2-1 兄と妹
お待たせいたしました。
第二章の開始となります。
早朝四時。
二つの影が、人気のない住宅街をかなりの速度で駆け抜ける。
上下とも黒のスウェットで身を包み、気配を殺して疾走しているためその姿をとらえることは容易ではない。
「遅れてるぞ!」
先を行く影の正体は貫千海空陸。
「お、お兄様! す、少しペースを落としては──」
そして、貫千の影からやや遅れているのが、貫千明楽の影だ。
「だめだ!」
呼吸一つ乱さずに、また、後ろを振り返りもせずに貫千が明楽の提案を却下する。
「で、でも、ふぅっ! 私、ふぅ! もう限界、ふぅ! です、ふぅっっ!」
顎は上がり、息も絶え絶えの明楽が必死に訴える。
「この程度で息が上がるなど、どれだけ鍛練をさぼっていたんだ!」
しかし貫千は速度を落とすどころか、逆に足の動きを速めた。
「ど、どうして、ふぅっ! そのような、ふぅ! 意地悪を、ふぅっっ!」
「いやならすぐにでも実家に帰るんだな」
「そ、それだけは! ふぅっ! い、いやですぅううう!!」
部屋を追い出されるのがよほど嫌なのか、明楽は歯を食いしばって貫千の背を追った。
◆
昨晩のこと──。
小百合との食事を終えた貫千が家に帰ると──
「……。どうしておまえが俺の家にいるんだ?」
妹の明楽がリビングのソファの上で正座をしていた。
「お、お帰りなさい! お兄様! お風呂湧いています!」
そう言う明楽の笑顔の下には、緊張が見え隠れしている。
「……。いいから説明を──」
「そ、それともマッサージをして差し上げましょうか……?」
上目遣いで愛らしく小首を傾ける明楽であったが、
「説明をしろ」
「……はい」
にこりともしない貫千に威圧されて目線と肩を落とした。
「さ、三カ月一人暮らしをしてみましたけれど、私に向いていないことがよくわかりました! で、ですので私をお兄様の家で養ってください!」
明楽がソファから床に降りて頭を下げる。
いわゆる土下座というやつだ。が──
「だめだ」
貫千は間髪を入れずに即答した。
「お、お兄様……」
一筋縄ではいかないとわかっていたとはいえ、あまりにも早い回答であったため、明楽の目が潤む。
しかしそんな妹の姿を見ても、貫千の態度は変わらなかった。
「おまえの一人暮らしには全員が反対していた。それを押し切っておまえは一人暮らしを始めたんだ。それなのにたった三カ月で根を上げるなど、言語道断だ」
「あ、あれはお父様が後継者にお兄様ではなく雅様をお選びになったことに対するせめてもの抵抗で……それに私は最初からお兄様との二人暮らしを希望していたのです! それなのにお兄様がそのことに猛反対するから……」
「当り前だ。社会人の俺と学生のおまえとでは生活のリズムが違う。一緒に生活をしてもお互い疲弊するだけだ。それにおまえの大学はここからではなく実家から通った方が近い」
「それは詭弁です! お兄様は私のことが嫌いなのです! 貫千の血が嫌いなのです! 貫千から逃げたのです! ですからお父様になさったのと同じように私のことを拒絶したのです!」
明楽は立ち上がり貫千の正面に立つと思いをぶつけた。
しかしそれでも貫千は冷静さを保っている。
「馬鹿なことを言っていないで帰りなさい。駅まで送っていくから──」
「あの家は解約しました。先ほど不動産会社に連絡を入れました」
玄関に向かおうとする貫千の背中に明楽がそう告白する。
「……。なら実家に帰ればいい」
明楽を振り返った貫千は、一瞬呆れたような表情を見せたが、すぐに玄関に向かった。
「実家には帰りません! お父様があの屋敷にいるかぎり、私は二度と実家には帰りません!」
明楽がだだをこねるように、首を横振る。
だが、貫千の考えは変わらないようだ。
「俺からお袋に事情を話しておく。だからおまえは帰りなさい」
厳しい表情でそう言った。
「わかりました! お兄様がそこまで拒絶するのでしたら私は貫千の名を捨てます! それならここに居させてもらえますか!」
「そういう問題では──」
「ならば街を徘徊して泊めてくれる人を探します!」
「……」
「本当です!」
明楽はやると決めたらやるタイプだ。
ここで家を追い出したら本当にそんなことをやりかねない。
貫千は口では厳しいことを言うが、妹のことは家族で一番気にかけている。
だから。
「す、少し怖いですけれど、優しそうな人を頑張って探してみます」
そう言って震える妹に、仕方なく助け船を出すことにした。
「……わかった。今日は泊まりなさい。ただし、お袋へ電話しておくように。明日以降のことは……明日考えよう」
「ありがとうございます! お兄様大好き! あ、お風呂沸かし直してきます!」
パッと顔を明るくした明楽はトタトタとリビングを出ていく。
──こうして貫千は今回も明楽を甘やかしてしまうのだった。
◆
そして時間は戻り──。
「アキラ。先にシャワー使っていいぞ」
「はぁ、はぁ……はい! お兄様!」
朝の鍛練から戻った貫千は明楽に汗を流すよう勧めると、自分は朝食の支度を始めた。
野菜を水洗いしてカットすると皿に盛っていく。
次に冷蔵庫から卵を取り出し、スクランブルエッグを作る。
トーストにチーズを乗せてオーブンにかけ、チーズが溶けたら完成だ。
簡単な食事だが、昼まで腹が持てばそれでいい。
いつもであれば味付けなどせずにほぼそのままの状態で胃に収めるのだが、今朝は明楽がいるのでサラダにはドレッシングを、スクランブルエッグには塩胡椒を振ってある。
こんなもんか……
「あ~気持ちよかったぁ!」
貫千が朝食をテーブルに並べ終えたところで明楽が風呂から出てきた。
しかし。
「おい。アキラ。なんで素っ裸でうろうろしてるんだ。服を着ろ、服を」
下着も着けずに出てきたことに、貫千は呆れ顔で窘める。
「あ! すみません! いつもの癖でつい!」
「ったく……いったい普段どんな生活を送ってるんだよ……」
慌てて部屋に戻っていく明楽に、やはり一人暮らしは無理そうだ──と深く認識したのだった。
『──トルッケン氏ですが、今回の来日では一週間ほどの滞在を予定しているそうです』
『そうですか。公式にはビジネスとなっていますが、やはり婚約者に会いに来たという側面もあるのではないですかね』
『お互いが国を代表する名家。成立すれば世紀に残る縁組となりますからね。いずれ正式に発表されるのを待ちたいと思います。続いては今日の占い──』
朝食を食べながらテレビから流れるニュースを聞いていた貫千は、なにかを思い出すように窓の外に視線をやっていたが、
「お兄様。やはりお兄様、以前までのお兄様とは少し違います」
明楽がそう言ったことにより、視線を室内に戻し、正面に座る明楽を見た。
「なぜそう思う」
「うまく言えませんが……落ち着いたといいますか……部署が変わったあたりからなにかを悟られたかのように感じました。初めは会社に莫大な損失を出してしまったことに対するショックかと思っていましたが、やっぱりそれとは違うようです」
貫千はトーストの最後の一切れを口に放り込むと、それを牛乳で流し込む。
明楽はそんな兄を見て、言葉を続ける。
「今朝の組み手でそれを実感しました。以前に比べて体の技も、剣の技も、とても鋭くなっていましたので。以前もお強かったですが、今日は手も足も出ませんでした。ひとつひとつの技に迷いがなくなったというか、あのときお父様が指摘していた優しさや甘さがなくなったといいますか……」
「なにを生意気言ってるんだ。そんなことよりおまえの腕はかなり落ちているぞ?」
貫千はさらっと流すが、本心では妹の洞察力に感心していた。
紅茶のカップをテーブルに置いた明楽が真剣な表情に切り替わる。
「今のお兄様でしたら雅様などに絶対に負けないと思います。そうです! お父様に言ってもう一度──」
「アキラ。それは一年も前に決定したことだ。雅のことは正当な貫千の後継者として支えてやってくれ」
貫千が明楽を宥めるように、静かに諭す。
「ですが……」
納得がいかないのか、明楽は唇を尖らせている。
「ほら、そろそろ出ないと遅刻するぞ? 夏休み前の最後の講義なんだろう? しっかり受けてこい」
「受けてこいって……ここに戻ってもいい、ってことですか?」
「──ああ。今の部署は帰りが早いからな。また異動になるまではここにいればいい。そのかわり──朝の鍛練はもっと厳しくするから覚悟しておけ」
貫千は明楽を鍛え直すことも視野に入れて、ここで生活をする許可を与えた。
「実家には一本連絡をしておけよ」
「ありがとうございます! お兄様! 私、家事頑張ります!」
明楽が椅子から音を立てて立ち上がると、貫千に駆け寄り頬にキスをした。
跳ねるように軽やかに出ていく明楽を見送った貫千は
仕方のない妹だ……
やれやれ、とテーブルを片付けるのだった。
◆
明楽を送り出した後。
貫千は食器を洗いながら、昨日の小百合とのやりとりについて考えを巡らせた。
異なる世界への移動──。
まだ全容を解明するまでには至っていないとはいえ、小百合との会話から得られたものは大きい。
小百合の話によると、小百合が向こうへ行ったのは今から十年前。
小百合が十三歳のときのことだ。
そこで小百合は当時十三歳のシャルティア=アドリアーレになっていた。
なっていた──。
説明はつかないが、転生、というわけではなさそうだ。
なぜなら貫千は少なくとも十年の間、シャルティアと共に過ごしていたのだから。
シャルティアが十三歳のときから二十三歳になるまでの十年間を。
記憶のない二年は別として、貫千の知るシャルティアはシャルティアとしての自我を持っていた。
私は日本人であるとか、日本に帰りたいとか、そういったことは一切口にしていなかった。
シャルティア十三歳。そのときは最愛の姉を失ったときでもある。
そのため、シャルティアが情緒不安定になっても何らおかしなことではない。そのこともあって、シャルティアに近しいものもシャルティアの言動に不可解な点があろうとも同情こそすれ、怪しむようなことはなかったのだろう。
時間の歪みについてはいまだ理解が及ばないが、小百合と出逢ったことで発生した点と点は、少しずつではあるが繋がりつつあった。
次に帰還方法だが、小百合は憶えていないそうだ。
寝ていて朝、目が覚めたら──というような感覚もあるし、なにかがあって気を失って──という感覚もあるらしい。
とにかく一年ほどを向こうで過ごし、気がついたら戻っていた、ということだそうだ。
戻ってきたのは貫千と同じ一瞬のこと。
こっちの時間ではおそらく一秒にも満たない時間だろう。
身体の異変についてだが、小百合は一年という貫千よりも短い期間だったことからか、身体的な変化は見られないという。
至って二十三歳の女性の身体そのものだそうだ。
貫千は、自分のように十年も過ごせば別なのだろうと結論付けた。
事実、貫千の身体はすべての身体機能に於いて、過去(こちらでは一秒前だが)の能力をはるかに凌駕している。
つまりわずか一秒で、測り知れない成長を遂げた、ということである。
明楽が言っていた『強くなった』というのも、そのことによるものだ。
小百合の身体にそのような変化は見られなかったが、しかし、味覚に関してはそうではなかった。
向こうではすべての食材に、量の違いこそあれ、必ず魔力が含まれている。
それがこちらでいう旨味成分のような効果があるのか、非常に美味に感じるのだ。
しかし、当然、地球上にそのような食べ物はない。
おそらくそれが育つ環境にはないのだろう。
向こうでは生まれてよりその食材を摂取しているため、体内に魔力が蓄積される。
そしてその蓄積された魔力が魔法の源となるのだ。
原理は不明だが、魔力を素に様々なイメージを具現化させることでそれが魔法となる。
早ければ、五歳くらいで低級魔法が発動できるようになる。
貫千は始めこそ魔法は使えなかったが、向こうの食材を摂取し続けることによって、三年目くらいから魔法を使うことができるようになった。
こっちに戻ってからも多少の魔法は使うことができることは確認済みである。
つまり、現在の地球の環境でも、条件さえ揃えばどうにか魔法を使用できる、ということだ。
非常に難しいことだが。
先日、給仕姿をした際に容姿を変えたのも魔法の一つである。
しかし、向こうでは初歩中の初歩である変化魔法でも、こっちでは一度使用すれば相当疲労する上に、ごっそりと魔力を消費してしまう。
うまく発動せずに瞳の色まで変えることができなかったため、サングラスで目を隠す必要があったくらいだ。
魔法については、小百合も向こうでは行使できていたが、地球では使用することができなかったらしい。
というより、未知の体験をした恐怖が勝って魔法を使うことを身体が拒否してしまっていたそうだ。
今後も使用するつもりはないという。
料理が運ばれる合間合間に話せるだけ話したが、やはり不明なことは多い。
特に貫千が気になっていたのは、
貫千と小百合以外にも向こうに行った者がいるのか。
また、もしいたとしたら貫千のように身体能力が飛躍的に向上しているのか。
そして、こちらで流通してしまえば争いの種になることは避けられないだろう向こうの食材を、貫千以外にも手に入れているものがいるのか、という点だ。
しかしそれは二人で答えの出せる疑問ではなかった。
『蓮台寺の伝手で調べられることは調べてみます』
叔父であれば、協力してくれるかもしれない──。
小百合はそう言っていたが、貫千はそれに待ったをかけた。
『必要なときには俺から小百合に協力を依頼するから、今の段階ではなにもしないでくれ』と。
その情報がどこに繋がっているかわからないのだ。
深淵を覗く者は──。
闇を知るには二人は無知すぎる。
権力者が絡むとなると、大金が動く可能性も出てくる。
そうすると手の届かない場所で事態は転がり、知らず知らずのうちに危険が膨らみ続けてしまうかもしれない。
そして最終的には力と力のぶつかり合いに陥ってしまうだろう。
小百合を危険な目に遭わすことは絶対に避けなければならない。
それが今の貫千の考えだった。
さて──そろそろ俺も出社するか……
洗いものを終えた貫千は上着を手に取ると玄関を出た。
──妹のこと、小百合のこと、小百合がするという秘書のこと、そしてシャルのこと。
様々な思いを胸に、会社へと向かうのだった。
超いまさらですが、ツイッターを始めました。
@shirohi_jp
不慣れなのでアレなことが多いと思いますが……執筆状況を呟いたりできたらいいなと。
よろしくお願いします。




