12話
ティナは監督官の気が触れたと思った。
周りも同じことを考えているようで皆、戸惑っている。部屋全体に漂っていた緊迫した空気が変わった。
すると、監督官はその一瞬の隙を突き、自身を取り押さえていた騎士の腕を振り払うと振り向きざまに殴り倒した。
騎士がドサリと音を立てて後ろへ倒れると同時に、監督官は転がるようにして立ち上がる。テーブルの注射器を手にすると懐から拳銃を取り出して騎士たちに向かって発砲した。
銃弾が騎士たちの身体に食い込み、悶え苦しむ絶叫と共に血飛沫が上がった。
監督官はさらに高笑いをする。
「アッハハハハハッ! 人の苦しむ姿ほど最高なものはありませんねえ」
ティナは初めて見る残虐な行為に、気絶しそうになった。ふと前に立っていたエドガを見ると、肩をきつく押さえている。
彼はちらりとそれを確認する。その表情は眉根を寄せ、歯を食いしばっていた。
ティナは怪訝そうに見つめた。と、彼の白のシャツに鮮血がじわりと広がっていく。
エドガが自分を庇って弾を受けたのだと分かった。目の前がぐらぐらと揺れ始め、視界がぼやける。
エドガさん……! 私を庇ったせいで。……どうして、監督官はあんなに楽しそうに笑っているの? どうして――。
心臓を握り潰されるような痛みと苦しさに襲われる。
ティナはちゃんと息ができているかも分からなくなった。ただ、もがくように忙しなく息をする。と、仮面の男がティナの前に現れるなり、彼女の目元を手で覆った。
「あっ……」
「エドガは強いから心配ない。自分を責めるな。ゆっくり息を吸って吐いて」
逼迫した状況だというのに、彼の声色はとても落ち着いていて穏やかだ。
顔に触れる手の温もりが伝わって、不思議と安心感を覚える。
何度も大丈夫と聞かされて、徐々に胸の苦しさが消えていった。
ティナが落ち着いたと判断すると男は「良い子だ」と言って優しい手つきで頭を撫でる。
そして、ティナとエドガよりも前に立つと、拳銃を構えて監督官へ一発撃った。銃弾は監督官の拳銃に命中し、その衝撃で手から離れる。
「そこまでだ。どちらにしろその銃は弾切れだろう? もう残された道はないぞ」
監督官は男を血走った目で睨むと歯をむき出して唸り声を上げた。が、一目散に廊下へ走った。仮面の男は動きを封じようと足を集中的に狙って撃つ。
理性を失いただの獣と化した監督官は足を撃たれ、血を流しても止まることはなかった。
そのまま部屋を飛び出すと程なくして、ブロア公爵と思われる男の断末魔の絶叫が廊下に響く。
あの薬を血の繋がった実の兄であるブロア公爵に打ったのだろうか。
ただの杞憂であって欲しいとティナは思った。
怪我をしているにも拘わらず、エドガはすぐにまだ動ける騎士を率いて廊下へと飛び出した。外から彼らの喧騒が聞こえてくる。
仮面の男は周囲を見渡してから部屋の隅で一人呆然と立ち尽くす騎士に目をやった。それはブロア公爵と共にやって来た書類を持った騎士だ。
その騎士に近づくと、肩にそっと手を置いた。
「ショックを受けているところ悪いが、医者と応援を呼んでもらえるか?」
石化したように固まっていた騎士は仮面の男に手を置かれた途端、魔法が解けたみたいにビクリと大きく身体を揺らした。
彼はここで動けるのは自分しかいないと判断すると、何度か頷く。
そして、エドガたちが向かった先とは逆方向へ全力で走って行ったのだった。
◇
温かみのあるランプの光に照らされた明るい空間。遥々やって来た客人がくつろげるように造られたこの部屋は落ち着いた色合いの内装で静謐な空気に包まれていた。
ここはカナルが暮らしている棟とは反対側に位置する棟の一室。
その部屋でティナは侍女たちにコルセットを締め直してもらい、新しい服に着替えさせてもらった。
今はドレッサーの前に座り、髪を梳かしてもらっている。
テーブルには熱いお茶が注がれて湯気が立つ。香りのよいお茶を一口飲めば、冷え切った心が芯まで温かくなるような気がした。
正直、奉公である身なのにこんな待遇を受けて良いのか些か疑問ではある。が、宿舎に帰って独りになるのはとても怖かった。
今夜くらいご厚意に甘えさせてもらってもいいわよね。
ティナは心の中で呟くと、先ほどの事件を思い出して表情を曇らせる。
エドガたちが部屋に戻って来ると、監督官はブロア公爵に薬を打って殺し、彼自身は忍ばせていた毒で自害したと聞かされた。
その後、応援に駆けつけた騎士たちや医者によって事後処理と治療が始まった。
幸い、仮面の男が撃たれた騎士たちの応急処置をしていたことで重症化は免れたようだった。
ティナは彼に拘束を解いてもらうと、そのまま抱き上げられてこの部屋まで運ばれた。
薬はそのうち抜けるから心配ないこと。
今朝の時点で安全のために舞踏会が明日に延期されていたこと。
そして、カナルは廃嫡となり、国外追放だがそれ以上は何も問われていないこと。
ここに来るまでにティナの心の内を察してか、安心する言葉を沢山掛けてくれた。
彼は侍女を数人呼ぶと世話をするように言いつける。そして、現場に戻ると言ってすぐに去ってしまったのだった。
まだちゃんとお礼も言えていないわ。あとであの方が誰なのか訊かないと。
すると、扉を叩く音が聞こえてティナは我に返った。
侍女が扉を開けば、着替え終えたエドガが立っている。
その表情は侍従の時の気怠いものでも、騎士の時の雄々しいものでもない。
自分を責めるような暗い表情だった。
「エドガさん! 肩のお怪我は大丈夫ですか?」
ティナが駆け寄ろうとすると、エドガは部屋に入るなり顔を伏せて跪いた。
「申し訳ございません。仲間が来るまでの時間稼ぎとはいえ、貴女に辱める行為を致しました。謹んで罰をお受け致します」
エドガは今、ティナを同僚の侍女ではなく伯爵令嬢として扱っている。
ふと、ティナはエドガが貴族ではない平民出身であることを思い出した。
騎士の地位にあるとは言え、平民出身者が貴族の令嬢にあんなことをして赦されるわけがない。これが同じ平民出身の侍女であれば話はまた少し話が違って来るが、貴族の場合だと極刑に処される。
ティナは眉尻を下げ、俯いた。
あれは私がパニックを起こして過呼吸になりそうだったから助けてくれただけ。エドガさんに非はないわ。でも、第三者から見れば、あの状況での行為は犯罪と見られてしまう。誰かに糾弾されてしまえば、エドガさんは……。
嫌な考えを霧散するようにティナは手で払った。
「顔を上げてください。まずは助けてくれたこと感謝します。私の方こそエドガさんに酷い怪我を負わせてしまいました。これでその件のことは帳消しにしましょう。お咎めがないよう、私の方から父にお願いしてみます」
「あれは俺の力不足によって招いたものです。俺の主は赦さないと思いますし、俺の気も済みません」
ぱっと顔を上げたエドガの表情には罰を受ける覚悟があった。
ティナはたじろいだ。
彼は本気だ。本気で罪を償おうとしている。それならば……。
「そうですね。あれは私にとって今までにない怖い体験でした。本音を言えば、エドガさんのことまだ赦せないって気持ちがあります。あんなやり方なかったんじゃないかって。だから、私からの罰を受けてください」
ティナは侍女たちに聞かれぬよう、小さな声で続けた。
――どうか私をカナル様のところへ連れて行って。
本当なら、軟禁状態にあるカナルには関係者以外会えない。それは分かっている。でも、ティナは最後にもう一度だけ会いたかった。
エドガは目を見開いた。が、真顔になって立ち上げる。
「かしこまりました。ではこちらへ」
「ええ。お願いします」
ティナは侍女たちに下がるように言うと、そのままエドガの後ろに続いた。
案内された場所はとある棟の最上階。
いつの間にか雨は止み、廊下の大窓から満月の光が降り注ぐ。
廊下の突き当りにある部屋の入口の前に立つと、エドガが扉を叩いた。
少し間を置いて、微かに籠ったような返事が聞こえてくる。
エドガが扉を開けてくれたので、ティナは礼を言って中に入った。
「カナル様!」
ティナはこちらに背を向け、窓の傍で佇む彼を見つけると名前を呼んだ。