第1話 エリートと非エリート
※※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。※※※
『──様。わたくしはいつまでもお待ちしております』
夕陽が差し込む室内。
黙ったまま見つめ合う二人。
王女の頬が朱色なのは夕陽のせいか──。
遠くには噴水の音。
草の薫りに混ざって優しく漂う紅茶の香り。
近づく王女の小さな唇。
伝わる熱い吐息。
そして──
◆
現代、東京──。
時計の長針と短針が気心知れた友人同士のように真上を向いて一つに重なると、始業から一秒として鳴りやむことのなかったタイピング音が一斉に止んだ。
今からこのオフィスに訪れる一時間半ほどの静寂を、二本の時計の針もまた歓迎しているようだった。
眉間にしわを寄せてモニターを睨んでいた貫千は、両隣が離席する気配をパーティション越しに感じると、使い古した腕時計に目を落とした。
「もう昼か……」
貫千は呟きながらイスの背もたれに大きく身体を預けた。
朝の八時からトイレに立つこともなく小さな文字列を追っていると、さすがに目が疲れる。
まぶたをマッサージしながら、貫千はありったけの息を吐いた。
と、自然に口から呻き声が出てしまい、これじゃ風呂に浸かったおっさんだな、と思わず苦笑した。
いや、精神的にはすでにおっさんか……
実年齢は二十四だが、人よりも十年長く生きている。
そのことに、同年代より早くやってくるかもしれない老眼というものに怯えてしまう。
今からケアしておかないと……
貫千は天井を仰ぎ見ながら、いつものよりも少し高価い目薬を買ってこよう──と、近くの薬局の場所を思い出していた。
「大丈夫かい? カンチ。なんだかおじさんみたいな溜息が聞こえたけど」
背もたれに寄りかかり、だらしなく両腕を垂らしていた貫千が目を開ける。と、「昼食に行こう」と続ける端正な顔立ちの男と目が合った。
……やっぱり来たか。
爽やかな笑顔で貫千を覗き込む男は、きらきらと輝くオーラを放っていた。それはまあいつものことなのだが、それが普段の二割増しに見えるのは蛍光灯と重なっているからか。
貫千は眩しさを嫌うように目を細めると、再び眼球のマッサージを始めた。
「有栖川……俺、あんまり食欲ないんだよな……」
貫千は寄りかかったままの姿勢で、イスの後ろに立つ同僚に気だるそうに応えた。
有栖川はそんな貫千を呆れ顔で見下ろす。
「まぁたそんなこと言って。ちゃんと食べておかないと戦えないぞ?」
「戦うって……俺はもう企業戦士じゃないっての。おまえと違って平和主義者なの」
「……そっか。まあそれはいいとして、さあ、昼食に行こう」
有栖川は平和主義者と聞いて淋しげな表情を浮かべたが、すぐに貫千を誘った理由に話題を切り替えた。
「──ほら、今日は土用の丑の日だろ? 精力をつけに梅岩さんに行かないか?」
「どようの……うし?」貫千はその単語の意味をすぐには思い出せずに首を傾げた。
「ああ……」だが、瞬き二つほどの間にそれが日本の風習だったということを思い出すと、貫千は眉をしかめる。有栖川が鰻を食べに誘っている、と気づいたからだ。
「梅岩さんって、たしか鰻屋……だよな?」
そのことで梅岩という店が鰻屋であると見当をつけてそう言ってみた。
「そうだよ。それも忘れたの?」
「あ、いや。ってか鰻なんて分不相応なものに対する支出は今月の俺の収支表には記載されてないっつうの」
貫千は身体を起こすと、モニタ上のデータを保存した。
しっかりと保存できたことを確認してからウィンドウを閉じる。
「あの日以降、毎日誘ってくれて感謝しているが、俺ならもう大丈夫だぞ?」
「別にそんなんじゃないよ。僕はここのところずっと内勤だし、最近はカンチとゆっくり話をする時間もとれなかったから、いい機会だと思っただけなんだ」
「そうかよ。──ん? おまえ、今日の午後は大事な会議があるって言ってなかったか?」
貫千が有栖川を見上げる。
「うん。でもそれは十四時からだから」
「事前準備はいいのかよ」
「例の案件だよ。カンチから引き継いだ、あれ。資料はカンチが作成していたものをそのまま使用するつもりだから僕はほとんどなにもしなくていいんだ」
「カンチのおかげだよ」と有栖川が貫千の肩を揉む。
「あれを? いいのか? 言っておくが穴だらけだぞ?」
貫千は呆れ顔でモニターに目を移した。
「三日かけて確認したけど問題は見つからなかった。あれでいけるよ」
有栖川は最後に貫千の肩をパンと叩くと
「任せておいて」
自信満々に答えた。
「……おまえがそう言うなら任せるよ。もう俺の手から離れた件だ。俺がとやかく言うことでもないしな」
メールのチェックをしていた貫千は大袈裟に肩をすくめてみせた。
有栖川はそんな貫千を見て複雑な表情を浮かべる。
「……それと今日は亜里沙も来社する。一応伝えておくよ」
「そうか。……ん? なんだよ。そんな難しい顔して」
有栖川の困ったような表情に気づいた貫千が首を傾げる。
「……あり……いや。それより本当に僕が引き継いでよかったのかな」
有栖川は一瞬口ごもるが、すぐに次の言葉を繋いだ。
「いいに決まってんだろ? むしろそれで俺が救われたんだから」
「そっか。でもあれはカンチが大切に温めていた──」
「おいおい。もともとおまえ頼みのところもあったプロジェクトだぞ? それに今の俺はデータ入力係だ。クビをなんとか回避できた俺が今大切にしているものなんざ、これ以上会社に迷惑かけないようにひっそりと生きていくことだけだって」
「……やっぱりカンチ、なんだか変わったよ。みんなも言っていたけど──」
「またそれか……わかったよ。昼メシ付き合うからもうその話は勘弁してくれ……でも鰻は無理だからな」
とりあえず話の流れを変えようと、今日の昼も有栖川と過ごすことを決断した貫千は、そう言いながらパソコンの電源を落とした。
貫千の回答に表情を明るくした有栖川は
「鰻は僕がご馳走するよ。社長賞が昨日振り込まれたからね。さあ、十二時半に予約してあるから早く行こう」
「お、おい! ちょっと──」
まだマウスを握っている貫千の手を掴むと、強引に立ち上がらせた。
「予約って、俺が行かないって言ったらどうするつもりだったんだよ!」
「そんなことカンチが言うはずないだろう?」
「ったく……変わったとか言っておきながら……」
会社の柱を私的なことで混乱させたくなかったが……
このプロジェクトが成功して有栖川の手が空いたら、俺の身に起きたことを話してみるか。
貫千はなんだかんだいいながらも、イスにかけていた背広を手にすると、有栖川に腕を引かれるがままオフィスを後にした。




