第15話 少女と不思議な世界 3
サブタイ変更しました。
二人と三人→少女と不思議な世界
夏の夕方の爽やかな風が貫千と小百合の頬を撫でていく。
窓は開け放たれているが、室内は空調がしっかりと調節されているのでとても快適だった。
飲み物をグラスに注ぎ終えた係が部屋から出ていくと──
「蓮台寺さん、その勇者というのはいったい何者なんだい?」
すかさず貫千が話を切り出した。
料理はコースで給される。係が料理を持ってくるたびに会話の腰が折られるのでは集中できない。
ここは回りくどいことはせずに聞いてしまおうと、貫千は乾いた喉を潤すよりも先に小百合に訊ねた。
「あの……でもこのお話はどなたも信じてはくださらないのです。両親でさえ……唯一、先ほどお話しした叔父だけが理解を示してくださり……」
「それほど荒唐無稽な話だと?」
貫千が眉を寄せると小百合が恥じらうように頷く。
「誰にも信じてもらえないであろう話なら俺にもいくつか心当たりがある。この世の理を無視しているからといって一笑に付すようなことはしない」
貫千が真剣な眼差しを向ける。
小百合は静かに微笑むと「先輩でしたらそう言ってくださると思っていました」と小さく呟き、話を始めた。
「──あれは今から十年ほど前、私が中等部に上がったばかりの春のことでした。いつも通り家を出て、学校に着き、車から降りようとしたところ……あの、まったく知らない世界が広がっていたのです」
「──な、なんだって!?」
貫千は思わず声を上げた。椅子からは半分腰が浮いている。
手をついた拍子でグラスの中の果実水が大きく揺れた。
「し、信じられない話ですよね。この話をするたびに家族からは笑われ、友人からは白い目で見られ……」
「い、いや、すまない! 信じていないわけじゃないんだ! むしろ……いや、続きを聞かせてくれ」
貫千は椅子に腰をおろすと、気持ちを落ち着かせようとグラスを手にした。
そして飲み物を口に運ぼうとしたとき、小百合がなにか言いたげな目で見ていることに気づいた。
「──ああ、ごめん。乾杯がまだだったか……」
配慮が足りなかった──貫千がばつの悪そうな表情でグラスを目の高さに掲げると、小百合が嬉しそうにグラスを手に取り、それに倣った。
形式的に乾杯を済ませた貫千は「それで──」と話の続きを振るが、乾杯を終えたことをどこかで見ていたのかと疑いたくなるような絶妙なタイミングで、係が一皿目を持って部屋に入ってきた。
貫千は大きく息を吐いた。
そして一気にグラスを空にした。
これなら賑やかな居酒屋のほうがまだ話ができたんじゃないか──貫千は焦り苛立つ気持ちを抑え、係が部屋から出ていくのを持った。
「冷めないうちにいただきましょう」
空になったグラスに飲み物を注ぐ係の手元を貫千が眺めていると、小百合が食事を勧めてきた。
「ん? あ、ああ。いただこうか」
もはや食事などどうでもいいとさえ思っていた貫千だったが、今日は結果として昼抜きとなってしまっていたので、さすがに多少の空腹感はあった。
そのため気を休ませるためにも、運ばれてきた湯気の立つスープをひとくち口に運んだ。
無味──。
液体の熱さだけが口内に広がり、そして喉を通り過ぎていく。
ただそれだけ──。
手は込んでいるのだろうが、高級なスープを飲んだところで、胃に栄養分が収まったことが脳に伝わり、わずかに身体が温かくなっただけだった。
まるでさ湯を含んだかのよう──甘味も塩味も酸味も苦味も、もちろん旨味も、貫千の舌には、そして神経細胞にはなんの余韻も残らなかった。
一応、目では料理を愉しむことができる。
だがその分、ギャップに苦しめられることになる。
これほど美味しそうな料理なら、あるいは──。
だが、期待通りの結果に至ったことはなかった。
貫千が作業のようにスープ運んでいる姿を見て、
「お味はいかがでしょうか……」
小百合が心配そうに尋ねてくる。
貫千は、部屋から出ていこうとしている係にも聞こえる声で
「とても美味しい」──そう答えた。
係が貫千にお辞儀をして部屋を出る。
すると小百合もスープを口に運び始めた。
ひとくち、ふたくち──。
そして小百合はスプーンを皿の脇に置くと、膝の上のナプキンで唇を上品に拭った。
「具合でも悪いのか?」
小百合の食が進まないことに、今度は貫千が体調を案じたように尋ねた。
「いえ。そのようなことは……実は私、なにを食べても美味しいと感じないのです。あの不思議な世界から帰ってきてからずっと……」
「──っ!」
小百合の思いがけない告白に、貫千は手にしていたスプーンをテーブルに落としてしまった。
「先輩?」
「あ、と……俺、こういう食事に慣れてないから……」
貫千は慌てて取り繕う。
貫千は咳払いをひとつすると、
「わ、悪い。それで、その不思議な世界というのはどういう世界なんだ? なぜ不思議だと思ったんだ?」
「やはり先輩は信じてくださるのですね。はい。時代背景は十五、六世紀の西洋といった感じでしょうか。しかし、私の知る地球とはまったく異なっていたのです。私がそう気づいたのは、地球には存在しない魔法という概念がその世界にはあったからなのです」
「魔法……」
やはり……
貫千は心の中で呻いた。
「はい。私が迷い込んだ世界の話を理解してもらうためには魔法の話が必ず必要になるのですが、魔法の話をすると両親は私を病院に連れて行こうとするのです。ですから私は自分の精神が不安定になっていくのが怖くなり、それ以降、この話はどなたにもできなくなってしまいました。おかしいのはもしかしたら自分なのかもしれないと」
「そして不安な毎日を送っていた蓮台寺さんの話を受け入れ、救ってくれたのが叔父さんだと」
「それもそうなのですが、私を救ってくださったのは白銀の髪の勇者、リクウ様なのです。あの方とのお約束が今でも私の心の支えとなっていますから。あのお方のおかげで、帰ってきた私はたとえひとりになろうとも、自分を見失うことはありませんでした」
勇者……
リクウ……
「聞きたいことはたくさんあるんだが……まず、その勇者っていうのはいったい何者なんだ? どっちの世界に存在するんだ?」
再び勇者の話になったので、貫千はそのことについてもう一度訊ねた。
「名はリクウ様といって、不思議な世界で出会ったお方です。私も素性までは詳しく存じ上げないのですが……とてもお強く、お優しく、そして大変謎めいたお方でした」
やはりあっちの人間か……
「助けられた、というのは?」
「順序立ててお話ししますと、先ほどお話ししましたように不思議な世界に迷い込んだとき、私は家の車から降りるところでした。そして校舎に向かおうと顔を上げると、目の前には校舎ではなく、立派なお屋敷が建っていたのです」
「なるほど……」
転移……に間違いないだろうな……
どれだけ向こうにいたんだ?
いや、それよりもどうやって戻ってきたんだ……?
貫千は矢継ぎ早に質問をしたいところだったが、グッと堪えて「それで?」難しい顔のまま続きを促した。
「あっと思い、後ろを振り返ると、家の車ではなくて馬車が停まってました。どうやら私はその馬車から降りてきたところだったようなのです。着ていた中等部の制服もいつのまにか、自分で買った記憶もなく、いただいた記憶もないドレスへと換わっていたのです」
記憶は持ったままの転移、ということか……
俺とは多少異なる、のか……?
「寝ぼけているのか、まだ夢でも見ているのかとその瞬間はなぜか不安もありませんでした。リアルな夢は普段から割と見るほうでしたので。ですが、私はすぐに恐怖に震えることになりました」
「それは?」
「見るからにガラの悪い男たちが徒党を組んで襲ってきたのです。夢にしても恐ろしすぎると、身を竦ませたことを覚えています」
「で、そこにリクウとかいう勇者が現れたと」
「そうなのですが、実はあまり記憶がないのです。白銀の髪の男性、このお方がリクウ様と後々知ったのですが、その男性に抱きかかえられたところで気を失ってしまったのです。突然目の前で何人もの人間がリクウ様によって斬り殺されて、その恐怖で……」
なるほど。
たしかに中学生には刺激が強過ぎるな。
「ちょと質問いいかな? その世界の国の名前、どれか憶えているものある?」
「忘れもしません。私が生活を送っていたのはアドリアーレという国でした」
これで決まりか。
間違いない。
蓮台寺さんが転移したのは俺がいた世界と同じだ。
「そのアドリアーレ? という国の国王は誰だったかは憶えてる?」
「……」
「ん? ああ、憶えていないんなら別に──」
「レペゼッタ王です」
レペゼッタ……
俺がいたときと重なるか。
しかし俺はサユリなんて名に心当たりはないし、助けた記憶もない。
話せば同じ日本人だと気づくはずだ。
ただ、ひとつ気がかりなのは十年前といえば俺の記憶がないときとも重なる。
もしかしたらそのときに出会っているのか……
それともリクウという男が他にもいるのか……
「しばらくして目が覚めたとき、まだ夢は続いていました。私は自分の部屋ではなくて、見たこともない部屋にいたのです。そのときに、『ああ、これは夢ではないのかもしれない』と思い始めました。受け入れるのは大変でしたが」
小百合が、ふふ、となにかを思い出したかのように笑う。
十年経った今だからこそ、これほど穏やかに話せるのだろう。
「目覚めたとき、側にリクウ様がおられたのですが、リクウ様は酷く私のことを叱りました。『だからあれほど勝手な行動はするなと言っただろう!』と。そのときは訳がわかりませんでした。ふふ、リクウ様の第一印象は野蛮で粗野な殺人魔。それは最悪なものでした」
そう言いながらも小百合は顔を綻ばせる。
しかし貫千には確認したいことがあった。
「そのリクウという男は蓮台寺さんのことを知っていたような叱り方だが?」
「はい。不思議な世界では私が迷い込む以前から、私はリクウ様の主人だったようなのです」
ーー!
どういうことだ?
蓮台寺さんが以前からリクウの主人!?
単純な転移じゃない?
とにかくやはり他にもリクウという名の男がいたということか。
「ちなみに蓮台寺さん……向こうの世界でもサユリという名を?」
「いいえ。名は最初から決まっていました」
「決まっていた?」
どういうことだ?
転生……?
いや、それにしては不可解なことが多過ぎる。
だが……
「質問ばかりですまないが、その名前を聞いても……?」
「はい。シャルティア=アドリアーレという名でした」




