愛する事はありますか?
セイバスが使えるリトアール家の一人娘、アデリア=エヴァ=リトアール嬢。実はセイバスが彼女に会ったのはこの時が初めてではない。
『アデリア、お前付き執事のセイバスじゃよ』
『お父様……またそんな勝手に……。まぁいいけど。初めましてセイバス。私はアデリア=エヴァ=リトアール。歳はきっと貴方と同じ頃よね』
『はい、そうですね。セイバス=チャコです。本日より宜しくお願い致しますアデリアお嬢様』
小さな頃、セイバスは探検が好きだった。知らない場所へ言っては知らないものを見て、知らない事を感じては知らない何かを触って楽しむ。知らない人と挨拶を交わし、知らない人と笑い合い、知らない人と涙を流しては知らない人と手に手を取る。
それをセイバスは四歳の頃からやってのけた。度胸だけはその頃からピカ一で何事にも挑戦する自信と根性。そして協調性。
セイバスは兎に角血気盛んな少年だった。
そんなセイバスが初めてアデリアに会ったのは、もうすぐ七歳になろうかという頃だった。この頃になるとセイバスは落ち着きを持つようになっていて、誰彼構わず四方八方何処にでもチョロチョロする事は無くなっていた。けれど、知らないものを知りたいという探求心はやはりまだ残っていた様で、『探検』と称してよく一人で遠くの方まで出掛ける事は多々あった。
そんなある日、いつも通り探険していたセイバスが辿り着いたのは大きな塀が延々と続く場所だった。きっと何処かの金持ちの家なのだろう。そんな事を思い塀回りを沿いながら歩いていたセイバスの、その鼻をとある薫りが通りすぎていく。
「なんか花の良い匂いがするな」
まるで花畑にでもいるかの様な香しい花の薫りがセイバスの鼻を先程から擽り続けていた。だが周りには何処にも花畑なんてない。という事は、匂いの元はきっとこの塀の中なのだろうとセイバスは考えた。
「んー……っと、おっ、ラッキー」
裏口だろう小さな柵の扉。それにセイバスはニヤリと笑う。何の取っ掛かりもない塀とは違い、その柵からなら柵を蔦って塀の内側へと入ることが可能だろう。ただそれをするにはそれなりの身体能力が必要になってくるのだが、『そういう事』に馴れているセイバスなら余裕で出来る。
「よっ、ほっ……よいしょ、っと」
セイバスは軽々と柵を登りきり、直ぐに塀の上に辿り着いた。そうしてそこからセイバスの目に写ったのはこの家の広大な庭の景色。
「うおっ……、すっげぇな」
一陣の風が塀の上セイバスの体を吹き抜ける。まるでそこが本当に花畑かの様に感じさせてくれる庭に、セイバスはただただ見惚れた。赤、黄、ピンク、白。青、緑、紫、オレンジ、黒。色とりどりの花と多種多様な花々。それは圧巻と呼ぶに相応しいものだった。
一体どれ程のものなのだろうか。これだけの庭を作れる財力と維持できる能力とは。
「金持ちは良いよなぁ」
塀の上、暫くそんな『花畑』を眺め花の匂いに酔いしれていると、ふと目に動くものが写った。この家の住人だろうかとセイバスは慌てて身を隠そうとするも隠れられる物が何もない塀の上では到底無理。セイバスは塀から飛び降りた。
外側ではなく内側に。
「どうせなら近くでもう少しだけ楽しみたいもんな」
セイバスの中で『不法侵入』は罪にはならない。
とりあえず先程の動くものの正体をつかんでおこうと、セイバスはそちらの方へと足を進めた。だが、塀の上から見るのとここから見るのとでは訳が違った。つまりセイバスは道が分からなくなってしまったのである。
「帰り道まで分からなくなったら不味いよな」
セイバスは少しだけ戻り、柵の辺りに咲いている花を目印として一輪頂戴した。出口はこの花が咲いている辺りにある。
そうして暫く当てずっぽうに進むと「セイタ、ナキナル、スピカ……あら、これはなんだったかしら?」と、小さな女の子の声がした。
「それはチダスミソウだ。その辺の道にも咲いてるから俺でも知ってる」
「…………!!」
セイバスの声に女の子は振り返り、驚きに目を見開きセイバスを見た。真ん丸な瞳を目一杯開いたその顔からは心底驚いている様子が窺える。悲鳴をあげられるか、とセイバスは思ったが女の子は真ん丸な瞳でセイバスをじっと見るだけに止まった。
「なぁ、お前この家の子供か?」
成りからしてそうなのだろうがセイバスは辞令として一応聞いた。女の子は初め何かを言おうと口を開いたが慌てて両手で口を塞ぎ何も言わない。
「…………?」
セイバスは女の子の不審な行動に眉間に皺を寄せる。もしかしたら親から知らない人間とは口を利くなと言われているのかもしれない。
「俺、怪しい人間じゃねぇから大丈夫だって。なぁお前この家の子供だろ?凄いよな、この庭。まるで花畑みたいだ」
「…………」
それでも女の子は口を開かない。両の手を口に当てたまま、目線だけはセイバスに向けている。そして何故だか女の子の頬がぷっくりと徐々に膨らんでいっている気がするのは気のせいだろうか。まさか頬袋に空気でも溜めているのか。何故。
「お、おいお前、大丈夫か?息ちゃんとしてるか?」
まさか呼吸を止めている訳ではあるまいな、とセイバスは不安になり声をかけるもやはり女の子は両手で口を塞いだその状態を崩さない。女の子の顔は段々と赤くなり体が小刻みにプルプルと震えだす。本気で呼吸を止めているのかもしれない。
セイバスは女の子のすぐそばまで近寄り女の子のその膨らんだ頬を手で押した。
「……ぶぅ!」
女の子の口から空気が漏れ出た。その音が恥ずかしかったのか女の子はさらに顔を赤くさせセイバスを睨み怒鳴り付ける。
「なにをするんですかっ!」
「何って、人命救助?お前今、窒息しそうだったろ」
「ちっそくなんていたしません!はっ!どうしましょう!今、わたくし、『とのがた』とお話してしまったわ!!」
女の子は頭を抱え込み叫ぶ。どうやら女の子の中で男と話をするのは成人の儀を迎えてからしないといけないものらしい。
「何処のお嬢様だよ。まぁここのお嬢様なんだろうけど」
「どうしましょうっ!おとうさまとおかあさまにこの事が知られたら……!!」
あわあわわと慌てふためく女の子にため息一つ、セイバスは女の子に言う。
「なぁ。俺、女だから殿方じゃねーよ?」
「おんな、の子……?」
女の子はじっ、とセイバスを見つめる。セイバスはとりあえず女の子を黙らせたくてそんな嘘をついただけであり、信じさせようとは思っていなかった。だが女の子は意外にもセイバスのその言葉を信じてしまった。
「そうなのっ!じゃあだいじょうぶねっ?」
女の子は笑顔をセイバスに向ける。今更嘘だとも言えなくなりセイバスはしょうがなくその嘘をつき続ける事にした。
「ねぇ、女の子なのにどうしてそんな男の子のような格好をしているの?」
「……洗濯が間に合わなくてな。兄貴の服を借りたんだよ」
「そうなのっ!でも女の子はちゃんと『れでぃ』の格好をしないといけないから、今度お洗濯が間に合わなかったらわたくしが貸してあげるわねっ!」
「…………」
いらない、とは言えなかった。
それから女の子とセイバスは花畑を一緒に歩き回った。女の子がセイバスのために花畑を案内してくれたのだ。女の子は花畑に咲く花を一つ一つ教えてくれた。
「エドムに教えてもらったのっ!」
どうやらこの花畑を管理しているエドムという庭師に色々教えて貰っているらしい。セイバスと同じかそれより下の歳でここまで花の知識を覚えられるこの女の子は凄く優秀なのだろう。きっと頭の回転が早いのだ。だが何故か『セイバスは女の子』な嘘は見抜けなかったらしい。
「…………」
俺はもしかしたら嘘の才能があるのかもしれない。セイバスが間違った確信を持った瞬間だった。
「それでね、こっちがカシネヤって言ってこの色の他にも種類があってね」
「…………」
「……?どうしたの?」
「俺さ、言ってなかったんだけど本当は……」
「ほ、ほんとうはっ?」
「花の妖精なんだ」
「……ホント!?すごいっ!!」
信じた。
セイバスの確信に女の子が拍車をかけた瞬間だった。
そんな事をして女の子と遊んでいたら時間はあっという間に過ぎていき、気が付けば日が暮れ始めていた。流石にそろそろ帰らないと不味いとセイバスが思っていると、何処からか誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「アデリアー」
その声に女の子が反応し手を上げようとしたのをセイバスは押し留める。
「わたくし呼ばれたわ。そろそろお夕食の時間なのかも」
「夕食って、早っ!……ま、それはいいとして俺も帰るよ『アデリア』」
今知りたての女の子の名前『アデリア』でセイバスは言う。
「そういえばお前の名前、聞いてなかったもんな。良かったよ最後になっちまったけどそれを知れてさ」
「……!!そうよっ、そうだわっ!わたくし、お名前を言ってなかった!!」
アデリアは居住まいを正して、服の汚れをさっと手で払い落とした後裾をちょんと掴み持ち上げ頭を下げ『挨拶』をした。
「わたくしはアデリア=エヴァ=リトアール。これから仲良くして下さいませ……え、と」
セイバスも自分の名前を名乗っていない。
「ああ、俺はセィ……」
「せい?」
流石に『セイバス』は不味いと口を閉ざす。セイバスは男の名前だからだ。
「せい?セイ?」
「あ、いや……せ、……セリィ。うん、セリィ」
「セリィ!可愛い名前ねっ!!」
アデリアは屈託なく笑った。そんなアデリアを可愛いと思いセイバスはアデリアの頭を撫でる。それが嬉しかったのか、アデリアはまた満面の笑みをセイバスに向けた。
今思えばそれがセイバスの初恋だったのだと思う。それからはそれ一回きりでセイバスがアデリアに会うことはなかった。
大人になり見習い執事としてアデリアに付くまでは。
『わしはな、お前がアデリアの相手でも良いかと思うておったのじゃよ。お前もアデリアの事、愛しているとまではいかないまでも嫌いなどではないじゃろぅ?』
アデリアの父、イリナスにセイバスはそう言われた。だが、セイバスにとって今のアデリアは主人。それを主人の恋相手が家来でも良いとは。
イリナスは何処まで本気なのだろうか。それともそこまでアデリアの事で差し迫っているのか。
「全く……どうして私がこんなものに」
胸元ぱっくり背中ぱっくりな妖艶なドレス姿のアデリアがセイバスの隣でぶつぶつと文句を溢し続ける。
「アデリアお嬢様、そんな顔をしていては殿方からお声はかかりませんよ?」
「かからなくてもいいわよ。何が『親睦会』よ。下品極まりないわ!」
今アデリアとセイバスがいるのは『親睦会』と称する所謂『見定め』の会。自分の娘達のお披露目会だ。それにアデリアは出席していた。
「何が楽しくてジロジロ見られなければならないのです。時間の無駄もいい所だわ。それにセイバス。貴方まで何故ここにいるのか甚だ疑問だわ。しかもそんな格好で」
セイバスの今の格好は『女装』。カツラをかぶりアデリアとは違い露出は少ないが、シュッとした体躯の彼によく似合うスリットの入ったロングドレスを身に付けている。もともと整った顔立ちと細身のセイバスだ。化粧をしてボロさえ出さなければ、人が多く集まるこの様な場所でなら案外バレないだろう。
「お嬢様のドレスを意識して、露出は少なめに、胸は小さめに致しました」
「……それを私はどう受け止めろと?」
それで貴方はどうしてここに?
その問いにセイバスは「愚問ですねお嬢様」と答える。
「私はお嬢様の執事ですので。片時もお側を離れる事はありませんよ」
「執事ってそんなものだったかしら」
「執事とはそういうものです。お嬢様のお手洗いやご入浴時にも、何かあってはいけませんのですぐお側でお守りを」
「へぇ……っておい、ちょっとまて」
側ってどれぐらい側だよ。今日のお着替えも実はすぐ側で。だから側ってどれぐらい側なんだよ。そうですね、今日のお嬢様のお下着はドレスとは真逆の清楚清純系シ……。ぎゃぁぁぁぁ!
みたいな会話をしていたらテーブル席へと招かれた。そこには既に数人の女性が座っていて。
「行くわよセイバス……でも貴方の事、この場でセイバスって呼ぶのはやっぱり不味いかしら?」
「どうでしょう」
「んー」
アデリアは暫く考える素振りを見せた後、「セリィ」と名前を口にした。セイバスはそれに息を呑む。
「セイバス、貴方はここではセリィにしましょう。女の子らしくて可愛い名前でしょう?」
微笑むアデリアにセイバスはなんとか「そうですね」と返すことが出来た。だけど何故その名前にしたのか。その真相をアデリアに聞く事は出来なかった。
気付いていても気付いていなくても。覚えていても覚えていなくても。遠い昔の一日だけの花畑で遊んだ女の子。セイバスの初恋の女の子。
「セイバ……じゃなくてセリィ。貴方も今日は私の事はアデリアとお呼びなさいね。お友達という事にしてありますから」
「畏まりました」
「その畏まった喋りもお止めなさい」
「かしこ……わかった」
よし、と頷き歩き出すアデリアの少し後ろをセイバスは歩く。
『お前もアデリアの事、愛しているとまではいかないまでも嫌いなどではないじゃろぅ?』
「…………」
さぁ、どうでしょう。
真相はきっと、深い深い闇の中だ。