6話
「私には一つ上の幼馴染がいました。私は小さい頃から彼が好きで……でも令嬢がちゃんとした恋愛をしていいのは社交界デビューしてからだと父から言われておりました。だから、彼に想いを伝える時は初めての舞踏会にしようと決めていたんです」
ティナは遠くを見るような目で舞踏会のことを思い出した。
「初めての舞踏会で、私は彼に想いを伝えました。そうしたら、彼に突然人気のない庭園に連れていかれて……。その……いきなり、押し倒されてキスされました。それで」
「待って待って。そのバカ野郎にそれ以上のことされなかった!?」
普段、思慮深く大人しい少女の口から押し倒されただの、キスされただのという下世話な話を聞くと予想以上に冷やりとする。カナルは戸惑ったが、直ぐにいつも通りに戻ると、暗い表情を浮かべるティナの様子を窺った。
ティナは口を引き結び、ゆっくり首を横に振る。
「普通のキスと違って今までされたことないキスで驚いてしまったんです。私は何が起こったのか分からなくて。終わった後、暫く黙って固まっていたら……」
ティナの睫毛の先から雫が落ちる。うまく息ができず浅い息を繰り返すと、震える声で先を続けた。
「『おまえはこの雰囲気で俺に何か言うことはないのか? 何も感じないのか? 好きとか言っといてその程度なんだな。不感症な女なんて願い下げだ』と、彼に言われました」
早口で言い終えると、彼女は何度も瞬きをしながらフッと苦い笑みを浮かべる。
「彼の言う通り、確かに私は何も感じていなかったんです。私は幼馴染に憧れていただけで、きっと好きではなかったんです」
「……」
「きっと他の方でもそうです。想いを寄せられても、私は応えられません」
「それは見当違いな答えね」
カナルは呆れ顔で大きな溜息を吐く。顎に手を添えて考え込むような仕草をしてから、徐に口を開いた。
「今のティナは自分の気持ちを誤魔化してる。また傷つくのが怖いから恋愛を避けてるの」
涙ぐむティナは未だにカナルの言葉を信じていない様子だった。気を遣って励ましてくれていると思っているのだろう。
カナルは眉根を寄せると、幼馴染に不快感を露わにした。
「その幼馴染ってのは女の子の気持ちも分かってない自己中心なクズね。ていうか、それもう犯罪だから。突然押し倒されたら誰だってパニックになってドキドキなんてしないわよ。ティナの反応はおかしくないわ」
「でも……他の男性に話しかけられると、幼馴染に言われたことを思い出して身体が強張ってしまうんです。好きだとかドキドキだとか何も感じられません!! だからもう無理なんです!!」
叫んだ途端、ティナは我に返り、口元を両手で塞いだ。
侍女としてカナル様に仕えているのに、いくら自分のデリケートな話だったとしても口答えが過ぎるわ。
非礼を詫びる言葉を、と口を開きかけたティナだったが、それは叶わなかった。
言葉を発する前に、カナルに両頬を手で包まれると、顔を上げさせられる。
至近距離で、彼の光を宿した深い青色の瞳と視線がぶつかった。
「だったら……――本当に何も感じないのか俺で試してみりゃいいだろ」
頭の奥にまで響くような低くて太い声がした。いつもの高い声ではない男の声にティナは困惑する。
「え?」
試すって何を試すの? それよりも目の前にいる方は誰? 私の知っているカナル様じゃないわ。
いつも柔和で女性的なカナルが精悍な顔つきに変わっている。纏っていた朗らかな雰囲気も一掃されて、今は荒々しくてどこか威圧的だ。
同時に二つ発生した疑問に忙しなく頭が回り、結果的にどう返事をして良いのか分からなくなってしまった。
そうこうしているうちに、カナルの顔が近づいて来る。ティナはその先を予期して咄嗟に目を瞑った。
やがて、ティナの唇に――ではなく、額にカナルの薄い唇が触れた。
ティナは目を開け、離れるカナルを怪訝そうに見る。
カナルは喉を鳴らして笑っていた。
「なあにガッカリしてるんだよ。子供にはこっちで充分だろ」
ティナは火がついたように顔を真っ赤にした。
「ガ、ガッカリなんてしてません! ……そんなことより、貴方は本当にカナル様ですか?」
あまりにも雰囲気が違うカナルに、ティナは危険を察知して自ずと距離を取った。
「俺は正真正銘カナルジークだ。悪霊にでも取り憑かれているとでも思ってるのか?」
ティナは真顔で何度も頷いた。
「だって性格がまるで違います! 何かに取り憑かれたとしか考えられません!」
ティナが力強く言うと、カナルは楽しそうに口角を吊り上げ、艶やかな仕草で両頬に手を添える。
「あら、そうかしらあ? 私からしたら女っぽい方がよっぽど気味が悪くて憑りつかれてると思うわ。……――悪いがこっちが素だ。諦めろ」
女性的なふんわりとした雰囲気から転じて男性的な凛々しいものにがらりと変わる。
それをもう一度目の当たりにしたティナは彼が場面によって性格を使い分けているのだとなんとか理解する。
でも、どうしてここまで極端なのかしら? もしかして男色という噂はわざと流している?
考え込んでいると距離を取っていたはずのカナルが間近に立っていた。
「それでキスされてどうだ? ドキドキしたか?」
ティナは自分がどう感じたのか分からない。キスされて恥かしいやら、カナルに揶揄われた怒りやらで感情が定まっていなかった。
「わ、分かりません」
カナルはティナの言葉に呆れ返った。
「はあ。こんなに顔が赤いのに良く言う……――まっ、私で良ければいつでも協力するから確かめたい時は言ってね」
急に女性的な口調に戻ったのでティナは首を傾げた。と、外から扉を叩く音が聞こえてきた。
返事をして扉を開けると、エドガと監督官が立っていた。
監督官は一礼してから部屋に入ってくると、銀縁の眼鏡を押し上げる。
「殿下、国王陛下がお呼びです。すぐにお越しください」
「まあ、お兄様が!? 何のご用かしら? 今直ぐ行くわー。じゃあエドガとティナ。お仕事お疲れ様ー!」
溌剌とした声で告げると、軽快な足取りでカナルは監督官と共に出ていった。
この時、ティナは少し違和感を覚えつつも、深々と礼をしてカナルを見送った。
◇
片付けが終わる頃には辺りは真っ暗で、帰りはエドガが宿舎まで送ってくれた。
「お忙しいところ、送って頂いて感謝します」
「仕事だから問題ない。……おい、ポケットから何か……布を落としたぞ」
拾い上げたエドガはティナにそれを差し出した。
受け取ったティナは、エドガがこれは何だという視線を送るので、布を広げた。
ふわりと広がる白い布には紫が美しいラベンダーの刺繍が入っている。シルヴェンバルト伝統の刺繍だ。
「これ、カナル様にプレゼントしようと思って刺繍しました。完成したから渡そうと思っていたのですが、今日は渡しそびれちゃいました」
エドガは刺繍をまじまじと見ると、何か閃いたのか一瞬いつもの気怠げな表情が楽しそうなものに変わった。
「だったらもう一手間掛けたらどうだ? ラベンダーなら……白い鳥を入れるといい。カナル様は白い鳥が好きだ。きっと喜ばれる」
「そうなんですね。ではそのように致します。アドバイスありがとうございます」
ティナはどんな刺繍にしようかワクワクしながらハンカチを畳んだ。
エドガはその様子を見ながら、気づかれないよう忍び笑いをする。
「この貸しは大きいですよ、カナル様」
そうぽつりと呟くと、エドガはティナを宿舎へと送った。