花、咲き誇るとき3
もう興味がない女から突然キスをされて、不快だったのだろうか。
クリアに見えていた視界がぼやけ、涙が零れそうになるのを必死に耐える。
「はっ、端ない事をしてしまって。私……ごめんなさい」
「ティナ」
震える声で謝罪をすれば、低く掠れた声で名を呼ばれる。
ただそれだけなのに胸がとても高鳴った。どくどくと脈打つ心臓に、自分がどれほどリヴィに恋焦がれているか分かる。そのせいでより一層、惨めな気分になった。
胸が引き裂かれるように苦しい。ズキズキと痛む胸を押さえ、ティナはとうとう耐えきれなくなってワッと泣き出してしまった。
すると、リヴィは吃驚してソファから立ち上がった。
「どうしてティナが泣く? はあ、泣きたいのはこっちの方だ」
「……っ、そんなに不快に、私が嫌いに、なったのですか? それなら今きっぱりと拒絶して下さい」
「は? 何を言って……」
ずっと我慢していた心の内のドロドロとしたものが堰を切って出てきた。
「暫く会えない旨の手紙を頂いてすぐ、リヴィ様はストロベリーブロンドの綺麗な女の人と何度も会っていましたよね? 私には会えないと言っておきながらっ……他の方と、逢瀬を重ねて……」
「待て待て。逢瀬なんて重ねてない。俺があいつと会っていたのは……」
そこで理由を述べようとしたリヴィが口を噤んだ。あからさまに視線を逸らし、困ったように頭を掻く。
何か言いたくない事があるのは明らかだった。
「……お二人を見る度に、思い出す度に、私の胸は苦しくてズキズキと痛むんです。もうこんな訳の分からない感情を抱きたくありません!」
ティナはやがて顔をリヴィから背けると、目尻の涙を指で払った。それで涙が止まる事はないが、これ以上目の前で泣き続けて面倒な女だと思われたくない。
「……ティナ」
名前を呼ばれ、後に続く言葉が怖くて身が竦む。すると、不意にリヴィの腕が腰に回され、そのまま引き寄せられた。
驚いて顔を向けると、ティナは息を呑んだ。
近くには眉根を寄せるリヴィの顔がある。ずっと厳しい表情をしているのは、自分を拒絶しているからだと思っていた。けれど、それは全くの見当違いだった。リヴィの瞳には切なく余裕のない色が浮かんでいたのだ。
「……その件に関しては俺に非がある。すまない。だが、ティナだってどうして手紙の返事をよこさなかった?」
「手紙……?」
「数日前に手紙を送ったはずだ。昨日ここに来て欲しいと連絡した。なのに返事もよこさず、無理矢理呼び出せば俺を煽るような事をする」
小首を傾げてそんな手紙があったか思い出す。やがてある記憶が脳裏に浮かび、ティナはあっと声を上げた。
そうだ、いつか誤って自分宛の手紙をうっかり暖炉へ投げ入れてしまった。そしてそれがリヴィからの手紙だったらしい。
自分にも非があると分かったティナは平謝りに謝った。
「ごめんなさい。私、そのっ……最近はリヴィ様の事で頭がいっぱいで。うっかり手紙を読まずに燃やしてしまって……本当にごめんなさい!」
「そう、なのか」
ぽつりと呟いたリヴィがティナを責める事はなかった。ただ、澄んだ青い瞳を細め、緩む口元を押さえている。
ティナが怪訝そうに見つめると、リヴィは咳払いしてから口を開いた。
「理由は分かったからもう謝らなくていい。……その、なんだ。てっきり俺はティナに愛想を尽かされたと思っていた。けど、それは単なるボタンの掛け違いによるものだったようだ」
リヴィは安堵の溜息を漏らすと話を続ける。
「ストロベリーブロンドの女は俺の幼馴染みたいなものだ。言っておくが向こうは結婚しているし、俺になんて興味ない。あと……他の女に嫉妬して、俺で頭がいっぱいだった事がとても嬉しい」
「嫉妬?」
ティナはぱちぱちと目を瞬いた。
息が苦しくて胸がズキズキする――この感覚が嫉妬?
自身の胸に視線を落とした。不思議な事に嫉妬だと分かった途端、すとんと自分の中で腑に落ち、あれほど苛まれていた感覚が嘘のように消えてしまった。
ここでティナは、自分は嫉妬するくらいリヴィに夢中だという事と、それを本人へ仄めかしていた事に漸く気がついた。
恋愛経験が少ないせいとはいえ、とても大胆なことをしでかしてしまったと今更ながら認識する。
ティナはリヴィを一瞥して、直ぐに視線を逸らすともごもごと口を開いた。
「えっと。あ、あの。私……きゃっ!」
軽々と身体を抱き上げられると、優しくソファに下ろされる。先程と状況が逆転し、今度はティナがリヴィに覆い被さられる形となった。
「ずっと会えず、手紙の返事もなかったんだ。俺にはティナが足りない。あんな煽り方をしておいてこれ以上のお預けはないだろ?」
そう告げるリヴィの表情は甘く蕩けると同時に、余裕のない飢えた獣のような目をしている。彼はティナの頬に手を添えて噛み付くようなキスをした。
「んっ……!」
最初から触れるだけの軽いものではなく、味わい尽くす様に貪られる深いもの。
あまりの激しさに、ティナは顔を背けようとするが、リヴィに顎を掴まれてしまっては逃げる事もできない。何度も角度を変えられ、執拗に攻められ続ける。さらに彼のもう一方の手は、ティナの背中や身体のラインを確かめる様に何度も優しく撫でてくるのだ。
徐々にティナは頭の芯まで痺れて、何も考えられなくなってしまった。
解放された頃には、リヴィの胸の中に力なく倒れ込んだ。完全にリヴィに溺れてしまい、蒸気した頬と潤んだ桃色の瞳で彼を見上げる。
リヴィは満足そうに目で笑うと、指先でティナの巻かれている髪の毛を弄んだ。その髪を耳に掛けると、今度はわざと耳元で音が鳴るように何度もキスをする。チュッと音が鳴る度、ティナがピクリと反応するのが可愛いくて、リヴィの加虐心はますます掻き立てられていった。
「は、恥ずかしっ、い……」
ティナが耐えるようにリヴィのシャツをきつく握り締めていると、「ちゃんと息をして」と指摘された。
無意識のうちに息を止めていたようで、指摘されて初めて気がついたティナは、酸素を取り込むべく口を開く。と、中にリヴィの熱いものが滑り込んできた。
「ふっ……んん」
また激しく求められるティナだったが、これ以上は息ができないとリヴィの胸を叩いて訴える。
リヴィが「悪い」と言って名残惜しそうに離れていくのを、ティナはトロンとした表情で見つめた。
「はあっ……ん、リヴィさま」
「ティナ……可愛い。頼むからその顔は俺以外の誰にも見せるな。男でも女でも絶対に。……あいつにはしてないだろうな?」
あいつ、と言うのはダグの事だろうか。王宮の舞踏会以降、ティナは会っていなかった。風の噂でクレア伯爵とその息子ベルトランの怒りを買った彼は滅多打ちにされた後、辺境の地に飛ばされて王都へは戻って来られないと聞く。
ダグに酷い事をされた当時、今みたいな甘い空気はなかったし、キスをされても思考が停止するだけだった。
今のリヴィ様の発言も嫉妬に入るのかしら? それならちょっと嬉しいかもしれない。
ティナは荒い息を整えると、首を横に振る。
「して、ないですよ。リヴィ様だけです」
「ああ。ティナにこんな顔をさせられるのは俺だけだ。俺だけでいい」
耳元で色気のある低音で囁かれ、ティナは顔から耳の先まで真っ赤に染めた。
「可愛い。でもまだ俺はティナが足りない」
「……っ」
今度は首筋に顔を埋められる。と、生温かい何かが這う感覚がしてゾクリと背に衝撃が走った。
「ま、まま待ってリヴィさっ……きゃああああっ!!」
制止を求めた直後、ティナが悲鳴をあげたのはリヴィから求められる行為のためではなかった。
いつの間にか部屋の扉が開いていて、そこに人影があるのだ。
「ねえ、いつまで私を待たせるの? これでも売れっ子刺繍師だから時間、ないのよ?」
澄んだ心地の良い声が部屋に響いた。その人は腕を組み、扉に寄りかかって此方を眺めている――街で目撃したストロベリーブロンドの女人。
今日は銀と黄緑の糸を織り交ぜた美しい月桂樹の刺繍のドレスを身に纏っている。
相変わらず不思議な色のアースアイに見入ってしまう、とティナは思った。
しかし我に返ったティナは、この状況を見られて恥ずかしくなり、居たたまれなくなった。慌ててリヴィから離れようとするが、何故か彼の腕に身体を絡め取られてしまい、余計に密着する形となってしまった。
それはまるで、子供が独り占めしていたおもちゃを取られぬように隠すみたいに、リヴィはティナが彼女の視界に入らないようにする。
「マナーがなってないぞ。今は取り込み中だ。後にしろ」
リヴィは舌打ちをすると、大層不機嫌に彼女を睨んだのだった。