4話
「父様と姉様の企みは失敗に終わったみたいね……もともと男性恐怖症ではないけれど」
ティナはいつものように部屋の床を掃除していると、不意に頭に浮かんだ父と姉に苦笑いをした。
王宮に来てから二人とは手紙で連絡を取りあっていた。しかし、二人から来る手紙は、自分たちの近況ばかりでくだんの問題に関して一切触れて来ない。
きっと向こうは無理に奉公させたことを後ろめたく感じているのだろう。
けれど、それは却ってティナに決まりの悪い思いをさせていた。
「いっそ訊いてくれた方がすっきりして有難いのに」
溜息混じりに呟くティナは、掃除する手を止めてじっと床の一点を見つめた。
……でも、本当のことを打ち明けたところで、結局二人を失望させてしまうわ。いつかちゃんと言わなくちゃいけないけど……まだ勇気はでないわね。
今はこのままで良いと決め込むと、ティナは気を取り直して今度は暖炉の掃除を始めた。
程なくして静かな声が廊下から響いた。
「なかなか顔出しできなくてすまない」
振り向くと、エドガが入り口に立っていた。
今日の彼は侍従の制服ではなく、騎士の制服姿。
不思議と侍従姿の気怠さが消えて雄々しく見える。
ティナは掃除の手を止めると、エドガに駆け寄った。
「エドガさん! お久しぶりです」
侍女として働き始めた頃と比べて、ティナは多忙のエドガとは殆ど会わなくなっていた。
しかし、ティナは彼が仕事のチェックを毎日欠かさずしてくれていることを知っていた。
現に掃除用具が傷み始めると見計らったように新しいものに替えられていたし、ティナにどこの箇所を念入りに掃除して欲しいかなどもメモに残してくれていた。
「いつもカナル様の寝室の掃除や備品の補充ありがとうございます。騎士服なんて珍しいですね。今から鍛練場に行かれるのですか?」
「いや、そっちには行かない。ここ数日は来週開かれる舞踏会の準備で忙しい」
「えっ?」
ティナは聞き咎めた。
心臓の音が速くなり、胸の奥底から不安がこみ上げてくる。
怯えた目でエドガをちらりと見るが、彼はティナをよそに話を続けた。
「……少し前から舞踏会の準備で王宮全体が慌ただしくなっている。初めてここに来た時たくさんの侍従がいただろ? 彼らは皆、舞踏会準備で取られてしまった。ここ数年は開けてなかったから、皆気合が入っている」
ティナはエドガの話を聞いて、気が遠くなった。
王宮で舞踏会が開かれる――。
嗚呼、ならあの人も舞踏会に来るわ。となると、私は……。
大丈夫。今私はカナル様の侍女としてここにいる。
カナル様は舞踏会に参加されないから、私には関係のないことだわ。
なんとか平常心を取り戻すと、ティナは努めて穏やかな口調で言った。
「そうですか。では人手が足りない分、カナル様が快適に過ごせるように努めます」
「頑張ってるあんたにご褒美と言っちゃなんだけど、カナル様が俺と二人で舞踏会に行っていいって。エスコートはするけど、どう?」
ティナの表情は一瞬にして強張った。瞳が激しく揺らぎ、かなり動揺する。
ティナはエドガに悟られまいとさっと俯いた。
何か言わなければと口を開くが、言葉が喉の奥につっかえてすぐには対応できなかった。
何度か深呼吸してやっと気持ちが落ち着くと、ゆっくりと顔を上げる。
「…………折角のご厚意ですが、遠慮させていただきます。私はここでカナル様とお茶をする方が落ち着きますし、夜は翌日の仕事の準備をしますので」
じっと観察するような目でエドガはティナを見つめる。
暫くして興味をなくしたようにティナから視線を逸らすと「分かった」と口にした。
「……じゃあ、大変だけど引き続き宜しく」
エドガはポケットから包みを取り出すと、ぶっきらぼうにそれをティナに押しつけた。
ティナは慌てて受け取った包みに視線を落とす。と、それは見覚えのあるパッケージだった。
「クマさんクッキーだわ!」
以前、カナルに人気のお菓子を尋ねられて答えた、噴水通りのパン屋で売られているクッキー。
ティナはパン屋の店主の落ち込んだ姿を想像して声なく笑う。同時に、本当にカナルが取り寄せてくれたことを知ってとても嬉しくなった。
たった今まで心を支配していた不安の塊が消えていく。
ティナはそれを感じて胸に手をあてると目を伏せた。
再び目を開けると、エドガはいつの間にかいなくなっていた。
驚いてティナはぱっと廊下へ駆け出したが、どこにも彼の姿はない。
「お礼、言いそびれちゃったわ」
ティナは肩を竦めると、くるりと方向を変えて部屋の中に戻る。
貰った包みを広げると、こんがりと焼けたクマさんクッキーが数枚入っていた。
それを一つ取り、口の中に入れるとホロホロとした食感と甘じょっぱい味がする。
不思議なことに、クマさんクッキーは暫く食べていなかったにも拘らず、最近味わった何かと同じ味がした。
ティナはそれが一体何だったか唸りながら考え始める。その答えは思ったよりもすぐに出てきた。
あの時の涙みたいな味。
初めての舞踏会で――。
そこまで考えてティナは頭を振った。
侍女の自分には何も関係ない。だから大丈夫だと言い聞かせるように何度も心の中で繰り返すと、ティナは唇を引き結んだ。
やがて、もう一度胸に手をあてると、今度はきつくシャツを掴んだのだった。
◇
それから目まぐるしく日々は過ぎ、あっという間に舞踏会前日になった。
舞踏会が近づくに連れて、王宮全体が浮き足立っていると行動範囲の狭いティナも肌で感じ取ることができた。
ましてや前日ともなると、その空気は濃厚な熱気と興奮に変わる。
姉から送られてきた手紙には、今回の舞踏会は上流階級の貴族がこぞって参加すると書かれていた。
きっと今頃どの貴族の屋敷でも王宮と似たような雰囲気に包まれているだろう。
姉様は他の令嬢に負けないようにって張り切っておめかしして来るわね。
どのドレスを着るか、ああでもないこうでもないと悩む姉の姿を想像しながら、ティナは刺繍をしてカナルが来るのを待っていた。
今日はいつもより来るのが遅い。
頭の中でそう思いながら、時計の針を確認する。
カナルが居間にやって来たのは夕刻だった。
「ティーナ! こっちへいらっしゃい」
やっと現れたカナルに呼ばれて、ティナは刺繍する手を止めた。
返事をして傍に行くとカナルはいつも以上に楽しそうな顔をしている。
「何か良いことでもありましたか?」
「良いことになるかどうかはティナの反応によるわね」
ティナは何のことか分からず、疑問符を浮かべてカナルを見る。
「行けば分かるわー!」
「あっ!」
カナルに腕を掴まれ、ティナが連れて来られた場所は普段掃除をしない部屋だった。
中に通されると、そこは綺麗な衣装や装飾品がずらりと並んでいる。
隅にはフィッティングルームと姿見があって着替えができるようになっていた。
そして、部屋の真ん中には白い布ですっぽりと覆われた何かが置かれている。
カナルはそれに近寄ると、にっこりと笑って白い布を掴んだ。
「初めてここに来てくれた日がティナの誕生日って知らなかったの。だから遅くなっちゃったけど、これは私からのプレゼント!」
布が取り外されると、現れたのは薄紅のドレスだった。
ドレスは身頃からウエストラインまではすっきりとしていて、ウエストから裾にかけてスカートがふんわりと広がっている。
裾には精緻なレースがついていてシンプルなのにとても可憐な印象を与えた。
ティナは目を輝かせ、感嘆の声を上げた。
「わああ、とても綺麗なドレスです! 私に勿体ない代物です!」
ティナはドレスに近づくと、確かめるように手でそっと触れる。
今まで触れたこともないような肌触りの良い生地に思わずうっとりとした表情を浮かべてしまう。
ティナは暫くそうしていたが、カナルの前だということを思い出して慌ててかしこまった。