9話
その後、ティナはいつもの日課である部屋の掃除をする。カナルの身の回りの世話もあったため、仕事が終わる頃には薄暗くなっていた。
雨は小雨になっているものの、未だに止みそうになかった。
宿舎に向かってしんと静まり返った道を、傘をさして歩く。
この時間帯なら諮問会議もとうに終わって、そろそろ貴族が舞踏会場へ集まり始める頃だ。
『良かったらティナもあのドレスを着ていらっしゃい』
カナルの言葉が頭を過ぎる。ティナは立ち止まって俯くと胸の辺りを手で押さえた。
いいえ。今さらどんな顔をして令息とダンスを踊ればいいの?
まだ自信を持って受け応えできるかも分からないもの。
それに今まではダグが参加しない舞踏会に出席していたけど、今回は彼も参加してるはずだわ。
暗い表情で再び歩き始めると不意に名前を呼ばれた。
「アゼルガルド嬢」
顔を上げると、宿舎の入り口に監督官が傘をさして立っていた。
ティナは首を傾げる。
この時間帯だと貴族を出迎えているはずだけど。どうしたのかしら?
「嗚呼、貴女が来るのを待っていましたよ」
「何かご用でしょうか?」
宿舎はカナル専属の侍従、侍女しか暮らせないことになっている。監督官はわざわざティナに会うために、ここまで足を運んでくれたらしい。
何かあったのか心配になってティナは駆け寄ろうとした。が、不穏な空気を感じて足を止める。
「実は舞踏会前に行われている諮問会議が長引いていましてね。それを早く終わらせたいのですよ――貴女の協力でね」
目を凝らすと、監督官の背後で影が揺れる。現れたのは全身を黒装束で身を包んだ男が一人。顔は目の部分以外は黒い布で覆われていて、誰なのかも分からない。
しかし、腰にはナイフと拳銃が下がっていて、この男がどういう役割なのか簡単に想像できた。
ティナはくるりと踵を返すとつんのめりながら王宮に向かって走った。
すると前方にもう一人、黒装束の男が暗がりから現れる。
「きゃっ!」
驚いた拍子に、ティナの手から傘がすり抜けてぽーんと高く飛ぶ。
傘に気を取られていると、いつの間にか男に間合いを詰められていた。
「えっ……」
かわせないティナは自身の鳩尾に男の拳が入るのを見届けると意識を飛ばした。
◇
ぴしゃりと冷たい液体が顔に掛かって、ティナは咽ながら目を覚ました。
焦点の合わない瞳で前を見ると監督官が立っている。
ここ、どこかしら……? 一体何が起こっているの?
ぼんやりとした意識の中、状況を確認する。
監督官に襲われたのは宿舎の前だった。今はどこかの部屋に連れて来られていて、灯りは抑えられているものの、厭に豪奢で煌びやかな空間だ。
頬を伝う液体を拭うため手を動かすと、何故か自分の意思に反して腕が上がらない。
ティナは疑問符を浮かべながら視線を下に向ける。
「な、なに?」
自分の置かれた状況に面食らった。
両手両足が椅子にがっちりとベルトで固定されていて、びくともしない。
必死に身じろぐが、拘束されている手首が赤くなるだけで解放されることはなかった。
もうどこへも逃げられない。そう思った途端、恐怖で震え上がった。
監督官はほくそ笑むと銀縁眼鏡を押し上げた。
「こう見ると本当にあだ名の通り兎みたいですね。罠にかかって怯えている」
ティナは首を縮めると、震える声を絞り出した。
「どういうことか、説明をしてください」
「ええ勿論。貴女は私の可愛い兎――いいえ、モルモットですからねえ。ところで、セレスティナは殿下が今日の諮問会議で漸く廃嫡になることは知っていますか?」
「え?」
ティナは耳を疑った。
カナルがフェリオンの息子に王位継承権を譲ったことは有名な話だが、それで王族の身分が侵されることはない。王宮騎士団の団長にまで上り詰め、二年前に勃発した戦争で攻めてきた隣国エレスメアに勝利し、平和条約まで結んだ功績はかなり大きいはずだ。
廃嫡にするなんてフェリオン国王陛下は何をお考えなのか! とティナは理解に苦しんだ。
憂いを帯びた表情をしていると、監督官は鼻を鳴らした。
「殿下が廃嫡になるのが悲しいですか? 私は今日という日が嬉しくて堪りません。……むしろ廃嫡だけで済ませない。私が味わった絶望と苦しみを彼にも味わわせて差し上げます」
監督官は何を言っているの? カナル様を怨んでいるみたいだけれど、どうして?
疑問が湧くばかりで思考が追いつかず、ティナは目を白黒させた。
監督官は話を続ける。
「先の戦争が早くに終結した要因は、殿下が毒物兵器を使わなかったことで泥沼化しなかったからです。――おかげで武器開発に多額の投資をしていた我がブロア家は大損害を受けましたよ。そして毒の研究を取り仕切っていた私は用済みとなり、今ではただの冴えない王宮仕えです」
ブロア家。ダンフォース公爵家に並ぶ名門公爵家の一つで、五代続く由緒ある家柄だ。
昔は優秀な武官を多く輩出していたが、近年は武器開発に力を入れていた。
しかし、先の戦争終結と同時に武器開発事業は縮小、今後の貿易拡大に向けて鉄道事業に参入しようとしている。
監督官はギリっと奥歯を噛み締めて口惜しそうな表情を浮かべた。
「当初、私が開発した毒物兵器を使用してシルヴェンバルトの領土を広げるつもりでした。けれど殿下はそれを良いとせず、使わないで勝利した。そしてあろうことかエレスメアを属国にせず、捕虜も捕らず、平和条約だけで片づけた」
「それの、どこが悪いことれしゅか……ふぁ、れ?」
突然舌が回らなくなってティナは目を見開いた。舌が痺れて上手く発音ができない。
答えを求めて監督官を見ると、ぞくりと背筋が凍った。
「ふふ。さっきの液が効いてきたみたいですね。痺れて喋りにくいでしょう? そのうち身体も動かせなくなりますよ。でも安心してください。気を遣って痛覚はいつも通りにしていますから……こんな風に」
纏めていた髪を解かれると、力任せに引っ張りあげられる。
「いっ……あぁっ!」
ティナは涙を流し、苦痛の表情を浮かべる。
監督官はティナの反応が良かったのか、恍惚めいたため息を吐いた。
「はあっ。清純そうな貴女が今から私の毒で悶え苦しむのを考えただけで興奮します」
監督官はティナから離れると、テーブルに移動した。
上に置かれているトランクを開くと、中には注射器と薬液の入った瓶が割れないようにベルトで固定されて並んでいる。
慣れた手つきで準備すると、薬液を注射器で吸い上げた。
「最近は殿下が作った人身売買禁止法と人体実験禁止法のおかげで毒の実験がしにくいんですよねえ。でも、もしもその殿下が自分の部屋で侍女に実験をしていたら? それがバレたらどうなるんでしょうね?」
それを聞いて、ティナはここがカナルの寝所なのだと理解した。
もしもこの現場を第三者に見られたら、自分のせいでカナルの立場が悪くなってしまう。
ティナは必死に身体を揺すった。
しかし、監督官が言っていた通り、身体は徐々に力が入らなくなって、鉛のように重く動かない。
どうにか動く首を何度も横に振る。と、監督官は嫌がるティナを見て納得したように掌にぽんと拳を乗せた。
「嗚呼、私としたことがすみません。実験をする役は見知った顔の方が安心しますよね? おまえ、ここへ来なさい」
暗がりからぬっと出てきたのは黒装束の男。監督官はその男に顔を見せるように言いつける。
男は頷くと、顔を覆っていた布に手をかけた。
布がはらりと床に落ち、現れた顔にティナの心臓が大きく跳ねた。
「エド……ガさ……」
どうして? エドガさんはカナル様の護衛兼侍従。
一番身近である騎士がカナル様を裏切るなんて。
ティナの表情を読み取ったエドガは側頭部を掻きながら、口を開いた。
「俺は騎士道なんて重んじてない。俺の腕を買って、大金を注ぎ込んでくれる側に就く」
今まで気怠かったエドガの顔がキリっと引き締まった顔つきになる。
彼は本気だと分かると、ティナは底知れぬ絶望に襲われる。
「さて、セレスティナの顔つきも素敵になっていることですし始めましょうか。エドガ、症状を観察するから先に服を脱がせなさい」
「かしこまりました」
エドガは腰からナイフを取り出すとティナに近づいた。
涙を流すティナは回らない舌を動かして、やめてと懇願する。しかし、エドガが動じることはない。
「静かにしろ」
抑揚のない声でそう告げると、 エドガは無遠慮にティナの胸へとナイフを持つ手を伸ばした。