8話
◇
翌朝も生憎の雨が続いていた。
ティナは雨粒で濡れる窓の外を眺める。
晴れていれば明るい景色も、この天気ではどんよりとしていて陰鬱に感じる。
それでも今日は美しく着飾った貴族たちが一斉に煌びやかな王宮に集まるだろう。きっと舞踏会場に行けば、管弦楽が奏でる華やかな旋律で気分も晴れる。
優雅にダンスを踊る貴族たちを想像して、ティナは目を伏せた。
舞踏会のことを考えて現実逃避している場合じゃないわ。いい加減、この状況に慣れないと。
浅い息をすると、意を決して室内に身体を向けた。視線はできるだけ下に向け、ワゴンに辿り着けばティーポットに茶葉を入れる。
その態度に不満を覚えた人物が声を上げた。
「んもう、ティナったら! そんなに緊張しなくても大丈夫よー? 顔をこっちに向けてちょうだい!」
カナルはソファに腰を下ろし、肘掛けに頬杖をついて唇を尖らせている。
しかし、その表情を見ていないティナは僅かに身じろぐだけで決して顔をカナルへは向けなかった。
「そのお召し物は、私には刺激が強すぎるので……目のやり場に困ります」
訥々と話すティナの顔は真っ赤に染まっていて、それを隠すように俯く。
「だって朝早くから窮屈な服なんて着たくないものー。お茶の時くらいゆったりしたいわー」
今のカナルはズボンを履いてはいるものの、上はガウンを羽織っているだけだ。
前がはだけているため、無駄な筋肉が一つもない胸板は露わになっている。もはや色気を垂れ流していると言っても過言ではない。
そんな妖艶な姿を、異性と交流してこなかったティナが余裕を持って対応できるわけがなかった。
今日はエドガさんに代わって私がカナル様にお仕えしなければいけないのに!
嗚呼、上手くやれる気がしないわ。
早朝にエドガに起こされて言い渡された仕事はカナルが諮問会議に出るまでの身の周りの世話だった。
「あんたならできる」と言われ舞い上がり、二つ返事で引き受けしまったことをティナは今さら後悔した。
それでも冷静を装って慣れた手つきでテーブルにカップを置くとお茶を注いだ。できるだけカナルを見ないように対応する。
「先にお茶を召し上がってください。今、朝食をお出ししますから」
ティナは持っていたティーポットをワゴンの上に置くと、しゃがんで二段目にある銀のディッシュカバーの乗った皿を取り出した。
それをワゴンの一番上に置いて立ち上がる。そして顔を上げた途端、ギョッとした。
何の気配もなく、いつの間にか自分の横でカナルが仁王立ちになっている。
黙ったまま、じぃっとこちらを見てくる視線に堪えられず、ティナは狼狽えてさっと俯いた。
すると、すぐにカナルに顎を持ち上げられ、無理矢理視線を合わせられてしまう。
「ヒドイッ! そこまで露骨に避けなくてもいいじゃない!? 流石の私も立ち直れないわ……」
カナルは形の整った眉を下げ、口元に手を添えて悲しそうな表情を浮かべた。
本物の乙女のようなしおらしい態度はティナを慌てさせる。
「ち、違うんです! 私が男性のこういった姿に慣れていないだけで……その、上手く対応ができなくて。傷つける態度を取ってしまって申し訳ございません!」
「本当? 私のこと、はしたないから軽蔑したんじゃないの?」
「本当です。軽蔑なんてしてません。うまく言えませんが、今のお姿のカナル様を見ますと胸がざわつきます」
ティナは必死になるあまり正直に胸の内を告げる。
するとカナルはぽかんと口を開けて目をぱちくりさせた。が、にっこりと微笑むとティナの耳元に口を寄せる。
「……――それって俺にドキドキしたってことじゃないのか?」
「っ!」
不意に重低音の声で囁かれる。次いで、カナルの手が伸びてくると、頬を撫でられた。
驚いて後退ると、カナルは楽しそうに喉を鳴らして笑っている。
ティナは真っ赤な頬をさらに赤くして、この状況から早く逃れたいと涙目になった。尚もカナルは低音ボイスでティナに問いかける。
「そんなに顔を赤くして、ドキドキしてないなんて嘘だろ」
「いいえ。ドキドキなんてしてません!」
また揶揄われている。
ティナはそう判断して即座に否定した。
カナル様は男性が好きだから女性は好きにならない。これは恋愛不感症だと思い込んでいた私に、カナル様が訓練してくださっているんだわ。少しでも耐性がつくように――。
それなのに私ったら、カナル様のこと変に意識して……恥ずかしい。
もしもこれが恋愛の方のドキドキなら、カナルに迷惑が掛かってしまう。
ティナは自分に対しての否定も込めて力強い口調で言った。
「カナル様は恋愛経験の乏しい私を訓練して下さっているんですよね? これは緊張のドキドキなので、恋愛のドキドキではありません!!」
カナルは明後日の方向に視線を一瞬向け、すぐにティナに視線を戻した。が、何故か興が削がれたといった様子で深い溜息を吐く。
「はあ……――もういいわあ。なんかお腹すいちゃったし、朝ごはんにする」
「か、かしこまりました!」
その後いつも通りに戻ったカナルは、しっかりとガウンの前を止めて朝食を済ませた。
彼は他愛もない会話を楽しんで終始微笑んでいたが、ティナはずっと違和感を覚えていた。
カナル様、あれから少し変だわ。もしかして怒っていらっしゃるのかしら。
ティナは思案する。手はしっかり動かして、カトラリーやカップを空になった皿に乗せるとワゴンに運んだ。
朝食を片付けている間にカナルは一旦寝所に行き、着替えを済ませて戻って来た。深い青色の正装に身を包み、落ち着いた色合いが彼の端正な顔を惹きたてている。
「お着替えお疲れ様でした。とても素敵です」
「あら、ありがとう」
カナルの余裕のある笑みから王族のオーラがいつも以上に滲み出ている気がした。
ティナはカナルの美しさに見蕩れていたが、突然ハッとした。急いでポケットから昨日完成させたばかりのハンカチを取り出すと彼に差し出す。
「もし宜しければ私が刺繍したハンカチを使って頂けますか? 胸ポケットが空いてらっしゃいますので」
「えっ……これを私に?」
困惑するカナルはティナからハンカチを受け取ると、四つ折りのそれを広げた。
コットンの優しい白い布地に、ラベンダーと二匹の白い小鳥が丁寧に刺繍されている。
カナルは息を呑み、アーモンドの形をした目が大きく見開かれた。
「こ、これはシルヴェンバルト伝統の刺繍よね? 私が受け取っていいの?」
「はい。カナル様が受け取ってくださるなら私はとても嬉しいです。だって、以前からカナル様のために作っていたものですから」
ティナの施した刺繍は、古くからこの国に伝わるまじない刺繍だった。モチーフにはそれぞれ意味があり、相手を想って一針一針縫うことで精霊の加護を受けられるという言い伝えがある。
しかし、本来の意味は時代と共に忘れ去られてしまい、今では刺繍が売れるようにと商人があとから作った方が主流となっている。
ティナは現代版に則って刺繍をした。
縫ったラベンダーには豊かさと安らぎという意味が、白い鳥には守護と平和という意味がある。そしてこの二つの組み合わせには『あなたの心に平和と安らぎがありますように』という意味が込められている。
「出過ぎたことかと思いますが、いつもお茶にいらっしゃる時、カナル様は疲れておられます。ですので、少しでも心が安らぐようにと思いを込めて作りました」
カナルは刺繍をしげしげと見つめて「ありがとう」 と言うと、大事そうに胸ポケットにしまった。
「じゃあ、行ってくるわね」
とても機嫌が良くなったカナルはくるりと背を向けて軽快な足取りで部屋を後にする。
良かった。刺繍気に入ってくださったみたい。さっきは少し変だったけど機嫌も良さそうだし。エドガさんのアドバイスのおかげかしら。
「行ってらっしゃいませ」
ティナは深々と一礼してカナルを見送ったのだった。