬険しくなる。
「きゃ! あ、ああ……はい! なんでもありません!」
今度は逆に小百合に脇を突かれた花澄が、貫千との約束を思い出したのか、慌てて取り繕うと、
「課長! 今日は二階で食事をしましょう!」
「そ、それがいいです! さすが小百合!」
小百合の提案に相槌を打つ。
小百合が逃げるように桜井を連れて階段を上がっていくと、花澄は貫千に向かってあざとく舌をペロっと出した後、頭をぺこりと下げて二人の後を追いかけていった。
残された貫千は一つため息を吐くと、空いている席を探すのであった。
その際、いくつものただならぬ殺気を感じたのは言うまでもないだろう。
◆
この食堂の食事は美味しくて有名だ。
テレビや雑誌にも度々紹介されるほどである。
外の店で頼めば三千円はくだらないだろう食事がすべて無料で食べられるのだ。
そのことから、この会社の福利厚生を目当てに入社してくる新人も少なくなかった。
窓側の一番端の席に座った貫千は、無造作に食事を口に運びながら、他人の食事風景をぼんやりと見ていた。
美味しいと評判の食事でも、自分と同じように美味いと感じない者がいるのではないだろうか──。
もしかしたら、自分と同じような帰還者がいるかもしれない──などと考えながら。
それも小百合と出逢ったからである。
そのようなこと、昨日までは一切考えもせずにいた。
貫千は向こうで地球生まれらしき人間には一人も出会わなかった。
小百合のような例があるので記憶を失っていた期間のことは別だが、それでもそういったことを耳にしたこともなかった。
だから自分一人だけが向こうへ行き、そして戻ってきたと思っていたのだ。
自分以外にもそういった者がいたところでどうだ、という話なのだが、向こうの世界で貫千は数えきれないほどの敵をつくった。
悪人とはいえ、人の命を何千、何万と奪ってきた。
そういった輩と密接に関与していた人物がいて、その人物がこっちに戻ってきたとしたら──貫千が復讐の対象になっている、などという話もまったくないとは言い切れない。
容姿こそ今とは異なるから、こっちの貫千と向こうの貫千とを結びつけることは容易ではないだろうが、なにがきっかけで素性がばれるかわからない。
そう考えると、昨日、あの姿に変化して見せたのは失敗だったか──。
小百合が向こうから戻ってきたということを知った昨晩、貫千の頭にはそういった懸念もあった。
可能性だけで言えば、貫千が行った世界とは異なる世界に行って戻ってきた者もいるかもしれない。
まあそれを言いだしてしまえばキリがなくなるが……。
存在するかどうかもわからないほかの世界のことは置いておくとして、貫千が行った世界から帰ってきたかどうかを見極められる方法として手っ取り早いのは、他人が美味いと感じる食事をどう食べているか、だ。
だから極端に不味そうに食べている者を探していたのだった。
無論、ほかにも見分け方はある。
身体能力が向上していたり、おかしな能力を身に付けていたり、といったようなことだ。
だが、身体能力には個人差があるため測りづらい。
無名だった者が、なにかの競技でいきなり世界記録を樹立した、などというわかりやすい例があればその人物を疑うこともできるが。
おかしな能力──つまり魔法にしても、使うことができる者はそうはいないだろう。
根拠としては、最終的には大魔導士スティアラをも凌ぐほどの魔力を持つまでに至った貫千でさえ、地球に於いては初歩魔法を行使することもままならない、ということにある。
昨日の変化魔法のことだ。
だから貫千としては、自分以外に魔法を発動できる者は皆無だろう、という思いはあった。
自分が行った世界からの帰還者限定の話だが。
それ以外の世界があったとしても、そっちは貫千の知る限りではない。
そんな簡単に見つけられるはずないよな……
気配を殺して食事風景を見ていた貫千が胸の中で呟く。
まあそれはそうだろう。
多くの社員は親しい者と歓談をしながら食事をとっているのだ。
つまりほとんどが笑顔。
その中から帰還者かどうかを見分けるなど、いくら元勇者であろうともできようはずがなかった。
◆
早々に帰還者探しを諦めた貫千が、窓の外に広がるビル群を眺めつつ、改めて地球の文明に畏れ入っていたとき、それは起こった。
「警備員を呼べ!」
和やかな食堂に突如響く怒号。
最初こそ社員同士の小競り合いかと、誰も気にしていなかったが、食器やグラスが粉砕する音に続いて、数人の悲鳴が聞こえてきたことに、貫千を含めこの場にいる全員の間に緊張が走った。
「警備員を!」
繰り返される男の叫び声。
どうやら二階から聞こえてくるようだ。
しかし、「喧嘩だ!」と誰かの叫び声が聞こえてきたことに、一階にいた社員らは再び食事を始めた。
他部署と顔を合わせる食堂では、争いごとも多くはないが、あるにはあった。そのため、そのうち収まるだろう──といった感覚なのだろう。
貫千も同じだった。
だから、ちょうど食事も終えたことだしオフィスに戻ろう──と、席を立った。
そして、階段下付近に差し掛かったとき、信じられない光景を目にする。
「──うわあっ!!」
悲鳴を上げながら、二階から男が落下してきたのだ。
「きゃあああ!!」
それを見た女性社員の悲鳴が食堂中に響き渡る。
──!
貫千は咄嗟に落下地点めがけて走ると、勢いよく跳んだ。
弧を描きながら、そのまま空中で男を抱きかかえると、床と水平に身体を回転させる。
一回転、二回転。
遠心力を使い落下速度を抑えると、回転しながら床に膝をつけた。
「大丈夫か!」
あまりの回転速度のため、男は気を失ってしまっているが、呼吸はしている。
それでも床に打ち付けられるよりはマシだろう。
あのまま落ちていれば、一生を病院で過ごすことになっていたかもしれない。
男をそっと床に寝かせた貫千は、何事だ、と、二階を見上げる。
すると、階段脇の手すりから下を覗く大勢の社員の顔があった。
みな一様に目を見開いているのは、男が無事であることに安堵しているからか、それとも貫千の人間離れした身体能力に驚かされたからか。
「何があったんだ!」
貫千が声を荒げる。
すると、
「ウンノイイヤツデスネー」
要人のSPのような姿をした、屈強な外国人の男が階段上にぬっと姿を出した。
そしてその後ろには、同じような体格のSPがもう一人。と、その横に金髪の外国人の男が一人、にやけた顔で立っていた。
あの男、どこかで……
金髪の男を見た貫千の目が鋭くなる。
そうか。
今朝のニュースか。
金髪の男の右手は、その男の隣で青ざめた顔で口に手を当てている小百合の肩に乗せられていた。
貫千を見る小百合の視線は、貫千に助けを求めている──かのようにみえた。