第13話 少女と不思議な世界
貫千は一階ロビーで有栖川と小百合が来るのを待っていた。
通り行く社員らはみな、貫千の姿を見るとあからさまに軽蔑の眼差しを向ける。
外回りから帰ってきたかつての同僚も、貫千に一瞥をくれると鼻を鳴らして足早に立ち去っていった。
自分がいるだけで空間が殺伐としてしまう──そのことを貫千は隣に有栖川がいない今、ことさらに強く感じていた。
しっかし嫌われたもんだな……
貫千はそんな視線を受けても顔を下げることなく堂々と立っていたが、それでもやはり多少は思うところがあった。
それは自分に対する評価が気になって──などではなく、いつも貫千を庇うように隣を歩く有栖川にまでことが及び、有栖川個人の印象が悪くなってしまうのではないだろうか、といった懸念である。
だが、何度忠告しようとも有栖川は貫千の隣から離れようとしない。
ここのところ、そのことに頭を悩ませていたのだった。
あいつもモノ好きだからな……
そもそも、俺と有栖川が今一緒にいるのも、あいつが俺と同じ就職先を選んだからであって──ん?
貫千が昔のことに想いを馳せていると、ロビーが騒々しくなったことに我に返った。
エレベーターホールを見ると、誰かを探している様子の小百合の姿が目に入る。
お、来たか。
それにしても──
急にロビーが賑やかになったのは、その小百合を見た社員たちによるものだった。
この光景は、小百合が退社する際には毎度おなじみのことだ。だが、定時で帰社し、さらには普段ロビーに十秒と留まることをしない貫千は初めて目にする光景だった。
だから──
まるでアイドルだな……
貫千は小百合の人気っぷりに驚かされ、ぽかんとした表情で小百合の姿を目で追っていた。
そんな呆けた貫千を見つけた小百合が、花が咲いたような笑みを浮かべて小さく手を振る。
するとロビーは、可憐な小百合の仕草に胸を打ち抜かれた男どもの溜息で溢れ返った。
しかし、そこへ貫千が手を振り返すと──
『きゃあ! どうして!』
『うぉっ!』
小百合が手を振った相手が貫千であることを知ることになり、溜息は悲鳴に変わった。
「先輩。お待たせいたしました」
「──いや」
『マジかよっ!』
『う、嘘だろ!』
小百合が貫千の前で止まるとロビーは軽いパニック状態に陥った。
あの蓮台寺小百合が、よりにもよって貫千と待ち合わせをしている。
そのことに、男はもちろん、女の社員もみな騒然としていた。
なかには今にも泣き出しそうな顔をした社員もいる。
「有栖川はまだのようだ」
貫千が小百合にまだ揃っていないことを告げると
「ではおいでになるまで、お隣、よろしいでしょうか」小百合は貫千の隣に並んだ。
『ほ、本当に待ち合わせかよ!』
『なんだってあいつなんかと!』
『う、うちの課の奴にも教えてあげないと!』
どさくさにまぎれて二人のツーショット写真を撮ろうとする不届き者もいる。
だが、それに気づいた貫千が鋭い視線を投げつけると、サッとスマホをしまい素知らぬ顔で歩き去っていった。
ったく。
有栖川……まだかよ……
このままでは小百合にまで不快な思いをさせてしまう。
貫千が有栖川に連絡しようとスマホを手にすると、それと同時にメールの着信音が鳴った。
「っと。有栖川からメールだ」
まさか遅刻するってんじゃないだろうな。
そんなことを考えながら貫千がメールを開く。
なになに?
ごめん、カンチ。
専務に食事に誘われたので行けなくなった。
この埋め合わせは次回必ず─
「先輩、有栖川先輩がどうされました?」
小百合が貫千のスマホを見ないように気遣いながら声をかける。
「ああ、来られなくなったって。専務がお祝いをしてくれるらしい。蓮台寺さんにも申し訳ないと伝えてくれってさ」
「そうなのですか……」
それを聞いた小百合が悲しそうな顔を見せる。
「まあ、忙しいヤツだからな。とにかく俺からも謝るよ。なら俺は帰るとするかな。──じゃあお疲れ」
だが貫千はそんなことは気にも留めず、小百合に挨拶をすると出口に向かって歩き始めた。
夕飯どうすっかな……
たまにはスーパーでも寄って帰るか……
ビルを出るころには貫千はすでに夕飯の心配をしていた。
そのとき有栖川から続いてメールが届き、歩きながらそれを確認する。
亜里沙からまた昼食の弁当の件を聞かれたよ。
知らないって答えたけれど、もしかしたらカンチのところにも連絡がいくかもしれないからよろしく。
それから店の予約は二名に変更しておいたよ。
請求書は有栖川に送るよう伝えてあるから、蓮台寺さんと二人で──
亜里沙……やっぱり拙かったか……
というか、なに言ってんだ、こいつは。
なぜ俺が蓮台寺さんと二人で飯を食いにいかなければならないのだ。
店にはキャンセルの電話を入れておくか。
「有栖川先輩からのメールですか!?」
「うお!」
突然背後から声をかけられ、驚いた貫千はスマホを手から落としてしまった。
が、人間業とは思えないほどの素早さでもって、地面すれすれでスマホを拾うと
「れ、蓮台寺さん……ビックリさせないでよ……」
後ろを振り返り、安堵の息を吐いた。
「も、申し訳ありません! あの、突然お帰りになられたので……」
突然って、俺、ちゃんと帰るって挨拶したよな……
「あ、そうだ。蓮台寺さん、ええと、愛川さん、だよね。昼間のひと。有栖川が店を二名で予約し直したっていうから愛川さんと二人でいっておいでよ。支払いは有栖川持ちだっていうから」
「ええと、花澄さんは今日は残業で……」
「ん、そっか。じゃあ他に誰か誘っていってきたら? 店もキャンセルになるよりはいいんじゃないかな」
「お恥ずかしながら、私にはそのような方は……」
ん~、そうか。
まあ突然だからな……
声かけても時間が合わないか。
「知っての通り、俺にもそんな気心知れたオトモダチはいないからな……わかった。俺からキャンセルの連絡しておくよ。じゃ、お疲れ」
「あ、あの! よろしかったら私と先輩と二人で……」
「──いいって。キャンセルするから。もとはあいつの祝いだったんだし、あいつがいない所で俺たちが二人で飯を食いにいく理由もないだろう」
小百合と距離を置きたい貫千はそう答えた。
ただでさえ悪目立ちしている貫千が、あれほどの人気を誇る小百合と二人で食事など、考えただけでも戦慄が走るのだった。
これ以上の面倒事はごめんだよ……
貫千は、小百合が貫千と二人での食事を選択する──ことなど、考えが及ばなかった。
そのことに、予約変更の件を教えてしまったのは大きな失態だったと後悔する。
二人になって、白銀の髪の給仕のことを尋ねられたら返答に窮する。
元来、嘘を吐くことを嫌う性格の貫千からすれば、いつかは正直に答えてしまうかもしれない。
だから、なるべく小百合と一緒にいたくはなかった。
「夕方、先輩に言われた通り法務部に行ってきたのです。そうしたら、できるだけ誰かと一緒に行動するようにと……ですから……ひとりでは危険と言いますか……その……相談に乗っていただきたいと言いますか……」
「それならほら、俺より屈強な体育会系の男性社員がたくさんいるじゃないか。ああいった人たちに頼めばいい」
会社を出てすぐのところで話しているのだから、ロビーの中と状況はさほど変わらない。
今も男連中の鋭い視線が貫千に突き刺さっていた。
そしてそのなかには、見た目だけでいえばサラリーマンより護衛役に適している男もいる。
そのあたりからチョイスした方がいいだろう。
「ほら、それに婚約者がいるんだろう? それならなおさら帰った方がいい」
貫千がそう続けると、小百合はオフィスで見せたような暗い顔つきになった。
「やはりインターネットで見られたのですか……でもあれは違うのです。私の知らないところで勝手に……」
「ん? そうなのか? まあ、とりあえず今日は駅まで送っていくから──」
貫千はやっかいなことになるのを避けようと駅に向かって歩き出す。
「──リクウ様……」
しかし、小百合の口からその言葉が発せられると、貫千は冷水を浴びせられたように動きを止めた。
「貫千先輩。先輩の下のお名前って……お伺いしてもよろしいでしょうか」
「……」
「あの……先輩?」
「……みくり、だが」
──貫千海空陸。
貫千は渋々といった感じで下の名を教えた。
「みくり様……ですか……ありがとうございます」
「それが、なにか……?」
貫千が冷静を装い、小百合に問う。
「実は私、今から十年ほど前に白銀の髪の男性に命を救われたことがあるのです。夢の中で起こったような出来事でしたが、今でも鮮明に覚えています」
小百合は昔を懐かしむように空を見上げる。
「そのときに助けていただいた方が──忘れもしません。リクウ様でした。リクウ様はとてもお強いのです。そして、その方と本日会議室でお会いした給仕さんのお姿がとても似ていらしたのです」
「へぇ……」
貫千は混乱する頭をどうにか落ち着かせ、しばし思考を巡らせた。
十年前に蓮台寺さんを助けた男の名がリクウ……
しかも今日の給仕と似ている……?
他人の空似だとは思うが……
「先輩? いかがされました?」
「あ、いや。なんでもない……」
小百合が心配そうに貫千の顔を覗き込む。
その瞳から悪意は感じられない。
「先輩……もしかしたら……」
もしかしたら……?
蓮台寺さんはなにを知っている……?
俺の知らないことも……?
いや、なにも知らずにただその名を出した……?
貫千はその答えを知るために虎穴に入るべきかどうか、真剣に考える。
そして──
よし、と覚悟を決めた貫千は、
「──蓮台寺さん、折角だから有栖川にご馳走してもらおうか」
小百合から笑顔を引き出したのだった。




