13話
白々とした月明かりに照らされるカナルは、後姿からでも分かるほど神秘的な美しさを纏っていた。
彼はティナの声に僅かに反応したが、振り返ることはなかった。空を仰いで、じっと満月を眺めている。
「カナル様!」
ティナは再度彼の名前を呼んだ。
足を踏み入れた部屋は壁に備えつけられたランプが一つ灯っているだけで薄暗い。つい先ほどまで明るい場所にいたせいか、ティナは部屋全体がよく見えていなかった。
徐々に目が暗さに慣れてくると、そこはベッドとテーブルが置かれただけの簡素な部屋。王宮で勤める騎士や侍女の宿舎と変わらない造りだった。
王族であるはずのカナルが他の階級の者と何ら変わらない待遇を受けている。
ティナは彼が既に王族ではないということを嫌でも思い知らされた。
唇を噛み締めると、真っ直ぐに部屋の奥へと足を進める。と、中央に差し掛かったところでカナルに呼び止められた。
「それ以上は来ないでちょうだい。私はもう貴女の主人ではないし、貴女ももう侍女ではないわアゼルガルド嬢」
ティナは息を呑んだ。
カナルの声はいつもと同じで高めなのにまるで違う。初めて聞く冷たい声だった。
その上『アゼルガルド嬢』という仰々しい呼び方に変わっていて、ティナは胸がズキリと痛んだ。
もうカナルの侍女ではないから、彼の取った態度は正しい。そうは分かっていても拒絶されてとても悲しくなった。
今は傷ついている場合じゃないわ。明朝まで時間だってないのだから。
自分に何度も言い聞かせ、胸の辺りを手で押さえる。
真顔になると、未だこちらに背を向けるカナルをしげしげと見つめた。
「……カナル様は今日のこと、監督官が謀反を起こすことをご存知だったのでしょう? どうして謀反が起きる前に暴いてしまわれなかったのですか?」
エドガをスパイとして送り込んでいたのなら、もっと早くから手を打てたはず。それなのに、そうしなかった理由は何なのか。
ティナは冷静に考えてみたが、分からなかった。
カナルはティナにどう説明していいのか分からず、悩んでいるようだった。
部屋には暫し沈黙が流れる。やがて、カナルは重たい口を開いた。
「とっても危険な目に遇わせてしまってごめんなさいね。貴女がそう思うのは無理もないこと。でも、あそこまでしないとブロア公爵諸共捕まえることはできなかったのよ」
「ブロア公爵を捕まえる?」
ティナは首を傾げて心の中で思索する。
先の戦争でカナルが毒物兵器を使用しなかったことから、ブロア家は武器開発事業で莫大な損害を被った。けれど、その負担が軽くなるようにと、王家から救済措置が出たと聞くし、その話以外に目立った話は聞いたことがない。一体何をしでかしたのだろう。
そこまで考えていると、カナルが事の顛末を語ってくれた。
王家は先の戦争でブロア家が受けた損害の半分以上を肩代わりすることで没落から救おうとした。しかし、公爵はそれだけに飽き足らず、自身の財務大臣という身分を濫用して国庫からも金を着服していたらしい。
今回の諮問会議は表向きではカナルの廃嫡問題についてだったが、実際はブロア公爵糾弾の場として設けられたものだった。
しかし、ブロア公爵も馬鹿ではない。万が一露見してしまったことを想定して国から着服した金の一部を監督官に渡していた。そうすることで、未だに禁止された人身売買や人体実験に手を染め、毒物研究を続ける監督官に全ての罪を擦りつける算段だったようだ。
「ご丁寧に書類まで偽装してくれちゃって。いろいろと追及に時間が掛かったの。そのせいで貴女を救うことが遅れそうになったから、一度陛下に納得したフリをしてもらって監督官の処遇だけ決めたわ。公爵を現場に連れて行けば、裏切られたと知った監督官が何か仕掛けてくると踏んでね……結果的に死なせちゃったけど」
ティナからはカナルの表情は見えないが、語尾に連れて弱々しくなった声色と肩を落とす彼の姿から、自分を責めているのだと気づいた。
すると、今まで入口で控えていたエドガがこちらへと歩きながら口を開いた。
「監督官は幼い頃より毒物に興味を持ち、沢山生き物を殺してきました。自分たちも殺されるのではないかと使用人たちから恐れられ、両親からも疎まれ、気味悪がられて育ったそうです。しかし唯一彼の味方だったのが、兄のブロア公爵でした。監督官の中で兄という存在は自分を裏切らない絶対の存在になっていたのでしょう。今回はその兄にも裏切られ、捨て駒にされ、最期は発狂してしまったようです」
ティナは監督官の境遇を聞いて憐れんだ。
もしかすると、監督官は毒物開発に多大な功績を残すことで兄にもっと愛してもらえると思っていたのかもしれない。けれどそれがいつの間にか彼の生きる意味にすり替わってしまっていた。
他に誰かが彼を受け入れていれば……愛していれば、きっと今回の最悪の事態は免れたのではないか。
そんな思いがティナの頭の中で過った。
「これで訊きたいことは訊けたんじゃなーい? アゼルガルド嬢、夜更けにこんな場所に来るなんて淑女のすることじゃないわ」
また突き放すような言葉を掛けられて、悲しくなる。ティナは瞳から涙が零れそうになるが下唇を噛み締めて耐えた。
落ち込んでいる暇はない。
そしてまだ帰れない。まだ訊きたいことがある。
「それともー、私が助けに来なくてガッカリしたことを言いに来たの?」
「……いいえ。カナル様、貴方はあの場にいらっしゃいました。あの仮面の男性はカナル様ではないのですか?」
その理由は、あの仮面の男の声がカナルの素に戻った時の声にそっくりだったからだけではない。それだけなら、ティナは仮面の男とカナルをイコールでは結びつけない。
「エドガさんが撃たれて私がパニックを起こした時、仮面をつけた男性が私の目元を隠してくださいました。その触れた肌の感覚や話の間の取り方はカナル様が本性に戻られた時と同じです。わざわざ本性を見せたのは、私の恋愛不感症の克服だけでなく、今回のことを予見していたからでしょう?」
思い返せば、初めてカナルの本性を知った時、監督官が部屋に来るすんでのところで彼はいつもの高い声に戻った。その切り替えの速さは絶対に本性を知られてはならないと警戒していたからだ。
髪色が違うから、最初は他人の空似だと思った。でも、あの温かくて優しい手も喋り方も二人とも同じだから……。
証拠付けとして弱いことは分かっている。カナルに「それ、勘違いじゃない?」なんて言われてしまえばそれまでだ。
しかし、いくら待ってもカナルからは何の言葉も返って来なかった。
ティナは反応のないカナルに眉を顰める。
そして、意を決してカナルの元へ歩み寄ると、回り込むようにして彼の顔を見た。
その表情は女性的なカナルではない、本来の彼だった。
ティナは真っ直ぐに向けられる澄んだ水底のような青い瞳に射貫かれる。
「……そうだな。あの場に俺は居た。しかし、おまえは一つ誤解している。そもそも、あの場にいたのはカナルジークじゃない……この国にはカナルジーク王弟殿下なんていないんだよ」
「え?」
ティナは戸惑いの声を上げる。
「カナルジークは他国の王族と駆け落ちして五年前から失踪している。俺は影武者としてこの五年を過ごしてきた。本当は王族じゃないし、俺は男色の趣味もない」
そう言うと男は自身の頭に手を伸ばし、ピンを外した。
そして、はらりと淡黄のカツラが取り払われると、月の光も星の光も吸収したような白銀の髪が現れる。
ティナは思考が追いつかず、きょとんとした顔をする。やがて、くりっとした桃色の瞳を見開かせた。
「…………ええ!?」
ずっとカナル様が銀色のカツラを被っていたと思っていたのに……反対だったの!? そうね、カナル様の御髪は長いから銀のカツラだときっと収まらないわ。
「今、滅茶苦茶どうでもいいことで納得しようとしてないか?」
ジトーっとした疑いの目で見られて、ティナはうっと声を上げてしまう。
完全にばれている。
「えっと、その……それでは貴方は誰ですか?」
「その前に今度はこちらの質問に答えろ。俺に贈ったこの刺繍は現代版に則った意味と古い意味のどっちだ?」
男は胸ポケットからティナの刺繍を取り出した。いつになく真剣な顔つきで、ティナはたじろぎつつも質問に答えた。
「えっと……。刺繍は古い方の意味は分からないので現代版に則って作りました」
答えた途端、今まで威圧的だった男が何故か急に暗い表情を浮かべる。
もしかして、古い方には何か良い意味があったのかしら。どうしましょう、とても落ち込んでいらっしゃるわ!
ティナは慌てて付け加えた。
「これはカナル様……いいえ、貴方を想って作ったのは事実です。他の誰でもなく私はこれを貴方のために作りました。だから現代だろうと、古い方だろうと私の気持ちに変わりはありません。ですので、どうか受け取ってく……」
その先の言葉を、ティナは紡げなかった。
目の前が真っ暗な闇に覆われて息が苦しい。頭を動かせば、目の前に男の腕が見える。ティナは男に抱き締められたのだと気づいた。
そう分かった途端、顔に熱が集中する。さっきまで一定の速度を保っていた心臓がドクドクと急激に加速した。
そういえば私、どうしてドキドキしてるの? 何故かこの人の前だと他の男性に触れられた時みたいな嫌悪感も恐怖もない。そしてこの人は――――カナル様じゃない。
あっとティナが声を上げる頃には男の声が耳元で響いた。
「ちゃんと言質は取ったからな。よく聞け、俺はカナルじゃないから男なんざ興味もない。それと女も好きじゃない
――――俺はティナが好きだ」
初めて見る子供のような悪戯っぽい笑み。
吸い込まれるような青の瞳に捉えられたティナはあっという間に口を塞がれた。