その恐怖を、温もりで
沈黙が痛いほどの夜の廊下。
私とウィンディーネ女王の足音だけが鼓膜を揺らす。
何か、話しかけるべきだろうか。女王は何も言わない。
もうすぐ私の寝る部屋へ着いてしまう。
「…………っ、」
「あの、女王様?」
「なんだ」
「あ、えっと、その……」
どんな夢を見ていたのですか、なんて聞けるわけない。
私は「なんでもありません」と口を閉じるほかなかった。
ウィンディーネ女王をあれ程怯えさせるものって……一体どんな怪物なのだろうか。
私の部屋に着いてしまった。
するとウィンディーネ女王はそのドアを開け、私の腕を掴んだまま、部屋に入る。ベッドに座らされ、彼女も隣に座した。
「ウィンディーネ、女王?」
「いかんな、酒は。人間を弱くする。私が呻いている所など、見せてはならないと常に自分に言い聞かせてきたというのに。お前も、先ほど見たことは忘れよ。いいな?」
「……分かりました。言いません。ですが教えてください。女王様は、何をあんなに恐れているのですか?」
私は思い切って聞いてみる。
ここは廊下ではない。誰かに聞かれることはないだろう。
彼女が恐れているそれを彼女は隠したがっているのは理解できた。
「やめておけ。お主が聞くと拍子抜けてしまうようなものだよ」
「ならば余計に気になります。教えてください、ウィンディーネ女王」
「女王である私が、簡単に弱さを見せると思わないことだ。……さっきは、まぁ、不覚だったが」
どうやら教えてくれる気はないらしい。
でも私は、このままにしておいたらいけないとなんとなく思った。
女王の側近達は言っていた。
女王様は本当に完璧な人で、どんなものにも物ともしない強いお方だって。
でも、本当にそんな人間なんているはずがない。
女王が唸っているのを見て、ハッとした。この人だって何かを抱えているはずなんだ。
──彼女が、女王の立場だからそれを見せられないとしたら?
現に国民達は彼女を無敵の象徴として崇めている。
「ウィンディーネ女王。貴女は人間なのですから、何か怖いものがあったとしてもそれは普通のことですよ」
「……しかし私は、人間である前に女王だ。弱点などあってはならん」
「ふふ。女王だとしてもですよ。だってあのパパだって怖いものはあるんですから」
するとウィンディーネ女王の目が丸くなった。
「パパ? ということは、あの“魔王”にか?」
「はい。パパは寂しがり屋で過保護で、臆病な人ですよ。最強と謳われたあのテネブリスの王でさえ怖いものはあるんです。ウィンディーネ女王が何かを怯えていても、それは弱さなんかじゃない。当たり前の事なんです」
「……、ではお前は私の恐怖を受け止めてくれるというのか?」
ウィンディーネ女王のその言葉に私はしっかり頷いた。
「どんと来い、です!」と胸を叩く。
するとウィンディーネ女王はポツリポツリと昔の話を聞かせてくれた。
昔、彼女が実の親に身売りされたことを。
そして彼女を買った男は、まだ成人していなかった女王に暴行を加え続けたのだと。
何回も、何回も……殴られ、犯された彼女は……。
「──この世から男が消えて亡くなればいいと強く願った。するとどうだ、私の主人だった男は突然現れた巨大な水の玉に飲み込まれ、終いには窒息して死んだ。私は何も出来なかった。いや、するつもりもなかった。それが、私が水の勇者として覚醒したきっかけだ」
「…………」
「勇者とは神に愛された者だという。しかしどうだ。幼い私は神に愛されていたのか? あの男が神の愛の形ならば──私は当たり前のようにそれを拒絶し、否定しよう」
あの逞しい女王の身体が、震えていた。
涙を浮かべるその瞳に、私も釣られて泣いてしまいそうになる。
「可笑しいだろう。建前では男のような軟弱者は我が国には必要ないと豪語している私が──心の底では、彼らを恐れているのだ。怖くて怖くて仕方がない。この世の男全てが、恐ろしい」
そしてウィンディーネ王女は耐え切れなくなったのか両腕を抱え、身体を屈折させる。
「勇者の印が私に現れてから、私は私と同じような境遇の女達を救い、我が友にしてきた。そして彼女らを守るために、王となった。しかし、私は……私は、私のことは……」
──誰が救ってくれるのだ。
──この忌まわしい記憶から、どう救い出してくれるというのか。
ウィンディーネ女王は何も言わなかったが、そう聞こえた気がした。
私は、膝を曲げて、彼女の顔を覗き込む。
今の彼女は──私には、部屋の隅で恐怖に怯える一人の少女に見える。
「女王として、情けない」と彼女は拳を握りしめ、滂沱として涙を流れ落としていた。
……今まで、ずっと誰にも言えなかったんだろうな。
一人で弱さを抱えて、強い自分を演じる辛さを私は知らない。
あんなに国民に信用されているなら余計に隠し通さなければいけなかっただろう。
「貴女は、本当に強い人なのですね」
「エレナ……」
「正直に言います。私には、貴女を救うことは出来ない。だって、私の馬の鼻くそみたいな魔力じゃ、時空を越えるなんて出来ませんから。女王様の心の傷を癒やすことも出来ません」
「……だろう、な」
「ですが」
不敬だとは分かっているけれど、触れられずにはいられない。優しく彼女を抱きしめた。
どうか、その恐怖が少しでも和らぐように。
今まで耐えて、耐えて、その弱さを隠しきってみせた強い少女へ、告げる。
「──ウィンディーネ女王。失礼なのは承知ですが、これからもその弱さを私の前では見せてください。秘められた感情を思いきり面に出すのも、一時の安らぎにはなるでしょう」
「!」
「友人、というのはおこがましいので……えっと、相談係とか! 話し相手とか? 私でよければこうやって貴女の気持ちをぶつけてもらうくらいはできますよ」
ウィンディーネ女王は何も言わない。
や、やっぱり、不敬だったかな!
私が慌てて離れようとすると、女王は私の腕を掴んだ。
「よい、許す。今暫く、お主の腕の中に、いたい」
「ウィンディーネ女王……」
「頼む」
潤う瞳で私を見上げる女王。
窓からの月光が彼女の魅力をさらに引き立てて、私はやっぱり見とれてしまう。
最初は強い人だと思ってたけど……ちょっとこんな弱みを見せられたら、放っておけなくなってしまう。
本当は彼女の方が一回りは年上なんだけどね。
でもまぁ、これをきっかけに彼女ともいい関係を築けるといいな。
***
──ウィンディーネ女王と仲良くなりたい。そう思ってましたよ、うん。
でも。
「──私は決めたぞ! エレナを私の妃にする!」
まさか翌日シュトラール王国に戻るなり、ヘリオス王とノームに女王がそう宣言するなんて予想できるはずないでしょう!?
ほら、ノームもヘリオス王も、その周りの人達も全員ポカンとしているし!
理解処理が遅れている私は「はい?」と間抜けな声と共に首を傾げて彼女を見上げる。
「ちょ、ちょちょちょちょ!? ウィンディーネ女王!? どういうことですか!」
「うむ。そのままの意味だぞ。酒の勢いとはいえ、女王たる私がただの小娘に弱さを見せるとは信じたくもない事実だ。しかしその時の温もり、お主の言葉、そして二日酔いはしっかり今の私に残っている。ならば責任とって私の妃になってもらおうか、エレナ。私を受け入れてくれると言ったな?」
「え、えっと……女王様、受け入れるとはいいましたが、求婚を受け入れるとは一度も……」
「もしやお主、私(の心)を酒の勢いで丸裸にさせた癖に、責任を取らないつもりか?」
「ご、誤解を招くような言い方はやめてください!」
この後、色々と勘違いしたノームがウィンディーネ女王に決闘を挑んだり、逆にウィンディーネ女王がノームを挑発したりやらで玉座の間は大騒ぎ。
私にとって水の勇者である彼女と仲良くなれたのは、シュトラールの進軍を止める大きな進歩だと言えるし、嬉しくはあったんだけど……。
──これがきっかけでウィンディーネ女王が会う度に私に求婚してくるようになったのが、新たな私の悩みのタネである。