花、咲き誇るとき2
◇
それからというもの、ティナは普段起こさない粗相をよくするようになった。
うっかり玄関の花瓶を割ってしまったり、自分に届いたばかりの手紙を暖炉に入れて燃やしてしまったり。側仕えの侍女や執事だけでなく、普段あまり絡まない従僕までもが怪訝な表情で彼女を見ていた。
そして午後のアフタヌーン・ティーの時間。本日二回目となるティーカップが盛大な音を立てて割れたところで、とうとう姉が痺れを切らした。
「最近ずっと上の空よ。一体どうしたというの!?」
姉の叫び声と同時に異変に気づいた従僕が居間に駆けつける。手には雑巾と箒、ちりとり。完全に予測されていたようだ。
ティナは慌てて椅子から立つとその場から離れた。
「お怪我は?」
「大丈夫よ。ありがとう」
従僕は慣れた手つきで割れたカップと床に広がったお茶を片付けてくれた。再び席につくと、向かいに座る姉と目が合う。
姉は眉間に皺を寄せ、今にも詰め寄る勢いで此方をじっと見つめてくる。
「ずっと様子を窺って我慢してたけど、もう限界。何か悩んでいるのなら遠慮せずに私に教えて欲しいわ」
「ありがとう姉様。でも悩みなんて……」
「ティナの悪い所は一人で全部抱え込んでしまうところよ! いい加減、頼る事を覚えて欲しいわ」
ティナは姉の的確な指摘に言い返せない。かといって今の自分の悩みを正直には言えない。
何と応えるべきなのか上手い言葉が浮かばなかった。
するとほんの一瞬、ティナの脳裏にオペラの姫が涙を流し、天高く上げた短剣を自身の胸に振り下ろす情景が鮮やかに蘇った。
そうだ、私はあの姫と重なる部分がある。それなら姫になぞらえて尋ねればいいんだわ!
「……えっと、あのね。この間のオペラがとても悲しくて。主人公の姫はどう行動すれば幸せになれたのかなってずっと悩んでいたの」
姉は胡乱な目をティナに向けた。が、ティナとてぼかして話しているだけで嘘はついていない。
暫し、二人の間に沈黙が流れる。
姉はティナの真剣な面持ちから少しは納得したのだろう。「そうねえ」と言いながらカップに注がれているお茶を啜った。
「姫はもっと能動的に動くべきだったと私は思うわ。自ら行動し、相手に気持ちを示していればきっと将軍は踊り子に靡かなかった。もし私が姫なら――――」
あとに続く言葉を耳にして、ティナは桃色の瞳をぱちくりさせ、小首を傾げる。
それって具体的にどう行動すればいいの?
ティナが尋ねようと口を開きかけると、廊下から慌ただしい音が響いた。
「ティナお嬢様! た、大変でございます!!」
いつもは冷静な執事がノックもせずに扉を開け、勢いよく入ってきた。
「そんなに慌ててどうしたの?」
もういい歳であるこの老執事。全力で走ってきたのか息も絶え絶えでこの後に続く言葉がなかなか出てこない。執事は荒い息を整えながら、声を絞り出した。
「ダ、ダンフォース家より迎えの馬車が来ております! 今すぐ支度をして下さい」
「えっ!? そんな事何も聞いていないわ!」
「向こうから非礼を詫びる言葉と、何やら大事な話があるからすぐに来て欲しいと」
ティナは訳が分からず狼狽える。その一方で、話を聞いていた姉はみるみるうちに顔色を変えた。
「ティナ。すぐに支度なさい」
「え?」
「……私の経験上、大事な話があると言われた時は大変な事が起こるものなの。それが恋愛事なら特にね」
姉はティナと違って社交界へデビューすると何人もの令息と恋に落ちた。それが悪い事ではないけれど、一般的な令嬢よりも経験は多かった。
つまり、彼女は男女の恋の始まりもその終わりも熟知している。故に今回の突然の遣いと言伝にこれから何が起こるのか十中八九、見当がついている様だ。
ティナは姉の言わんとする事がなんとなく分かってしまった。表情は一気に血の気を失い、震える唇を噛み締める。
それって……リヴィ様が私と別れるって事?
心の中で呟いた途端、たちまち気が遠くなった。
姉は侍女を数人呼んでティナの支度を整えさせた。
ドレスは新調したばかりのミントグリーンに着替えさせられ、髪型もハーフアップからしっかりと巻き毛を作ったウォーターフォールへと変えられる。そして今回はいつもと違う匂いの香油をうなじや耳の後ろ、首筋、鎖骨、胸元に念入りに塗られた。
「気をつけて行ってらっしゃいませ」
仕事の早いアゼルガルド家の使用人達によって、あれよあれよという間に馬車に乗せられたティナは、ダンフォース家へ向かった。
馬車に乗ってからというもの、ティナは腹底から不安がせり上がってくるのをずっと感じていた。
気を紛らわす様に姉のあの言葉を反芻する。
『もし私が姫なら――――』に続く言葉。それを行動に移すなら……。
そこまで考えて思考が止まる。
分からない。どうすれば良いの?
初めての舞踏会でトラウマを植え付けられ、それ以降を壁の花に徹していたティナは恋愛経験が極端に少ない。姉の言うそれを実行するとなれば、相当難易度が高いのだ。
そもそも今更そんな事をしても手遅れなんじゃないか、とティナは思った。
「でも……やらなきゃ、きっと私もあの姫と同じ結末に」
訪れて欲しくない未来が目と鼻の先に広がっているような気がする。
ティナは汗の滲む手でスカートをきつく握り締め、唇を引き結んだ。
◇
ダンフォース家の玄関口に降り立つなり、ティナは執事に客間へと案内された。
紺と白を基調とした植物柄の絨毯や壁紙。濃いめの木材で造られた艶やかなテーブルや棚などの家具。
どれも侍女として奉公していた時と変わらない空間だった。
その落ち着いた空間の真ん中、革張りのソファに腕を組んだリヴィが深く腰をかけて足を組んでいる。
「お、お久しぶりですリヴィ様」
ティナは数週間ぶりに会えた嬉しさと不安でぎこちない笑みを浮かべてしまう。それを煽るようにリヴィの表情は厳しいものだった。
「突然呼び出してすまない」
「いいえ。大事なお話があると聞きましたので……」
「ああ。その事だが、きちんと言っておかなければいけない事がある」
リヴィは前髪を掻き上げながら息を吐くと、隣に来るようにソファをぽんぽんと叩く。
ティナは嫌な予感がした。隣に座ってしまえば会話の主導権はリヴィに握られ、別れの話を切り出されるかもしれない。
心臓が握りつぶされる様に痛い。そんな折、姉の言葉が頭の中に響く。
『もし私が姫なら――相手を誘惑して落とすまでね』
途端にティナの顔が火を噴くように赤くなる。
ゆ、誘惑なんてできるわけないわ! 何をすればリヴィ様を落とせるの? 嗚呼、ちゃんと姉様に訊いておけば良かった。
「どうしたティナ? 早くこっちに。話がしたい」
もたもたしていると、リヴィが眉間に皺を深く刻んでいる。
これ以上、逡巡する時間はない。
ティナは覚悟を決めると足早にリヴィに近づいた。彼の正面に立つとサイドの髪を耳の後ろに掛け、そのまま身を屈めてリヴィの額にそっと口づけをする。
「リヴィ、さま…………ずっと、ずっと会いたかったです」
心の内に秘めていた本心を彼の耳元で告げる。
ふわりと身を起こしたティナは、恥ずかしさのあまりぱっと顔を伏せた。心臓の音が耳の奥で響いて五月蝿い。
ティナは自分の頭で考えられる精一杯の誘惑? をリヴィにした。
これで良かったのだろうか。彼を少しでも誘惑できたなら嬉しい。
上手くいったのか分からず、気になって恐る恐る顔を上げる。
しかし、ティナの淡い期待に反して目に映る彼は無表情だった。
唇を引き結んで鋭い視線を向けるだけ。
それが分かった途端、ティナは顔に集中していた熱がすーっと冷めていくのを感じた。