16話
◇
爽やかなエメラルドグリーンを基調とした書斎。そこには瀟洒な数々の美術品や調度品が飾られている。
真夜中だというのに赤々としたその一室で、ダンフォース公爵夫人は真紅のベルベットのソファにゆったりと座ってお茶を嗜んでいた。
既に侍女たちは下がらせている。こんな遅くまで彼女らを付き合わせては明日の仕事に響くから――というのは、表向きの理由だ。
丁度良い熱さのお茶を口にしていると、僅かに音がした。
それは微風が窓に当たる音と間違えてしまうような些細なもの。
しかし、夫人はそれが何の音なのか心得ていた。カップをソーサーに置くと立ち上がる。
部屋の隅に置かれた本棚へ移動すると、慣れた手つきで収まっていた本を次々と並べ替え始めた。
各文字順に並べられた本がみるみるうちに組み替えられていく。最後の一冊を本棚に収めると、カチッと何かが嵌った音がした。
やがてゆっくりと本棚が独りでに右へとスライドすると、人ひとりが通れる真っ暗な通路が現れる。
その中から男が一人現れると、彼は夫人に向かって深々と一礼した。
「遅くなって申し訳ございません」
「待っていたわエドガ」
中から現れたのはエドガだった。
エドガは書斎に足を踏み入れると、本棚を所定の位置に戻し、本も元の順番通りに並べ直す。
その間夫人は再び真紅のベルベットのソファに座り、少し温くなったお茶に口をつけた。
「私が教えた王宮内の隠し通路は役に立っているようね」
「勿論です。王宮だけでなくこちらの邸宅の隠し通路も重宝しております」
今までエドガがどこからともなく現れていた理由、それは隠し通路を使って移動していたからだった。
もしもの場合に備えて造られた王族のための隠し通路。
普通の廊下と違って場所と場所との距離が短く、今回二重スパイとして動かなければいけないエドガには大変有難かった。
「ブロア公爵の件は報告書を読んだわ。いろいろと計画が狂ってしまったけれど、悪い芽は潰せたからあれで良い。それより…………あの子は無事に恋を叶えられたのかしら?」
顔は前を向いたまま視線だけがエドガに向けられる。
その貫禄のある流し目に、流石のエドガも身が竦んだ。
普段リヴィに睨まれても何ともないが、彼女のものは元王族とあって別格だ。
エドガは背筋を伸ばすと、夫人に簡潔に報告する。
「二人とも不器用でしたので大変でしたが、結果的に奥様の思い描いた通りになりました」
「……! やっと上手くいったのね」
夫人はぱっと顔を輝かせた。
実のところ、アゼルガルド伯爵にティナを王宮へ行儀見習いさせてはどうかと提案したのは彼女だった。
王家の影として仕えるダンフォース家は忠義を尽くす家柄。
特に現当主であるダンフォース公爵は生真面目な性格故に恋人よりも王家を優先するような人間だった。その性格が祟って恋人ができては振られた。
子であるリヴィは女性を楽しませたり、喜ばせる術は身につけているが、父親の血を継いでいるのか恋愛に持ち込むと最後のところで上手くいかない。
リヴィの場合は遠回しなアプローチのせいで女性に気づいてもらえず、あと一歩のところで女性側から身を引かれてしまうのだった。
さらにカナルの件も重なって完全に迎え遅れになってしまった。
夫人はとても心配し、焦っていた。しかし、直接言えば嫌がられるのは目に見えている。
だからエドガに協力を依頼したのだった。
「これでやっと孫の顔が拝められるのね! 嗚呼、女の子ならグレイスって名前がいいわね。男の子なら家を継がなきゃいけないから男女兼用な名前でクリスなんて良いんじゃない?」
「お言葉ですが奥様、二人は恋人になったばかりで婚約もまだですし、アゼルガルド伯爵はこのことを知りません」
少し早合点ではないでしょうか?
そう告げるエドガを無視して、夫人は未来の孫に想いを馳せていた。やがて満足げに息を吐いてソファの背にもたれ掛かった。
「行儀見習いを受け入れていたのはオリヴィエに、ひいてはダンフォース家に合う娘を探していたからよ。アゼルガルド嬢の観察眼は素晴らしいし、頭の回転も速い方だから申し分ないわ」
ティナは長けた観察眼に加えて聡明ではある。影を司るダンフォース家にとって彼女は将来的に役に立つし、訓練すればそれなりの立ち振る舞いができるだろう。
それに関してはエドガも首を縦に振る。
「……今回奥様に命じられて二人が結ばれるように協力しました。ですが、二度と俺に妻以外の女性に触れさせるような仕事はさせないで下さい。状況的に仕方なかったとはいえ、こればかりは割り切れません」
「ええ。貴方には不快な思いをさせてしまったわ。ここ暫く家にも帰れなかったでしょうし一ヶ月休んでいいわよ」
「有難く頂戴致します。……ところで、もしリヴィ様にこのことが知られたらどうするのです? 仕組まれたことだと分かればきっとお怒りになる」
「うふふ。それは貴方が言わなければ問題ないでしょう?」
夫人はテーブルの上に一枚の紙、小切手を提示した。そこには見たこともないような破格の金額が書かれている。
「約束の成功報酬はこれでいいかしら? リヴィにロスウェル卿から貰ったお金を取り上げられたみたいだし。これだけあれば足りるでしょう?」
思っていたよりも遥かに高い額は口止め料ということなのだろう。エドガは小切手から視線を夫人に向ける。すると一瞬、夫人の瞳が鋭く光った。
「……勿論です奥様」
この人に逆らうなんてできない。
エドガは身を縮めてから小切手を懐にしまった。
「では最後の仕事、カナル様の国外追放を行って参ります。馬車の中は空っぽですけどね」
エドガは本棚とは反対側にある、腕のない上半身の石像へ移動する。
それの頭を両手で九十度動かした。すると、石像の足下の床がぱかりと開き、階段が続く。
エドガは夫人に向かって深々と一礼すると、部屋を後にしたのだった。
◇
次の日ティナはアゼルガルド家に戻った。
執事に出迎えられ父と姉が待つ居間へと通されると、二人はティナの顔を見るなり血相を変えて駆け寄ってきた。
どうやら早馬が届いてブロア公爵の件は全て二人に伝わっているらしい。
会うなり「無事で良かった」と涙ぐむ父に抱き締められた。
「私が無理に男性恐怖症を克服させようとしたばかりに怖い思いをさせたね。本当にすまない」
「いいえ父様、こうなったそもそもの原因は私が本当のことを言わなかったからよ」
ティナは父から離れると、勇気を出してずっと隠していたダグとの間に起きたことを、訥々と話した。
予想通り、二人の顔が徐々に曇っていく。
その表情が見たくなくて、ずっと言えなかったのに。
ティナは泣きそうになるのを耐えると最後に二人に謝った。
「……心配ばかりかけて本当にごめんなさい」
すると、今度は姉に優しく抱き締められた。
「ティナ、それは貴女が悪いんじゃないのよ。とても怖い思いをしたわね。もっと早く相談してくれればとも思うけど、沢山悩んだのよね」
「その件は父親では力不足だね。言い辛い話を私にもしてくれて……ありがとう」
ティナは打ち明けて良かったと心の底から思った。
もっと厳しい言葉を受けると覚悟していたのに、父も姉も温かい言葉をかけてくれる。
話がひと段落すると、父はそわそわしながらチラリとティナの横を見た。
「ところでそちらの方は……」
「あっ……!」
実はティナの横にはリヴィがずっと立っていた。
父は彼の存在を忘れていた訳では無いが、ティナの口からきちんと無事を聞きたくて一旦保留にしていたのだ。
リヴィは自分に話題が振られて爽やかなに挨拶をする。
「初めましてアゼルガルド伯爵、私はオリヴィエ・ダンフォースと申します。以後お見知りおきを」
「嗚呼、ダンフォース家の。非礼はお詫び致します。娘が無事だと分かるまで居ても立ってもいられないものでして」
「心中お察しします。今日は彼女を送っただけですので。また改めてご挨拶に伺いますよ」
「はあ……」
父は何故リヴィがティナを家まで送ってくれたのかよく分かっていない様子だった。
一方、察しの良い姉は興奮した様子でティナと同じ桃色の瞳を見開いて二人を交互に見ていたのだった。
仕事があるらしいリヴィは挨拶が済むなり帰ろうとしていた。
家族揃って玄関先へ移動すると執事や侍女と共にリヴィを見送る。
「それではまた」
ティナは微笑んでリヴィを見送る。
待機していた御者が馬車の扉を開くと、リヴィは馬車に足を掛けた。が、ピタリと足を止めるとこちらに向き直った。
「どうかされましたか?」
ティナが怪訝そうな顔をすると、足早に近づいてくるリヴィの熱を孕んだ青い瞳とぶつかる。
「今夜会えると知っていても、やはり離れるのは寂しい」
「んっ……!」
あっという間のできごとだった。
皆の前でティナは唇を奪われる。
「言っただろう。態度で示すと」
ほんの一瞬の出来事なのにやけに長い間唇が触れていたような気がする。
ティナは口元を両手で覆うと、いつも以上に顔を真っ赤にさせた。
一部始終を見ていた人々がワッと歓声を上げる。
姉と侍女はキャーっと黄色い声を上げ、二人の関係に漸く気づいた父は腰を抜かした。
悪戯が成功した子供の様に、リヴィは周囲の反応に目を細めて帰って行った。
この日、アゼルガルドの屋敷がお祭り騒ぎとなったのは言うまでもない。