14話
薄い唇がティナの唇に触れる。
初めて触れた柔らかなそれは、先ほどまでの強引な行動や言動とは裏腹に、繊細なものを壊すまいとするような優しいものだった。
ティナは小動物が罠に驚き飛び上がるかのごとく、勢いよく後ろへと跳び下がった。
口元を両手で押さえて小さく震える彼女は、これ以上にないほど怯えた兎に見える。その顔は真っ赤に染まり、桃色の瞳に涙を溜めて潤ませていた。
「い、今……わたし。わたし、キッ……キッ!!」
「落ち着け、深呼吸しろ。また過呼吸にでもなって他の男にコルセットを緩められては敵わん」
男はティナの様子に肩を竦めると、次に眼光鋭くエドガを睨んだ。
相変わらず尻込みしてしまいそうな威圧的な視線だ。
それにも拘らず、睨まれている当の本人は怯むどころか飄々としていた。
「リヴィ様、いい加減自己紹介をされては如何です? セレスティナ嬢もどこの馬の骨とも分からない男に唇を奪われて大変不快でしょう」
リヴィと呼ばれた男は口をへの字に曲げた。
反論しようと口を開いては閉じを繰り返し、最終的にぐっと言葉を飲み込むとティナに向き直った。
「俺はオリヴィエ・ダンフォース。ダンフォース家の嫡男だが、この五年間ずっと従兄のカナルジークとして生きてきた」
「ダンフォース様!?」
ティナは男の自己紹介を聞いた途端、今まで自分の中を支配していた羞恥心が掻き消えた。
くりくりとした桃色の大きな目を瞬かせる。
ダンフォースはティナが行儀見習いでお世話になった奉公先の公爵家だ。
奉公当時、公爵の大事な一人息子は重病に罹って、温泉地が有名な遠方の国で療養中だと聞いていた。
屋敷は公爵や夫人の写真や肖像画はあれど、何故かオリヴィエのものは一切飾られていなかった。そのため、ティナはオリヴィエの顔なんて知る由もなかったし、会う機会もなく奉公を終えて実家に帰ったのだった。
病気で遠方へ療養中は嘘だったのね。でも、次期公爵であるお方が直々に影武者を務めるなんて……信じられない。
ティナはまっすぐ背筋を伸ばして彼を見つめた。
「あの、ダンフォース様はどうしてカナル様の影武者を?」
「リヴィ」
「はい?」
「だから俺のことはリヴィと」
「あっ! はい……リ、リヴィ様」
ティナがまごつきながらも愛称で呼べば、リヴィは満足そうに目を細めた。
「本名を呼ばれるのは良いものだな」
彼は小さな声で呟くと、再び表情を引き締める。
「最初から話そう。我がダンフォース家の始まりは建国以前、国王の影として支えてきたことにある。表向きはお堅い文官だが、裏では王家が手出しできない案件に携わってきた。うちは暗殺部隊や諜報部隊なども取り仕切っていて、中には影武者もいる。運が悪いことに俺は従兄のカナルと顔が瓜二つで。面白がった母によって幼い頃より影武者としてカナルの側近になった。とは言っても影武者は十三くらいまでで、それ以降は側近もやめていた」
リヴィは一旦そこで話を切った。
昔のことを思い出したのか額に手をあて、げんなりとした様子で重たい息を吐く。
「……五年前、カナルが他国の王族と駆け落ちして、行方を眩ましたせいで全てが一変した。当時はフェリオンが国王になったばかりで国民の信頼は今ほど獲得できていなかった。失踪が国内外に広まれば王家、ひいてはフェリオンの体裁が悪くなる。だから暫くはカナルになって生活し、時期を見て廃嫡と国外追放することになった。ま、向こうの国はすぐに死んだことにしたみたいだがな」
「そんな、死んだことにしなくても!」
王族なら国の繁栄を考えなければならないため、簡単に恋愛結婚することはできない。政略結婚は互いの国に利があってこそ結ばれるもの。
男色だとしてもそこは目を瞑ればいいだけ。姫と結婚させて世継ぎさえできれば、あとは関係ない。
故に死んだことにするなんて国益を考えれば損にしかならない。
そこまで考えてティナはあっと声を上げた。不意に頭の中で、一つの答えが見つかった。
「もしかして、カナル様のお相手はお姫様でしょうか!?」
「へえ、よく分かったな」
リヴィは眉を上げ、舌を巻いた。
ティナは面映ゆい表情を浮かべる。
「カナルが男色という噂になっていたのも相手がもともと男として育てられた男装姫だったからだ。姫の国は現在王子が生まれているから男装姫は必要ない。死んだことにするくらい、最後は彼女が邪魔だったんだろうな」
「今お二人はどちらに? ちゃんと幸せに暮らせているのでしょうか?」
「ああ、二人は放浪の末に三年前からエレスメア国にいる。エレスメアで軍部が暴走してうちに攻めてきたが、おかげで向こうの王家に付け入る隙ができた。結構いい身分で暮らせてると思うぞ」
エレスメアの戦争で毒物兵器を使わず、勝利しても属国にしなかったのは二人の身の安全を保障するためだった。ティナはリヴィの言葉を聞いて、スーッと胸のつかえが取れていくような気がした。
リヴィは片腕を上げて大きく伸びをすると、首を左右に動かして子気味良い音を鳴らす。
「そんなわけで影武者生活もこれで終わりだ。やっとオリヴィエとして生きられる。……その、なんだ。ずっとハンカチの刺繍の返事がしたくてたまらなかった」
「えっと、刺繍の古い意味って何ですか?」
おずおずと尋ねると、リヴィは真顔で答えた。
「これは大体言えば女性が男に求婚する刺繍だ。意味は、直訳すれば『私の身体で貴方を癒します』だな」
「………………え」
ティナは一瞬、意識が飛んだ。危うく倒れる寸でのところで意識を引き戻すと、エドガを見た。
彼は親指を立ててしてやったりな顔をしている。
この時ティナは騙された! と心の中で叫んだ。
エドガさん、わざと私に!? 待って。私はそんなふしだら女じゃないわ! 一先ず、ちゃんと説明しなくちゃ!!
「リヴィ様、あのですね」
リヴィはティナの言葉を遮るように口を開いた。
「それで、だな。俺としてはOKなわけだが――っておい!」
「ごめんなさい!!」
ティナは逃げるように全速力で部屋から飛び出した。
自分が淑女であることも忘れ、長い廊下に靴の音を響かせて走る。
「お待ちください。セレスティナ嬢!」
突き当りを曲がって、階段を下りようとしたところで目の前にエドガが現れた。
「きゃあっ!」
危うくぶつかりそうになり、慌ててスピードを落とす。エドガまであと数十センチのところでティナはなんとか耐えた。
身体を折るようにして膝に手をつくと、ティナは乱れた呼吸を整える。
エドガはじっとその様子を観察し、「ああ」と声を上げて掌にぽんと拳を乗せた。
「……また過呼吸ですか?」
「違います!」
ティナは今まで出したこともない厳しい声で反応する。
本当は原因を作ったエドガに問い詰めたくて仕方がない。
どうして白い鳥を入れろなんて言ったのか。それを訊こうにも全力疾走したせいで今は上手く話せなくてもどかしい。
また過呼吸になってあんな目に遇うのも嫌だった。
ティナは何度もゆっくり息を吸って吐いてを繰り返す。
暫くそうしていると、カツンという足音が後ろから聞こえた。
恐る恐る振り返ると無表情なリヴィが立っている。
能面のように何を考えているのか分からない彼の表情に、ティナは冷や汗をかいた。