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俺のライバルにふさわしいッ!

作者: 御影 夕介


 1st. Battle  俺たちの戦いはこれからだ


 ――まずい、このままでは遅刻してしまう!

 白星 輝は携帯で時刻を確認し、深刻そうな顔でつぶやいてみた。

 が、その顔は二秒ともたなかった。彼はこみ上げる笑いを抑えきることができない。

「遅刻かぁ……!」

 彼の表情は興奮と喜びに満ちていた。

 遅刻。ああ、なんと甘美な響きだろう! 言い知れぬスリルと背徳感。万物を支配するその概念、時間を無視することが、かくも心ときめかせるものだったとは!

 改札へ続くタイル路に靴底を蹴りつけてせかせか歩くサラリーマン風の男に、自分の輝く瞳がどのように映ったか、少年は知らなかった。

 思えば中学までの僕は真面目すぎたんだ。いつも他人の目ばかり気にして、素直な気持ちでいられることなんてなかった。

 でもこれからは違う。自分の殻を破るんだ。

 入学初日からの遅刻は、その第一ステップ。よくいう高校デビュー。今日からダメなやつだって思われておけば、みんなきっとそういう目で見てくれるはず。

改札機の前に立つ。

握った定期に、ちょうど桜の花びらが舞いおりてきた。

行こう。扉の向こう側には、きっと新しい世界が待っている!

「うおお! 遅刻するーッ!」

「えっ……」

振り向く間もなかった。

 ドンッ! と勢いよく体がぶつかって来、輝は危うく倒されるところだった。

「だ、大丈夫!?」

 輝はふみとどまったものの、相手はしりもちをついていた。

「いってェ……」

 同じ制服だ、と輝は気がついた。しかし、倒れた少年が頬にあてた手をはなすと、それどころではなくなった。

 頬に傷。それも、人差し指くらいはある大きさ。

「えっと、ご、ごめんなさいっ!」

「……」

 頭を下げるが反応がなかったので、輝はすぐに手を差し出す。

「たっ、立てますか!? 傷がひどかったら救急車とか……」

少年は右手をのばして輝に応じる。

と、指に力を込めて――

「1・2・3・4・5・6・7・8・9・10ッ!」

 ものすごい早さで十数え、押さえつけた輝の親指から自分の親指を離した。

「え……」

 輝は呆然としていた。いったい何が起こったのか、まったくわからなかった。

 少年は輝を押しやると、改札機のパネルに財布を当てる。

「ぶつかって倒れなかったのは貴様だが……」

中へ入り、振り向いて言った。

「指相撲で勝ったのは、俺だッ!」

 電車がクラクションで叫ぶ。鋼鉄のレールが鳴り響く。それから、静寂をとりもどす。

「あ、あの……」

 ホームへ走り去っていく少年の背を追う輝の右手は、力を失っていた。

 ――なんなんだ、あの人は……!


 吊り革の輪からは目新しい景色が覗いている。座席はすべて埋まっているものの、車内は空いていた。

 なんだか、間に合っちゃいそうだなぁ……。

 乗り込んだのは通勤快速だったらしい。もう一本遅らせればよかった、と輝は後悔した。もちろん、気がついていればホームでやり過ごしたはずだ。

「あの人、何だったんだろう……」

 さっきの少年に気をとられていたせいだ。

突然の衝突。同じ制服。頬の傷。

そして、不可解な言動。

考えれば考えるほど意味がわからない。このせいで遅刻できなかったらどうしよう。

 ……ううん、人のせいにするのは良くないよね!

 輝は気をとり直した。もっと遅く家を出ればよかっただけの話じゃないか。

結局、自分の行きすぎた優等生気質が招いた結果だ。それにまだ学校は始まっていない。遅刻するチャンスはいくらでもある。

 それにしても、あの傷……。転んだときについたとしたら、ちゃんと謝らないと。

「お出口は右側です」

 車内アナウンスに、目の前で中年男性が立ち上がる。

座っていったん落ち着こうと思い、輝が腰を下ろそうとした時――

「その席もらったアァー!」

 ボスッ! と鞄が飛びこんできた。

「うわぁっ!?」

 輝は臀部の違和感から反射的に退く。

「悪いな。この席は俺が狙っていたんだ」

 輝の体重で一部へこんだ鞄を事もなげに取り上げ、少年はどっかりとシートに体を預けた。

「ま、早い者勝ちってやつだな……」

「えぇー……」

 少年のしたりげな笑みに対し、輝は言葉をもたなかった。

 なんかこの人、僕に敵対しようとしてる気がする……。

 それに早い者勝ちなら僕の方が早かったんじゃ、という抗議はのどの奥にとどめた。

 それよりも気になることがあったからだ。

「あ、あの」

「……なんだ?」

 にらまれた。つんつんと立った髪型と同じく、目つきも尖っている。凄むと思いのほか威圧感があった。

「その、ほっぺたの傷って、もしかしてさっきの……」

「ああ、これか。これなら昔からある」

 ほっとして輝は胸をなでおろす。なんだ、ならよかった。

「これは四歳の時、虎と戦ったときについたものだ」

「……虎!?」

 いきなり語りだしたかと思えば、信じられない話だった。

「しかも四歳で!?」

「勝負に年齢は関係ない。……貴様は四歳の時、何と戦っていた?」

「えっ?」

「何と戦っていたかと聞いている。四歳の時だ」

 四歳の時……。四歳もなにも、べつにいつも何かと戦っていたわけじゃないけど。強いて言えば、よくお母さんに叱られていたような。

「お、お母さん、かな」

「ククク……。お母さん、と来たか」

 少年は挑発的に声を上げて笑った。

「俺の勝ちだなッ!」

「えぇっ!?」

 何がどう勝ちなのか輝にはわからなかったが、これで理解した。

 この人、僕のことを敵だと思ってる!

 手をつかんだときに指相撲をしかけてきたのも、僕から席を奪ったのも、虎と戦った話をしたのも、全部僕を目の敵にしてたからだ!

 ひょっとすると、とんでもない人と関わり合いになってしまったのかもしれない。実は地元で名を知らぬものはない札付きの不良で、毎日こうして因縁をふっかけてはケンカに明け暮れているんじゃないだろうか。

 だとすると、これは遅刻してダメなやつと思われるどころじゃない。不良に目をつけられてるダメダメなやつだと思われてしまう!

 いやだ! 僕はそこまで高いレベルは求めてないんだ!

「ん? 貴様、その制服……」

 輝は校章を手で隠す。

「い、いや、これはっ……!」

「お出口変わりまして左側です、ご注意ください」

 絶妙なタイミングでアナウンス。

ちょうどよかった! 気づかれる前にここで降りよう!

「そ、それじゃ僕、ここで……わっ!」

 開いたドアに駆け込もうとした輝は、乗車してきた老人と危うくぶつかりそうになった。

「す、すみません」

「いやいやこちらこそ、どうも」

 年配の婦人は杖をついていて、弱々しく見えた。ぶつかってさっきみたいに転ばせていたらと思うと、輝は申し訳なくなった。

「……貴様ッ!」

 いきなりの怒鳴り声に輝は肩を縮ませた。

「ひゃあ! ごめんなさい!」

 少年はおもむろに立ち上がり、輝を目で威嚇してきた。

 ひょっとして、殴られるんじゃ!?

「……とんだ邪魔が入ったようだ」

「え……」

 輝の横をすり抜け、少年は自動ドアへ歩を進めようとする。

「勘違いするなよ。だからといって、貴様の勝利ではないのだからなッ!」

 キンコン、キンコンと軽やかなベルとともに、少年は車外へ消えていった。

「あ、あの……」

 降りるはずが先に降りられてしまい、行き場をなくした輝は立ち尽くすほかなかった。

 どうなってるんだろう……。

 動き出した電車に足を取られないよう、輝は閉じたドアの窓に顔を近づける。

 ホームに少年の姿を探そうとしたものの、もはや見分けのつかないほど小さくなっていた。

 びっくりしたけど、殴られなくてよかったなぁ……。

 ふう、と息を漏らすと、少年が座っていた座席に老婆の姿があった。

「あ……」

 もしかしてあの人、このために……?

 輝は彼の言動を振り返る。

 まさか。いや、でも。

「……悪い人じゃ、ないのかもしれないなぁ」

 春の陽光はやわらかく、真新しい服に差し込んで、心地良かった。


 結局、遅刻には失敗してしまった。

 掲示されていたとおりの教室で、指定の机に肘をつき、輝はため息を吐く。

 ……正門の場所を確認して、あとでスムーズに入ってこれるようにしよう、なんて思うんじゃなかった。

 輝は自分を呪った。幼少期より蓄積された周到さのノウハウが、かえって彼を陥れる。

 だが、偶発的な事象への裁量などだれが持ち得ようか。教員に見つかったのはたまたまだったのだ。

「みなさん、おはようございます」

もとより遅れぎみだったこともあり、所定の時刻は早すぎるほどに思えた。さきに輝を案内した女性教員がすみやかに一礼する。

「ご入学おめでとうございます。わたくし、担任を務めさせていただきます金城と申します。以後、よろしくお願いいたします」

 流麗な口上は淡泊ではあったが、よそよそしさはなかった。若い外見ながら頼りがいのありそうな雰囲気を感じ、輝は安心した。

 遅刻はできなかったけど、担任の先生が優しそうな人でよかったなぁ。

 成し得なかったことをいつまでも嘆く彼ではない。輝は気持ちを切り替えることにした。

 みんなにダメだって思われる方法は、遅刻だけじゃないよね。まだ始まったばっかりだし、落ち込んでないでこれから頑張ってみよう。前向き、前向き!

「では、今から行われる入学式について説明を――」

 金城のチョークが黒板に触れる。

 まるでそれが合図だったかのように、ガラッ、と真横の扉が開いた。

「はあッ、はあッ、はあッ……!」

 ひどい汗で息を切らせた少年に、教室の視線が集中していく。

「あ……!」

 輝は思わず小さな声を上げた。忘れるには、あまりに間がなさすぎる彼の姿。

「クレナイくん」

 金城は名簿に目を落とすこともなく呼びかけた。たしかに、空席はひとつだけだ。

「はあ、はあ、はー……」

「遅刻ですよ」

 少年は呼吸を制しつつ、金城に肩で返事をした。

「ふー……。申し訳ありません」

一息に言うと、獲物を狩るような目で自分の席を見つけ出した。

 輝の隣の席を。

「ひっ……!」

 輝は反射的に悲鳴を上げてしまった。

「ほォ……。貴様、さっきの……?」

「あ、よ、よろしくね」

 少年はどっかりと椅子に腰を下ろすと、急に笑いはじめた。

「クク……。クハハハハッ!」

「ど、どうしたの……?」

 輝がおそるおそる尋ねると、眼前に指を突き出された。

「貴様、よほど俺に負けたままではいられないと見えるな!」

 意味がわからなかったので、輝はもう一度尋ねた。

「あ、あの……。それどういう……」

 今度は手のひらで激しく遮られる。

「ハン、負け惜しみなど聞くものかッ!」

 とりつく島もなかった。あるのは彼の勝ち誇ったような笑みだけだ。

 やっぱり、なぜか敵対視されてる……!

「クレナイくん、白星くん。あいさつもいいですが、静かにしてくださいね」

「は、はいっ」

「フッ」

 金城の注意に落ち着く間もない輝の隣で、少年は鼻を鳴らした。

「ではみなさんそろいましたところで、先に出席を取ることにしましょうか」

 返事をするだけの簡単な出欠だった。あとの説明をしばらく聞きながら、輝はふと思い出した。

「あ、あの……」

 退屈そうな横顔は反応がない。声が小さすぎたようだ。さっき呼ばれていた名前を使ってみる。

「クレナイ・ハルトくん……?」

 気がつくと、彼は一転して愉快そうになる。

「なんだ? まだ敗北の言い訳が足りなかったのか?」

 やたらと勝ち負けにこだわる理由も疑問だが、輝には遅刻の理由が知りたかった。

「あはは……。そうじゃなくて……」

「ハッ、無理はしない方がいい。自らの過ちを認めてこそ、人はより強くなるんだからな」

「えっと、もしかして、降りる駅間違えたの……?」

「なッ……!?」

 今回ばかりはわかりやすかった。どう見ても図星だ。

「ひ、卑怯だぞ貴様ッ! 自分だけ間に合ったからって!」

「ええっ!? そんな!」

「そうだろう!? 一駅前だと知っていたなら、教えてくれてもよかったはずだ! それがフェアな勝負というものッ!」

「い、いま自分で言ってたことと違うんじゃ……!?」

 火に油だった。少年は激昂のあまり立ち上がる。

「くッ……!? う、うるさいぞ貴様ァ!」

「ごっ、ごめんなさい……」

 ひどい言いがかりだと気づいてはいるが、輝は委縮して謝ってしまった。

「紅くん、静かにしてくださいといったはずですよ」

 説明を止めて金城がたしなめるが、少年は不服だった。

「いや、しかし!」

「……遅刻は大目に見ようと思っていましたが、記録しておくことにします。ちなみに、遅刻は三回で欠席一回の扱いとなり、欠席数が多くなると留年もあり得ます」

「申し訳ございませんでしたッ!」

 謝罪は瞬速だった。

「わかってくれればいいんです」

 ニコリと微笑む金城につられてか、教室にくすくすと笑いの波が立った。

「……シラボシ・テルと言ったか、貴様」

「う、うん」

 きまりの悪そうな顔で座りながら、彼はものすごい小声で輝に叫んできた。

「……覚えてろよッ!」

 紅 春翔――この少年が後に自分の高校生活を大きく変化させることになろうとは、この時の輝には知る由もない。

 今はただ、「遅刻しなくてよかった」と心から思うばかりだった。



 2nd. Battle  優等生って呼ばないで


 はっきり言って、輝は早く帰りたかった。

 とにかく、昨日はもうさんざんだったからだ。

 輝が何かしようとするたび、隣の春翔から干渉を受ける。

 プリントを後ろに回せば対抗し――

「俺の方が速い!」

 メモを取ろうとすれば――

「2B! 俺の方が濃い!」

 トイレに立てば――

「小だな? ならば俺は大だッ!」

 なんだかんだと張り合わなければ気が済まないらしく、行く先々で春翔が輝に勝負(?)を挑んできた。

「さすがに、こんなところまでは来ないよね……」

 すでに登下校のルートが同じだということはわかっている。要領が良い輝は学習の結果、校内を回り道して下校することにした。

毎回毎回、ホームまでついてきておきながら「急行には追いつけまい!」と言って一人だけ先に乗って帰ってくれるとは限らないのだ。

「……うん、大丈夫。だれもいない」

 輝は校舎の東側、正門とは反対の廊下で左右を確認して、ため息をつく。

「はぁ……」

 こういう用心や、人を出し抜くための算段など、できればしたくなかった。

「おっと? カガヤキくん、なんでこんなところに?」

「わあっ!」

 後ろからの急な声に、輝は思わず飛びのいて身構える。

「な~に? そんな驚いちゃって」

 けらけら笑うのは、見慣れた顔の少女だった。

「なんだ、碧木さんかぁ……。びっくりさせないでよ」

 輝にとっては、碧木の方が大きな目をさらに丸くしているように見えた。

「わー、カガヤキくん、初めて見たけど制服似合ってるねえ」

「そうかな? ありがとう」

「あたしと同じ制服着れるなんて、キミはラッキーだよ、うん!」

 碧木は両腕を開いて袖を伸ばしたかと思うと、そのまま肘も曲げずに輝の肩をばんばんたたいた。

「そ、そうだね……」

「あれ? なんか浮かない顔してるみたいだけど、大丈夫?」

「えっ? うん、大丈夫だよ、大丈夫」

 まさかクラスメイトにつきまとわれて悩んでいる、などとは言えない。

「しかし、カガヤキくんとこのあたしが同じ高校とはねぇ……。人生わからないもんですよ。どう? 運命感じちゃってたりする?」

「いや、それはないかなぁ……」

「もー、そうだったらそうだって、照れずに言ってくれてもいいんだよっ?」

 どんっ、とまた肩を押され、輝は若干傾いた。

「はは……」

 正直、輝は彼女のこういうアピール過多なところが少しばかり苦手だった。思い返せば、中学でも碧木をうまくあしらえる人間は限られていた気がする。

「でも、本当になんでこんな学校にしたの? あの超優等生のカガヤキくんが」

「うっ」

「成績優秀、スポーツ万能で、学年では不動のトップ!」

「そ、そんなことないよ」

「しかもみんなに優しくってすっごい良い子!」

「ちがうってば」

「だから意外でした。そんな彼がこんなことをするなんて……」

「待ってよ! なんか悪いことしたみたいじゃない!?」

 碧木は屈託のない笑顔で、あははと明るい声を上げる。

「冗談だよ、冗談」

 やはり、輝は彼女にからかわれるのは苦手だと思った。

「……ちょっと、自分を変えたいなって」

「ふーん?」

 大きく首を傾げて、碧木の長い髪が流れる。

「えっと、なんだかまじめにしてるのも疲れちゃったっていうか、そこまで頑張らなくてもいいのかな、って思って……」

「そうなの? じゃあこれからは不良になる感じ? 腐ったミカンで走り出す?」

 ミカン云々がよくわからなかったが、特に意味はなさそうだったので輝は続けた。

「ううん、そこまでじゃないけど。だから、これからはなるべく目立たずに、普通にしてようかな、なんて」

 碧木は腕を組みながらうんうんうなずいている。

「なるほど、やっぱりできる人は考えることがちがうね~」

「うう……」

「およっ? カガヤキくん、もしかして泣いてる?」

「碧木さん、わかってて言ってるでしょ!?」

 碧木はまたいたずらっぽく笑った。

「ごめんごめん、そこまで気にしてるとは思わなくってさ。てへっ」

 謝られている感じがしなかったので、輝は話さなければよかったと後悔した。もしや碧木に新しい弱みを握られたに過ぎないのではなかろうか。

「……碧木さんこそ、こんなところで何してるの?」

「あたし? あ、そうそう、人を探してるの! ね、ここらへんで女の子見なかった?」

「えっ? どんな人?」

 碧木はにわかに左右を見回しだした。

「うん、女の子。あたしと同じですっごく可愛い子なんだけど」

「あ、えっと……」

 そういうのはいいから、と輝は思ったが、口にする勇気はなかった。

「一緒に部活の見学するはずだったんだけどはぐれちゃって。そこの角を曲がったときに“にゃー”って声がしてね、あっ、猫だと思ってきょろきょろしてたら、いつのまにかドロン! って消えちゃったの」

「ドロンかぁ……」

 “ドロン”とはまた古い、と輝は思ったが、これも言うのはやめておいた。

「カガヤキくんも見てないかー……。もー、どこ行っちゃったんだろ?」

「もしかして、先に行っちゃったんじゃない?」

「んー、やっぱそうかな。あ、そうだ! カガヤキくんも一緒に行かない?」

「えっ、僕も?」

「一人じゃ心細いんだもん。ね、一緒に行こうよ! 面白そうな部活があったら、あたしより先に入っていいからさっ!」

 何の譲歩なのか輝には不明だったが、話そのものは魅力的だった。

 部活に入ってしまえば、放課後こうして春翔の影にびくびくせずにすむ。

 さらに、新たな活動によって自分の優等生気質を変えることもできるに違いないのではないか。

「……うん、一緒に行っていい?」

 碧木がぱっと喜んだ。

「やったぁ! さっすがカガヤキくん! あ、いやえーと、コホン。……カガヤキにしてはまあ、まずまずの判断であるね!」

「ありがとう碧木さん、でも無理しなくても大丈夫だよ……」

 本人も変な語尾になってしまったことに納得がいかないようだ。

「う~ん、ダメだ! 今のはあたしらしくなかった! さ、行こ行こ!」

「らしく、かぁ……」

 輝は彼女の揺れる後ろ髪について、廊下を歩みだした。

 おもちゃにされるのはいい迷惑だが、碧木からも良いところを見習わなければ、と考えて気づく。

 僕、こういうところが真面目すぎるんじゃないか……!?


「碧木さん、何の部活を見に行くところだったの?」

 歩きながら、碧木は両手を腰に当てる。

「とりあえず、全部かな!」

「えっ? 全部? 大変だね」

「そ。あたし、生徒会に入ろうと思って」

 輝は一瞬戸惑ったが、やがて彼女の言いたいことがわかった。

「そっか。部活動の状況をチェックしたいんだね」

「けっこう部活がさかんな学校だからね。まっ、掛け持ちできそうなのがあったら入りたいし。今日はそれもかねてってことで」

「碧木さんって、今まではバレー部だったよね。高校では入らないの?」

「なんか新しいことに挑戦したくってね! 一度限りの高校生活、やりたいことやってみないでどうするよっ!?」

「み、碧木さん、どこを指さしてるの?」

 碧木の指が示す場所は廊下の天井にしか見えないが、きっとその向こう側にある何かを捉えているのだろう、と輝は思うことにした。

「すいませーん、取ってくださーい!」

 道なりに校庭の隅へ出ると、足元にボールが転がってきた。

「あ、野球のボールだ」

 なにげなく拾い上げた碧木は、はっと気がついて輝に向き直る。

「野球のボールだよ! カガヤキくん!」

「う、うん、そうだけど。……なに?」

「またまた、白々しいんだから~! ほら、投げ返しちゃってくださいよ!」

「いいよ、碧木さんが拾ったんだから碧木さんが……うわっ!」

 放り投げられ、輝は仕方なく受け取った。

「すいませーん!」

 校庭の真ん中で、ユニフォームを着た野球部員が両手を振っている。

「さあ白星選手、振りかぶって第一球!」

「振りかぶらないってば……。え、え~いっ!」

 輝がわざとらしい声を上げて投げると、ボールは半分くらいで勢いを失くし、数回バウンドした。野球部員が走り寄ってグラブに収める。

「ありがとうございまーす!」

 碧木は不満そうに肘で突いてきた。

「どうしたの~? カガヤキくんなら余裕で届くでしょ?」

「だ、だめだめ、届いちゃったら野球やってたってばれちゃうよ」

「いいじゃん、ばれちゃっても」

「よくないってば、さっき言ったでしょ? 僕、あんまり目立たないようにしようと思ってるって」

「あっ、そういうことか」

 碧木が納得してくれたようで、輝はひとまず安心する。

「なるほどねぇ、カガヤキくんが中学時代、エースで四番だったなんて知られたら、みんなに注目されちゃうもんね!」

「わぁーっ!」

 輝は慌てて碧木の口を押えた。

「もごもご……ぷはっ! ひどいよカガヤキくん! ……うおー何だこれ、これが松ヤニのにおいか」

「碧木さん、だれかに聞かれたらどうするの!?」

 必死な輝に対して、碧木は無邪気に笑い返すだけだった。

「聞いてたってだれも気にしないよー。カガヤキくんは自意識過剰だなぁ」

「うっ……。そ、それはそうかもしれないけど!」

 でも、いるんだ。

 僕の行動に過剰な反応をする人が!

「ククク……。ようやく見つけだぞ、白星 輝ッ!」

 背後上方からのけたたましい声に、輝の背筋が凍えた。

「ほら! だから言ったのに!」

「はあッ!」

 春翔は非常用の階段を七、八段ほど飛び降りた。

「カガヤキくん、あのつんつん頭の彼は何の人?」

 耳打ちする碧木に輝もひそひそ声で答える。

「同じクラスの人なんだけど、ちょっと変なんだ……」

 じりじりと迫りよってくる春翔だが、恰好がいくぶん不自然だった。

「貴様を探して校内を駆けずり回った結果、なぜかいろんな部活に仮入部させられるハメになったが……」

 春翔は目に乗っていた水中ゴーグルをずらし、制服の上から黒い帯を締め直した。

「その苦難も今、貴様と相対するための布石にすぎなかったらしい」

 ブレザーの背に差し込んでいた竹刀を抜いて構え、新体操用らしきリボンをくるくる回しだす。

「さあ、どれで勝負する!? 白星 輝ッ!」

「ど、どれでって言われても!」

 碧木はすでに声量をはばからなくなっていた。

「たしかに、これは変な人だわー」

「フフ……。何とでも言うがいい。俺はそこにいる白星 輝の真の力を見極めるためなら、どんな手段でも選ばん!」

 せめて一度に一つの種類を選んでほしかったが、話が通じる相手ならもとより輝の苦労はなかった。

「し、真の力ってどういうこと? もしかして、今の話聞いてたの……?」

「今の話? なんのことだ?」

 春翔が首をかしげたので、輝は少し安堵した。

「なんでもない! なんでもないよ! 行こう碧木さん、じゃ、じゃあ僕たちこれで……」

「待てッ!」

 逃げようとする輝の体に、春翔のリボンが巻きついてこようとする。

「うわぁっ!」

 かわした輝に、春翔は含みのある笑みを浮かべた。

「フン、昨日からの連戦では俺の圧勝続きだが、やはり貴様には何かあるようだ。ホームで衝突したあの時も、貴様は倒れなかった……」

「気のせいだよ、きっと! ね、碧木さん?」

 碧木はなぜか誇らしげだった。

「ほほう、やはりわかるお人にはわかってしまいますか、うちのカガヤキに秘められたポテンシャルは」

「ちょ、ちょっと碧木さん!?」

 碧木の言葉に春翔が加熱する。

「そういうことだ! 俺は強い戦いの相手を求めている。貴様が俺にふさわしいかどうか、確かめさせてもらおうッ!」

「え、えぇーっ……」

 狼狽する輝の横を、ちょうど野球部の部員が通りかかった。

「おっ、君たち、野球部入らない?」

「野球ゥ……?」

 春翔が鋭い視線をうつした坊主頭の男子生徒は、人差し指でキャップをくるくる回している。

「時間がなかったら、見学だけでもいいからさ。どう?」

 春翔の視線が戻って来て、輝はびくっとした。

同時に、とても嫌な予感がした。

「よし白星 輝ッ! 俺と野球で勝負しろッ!」


 坊主頭の野球部は”九藤”と刺繍された帽子を深めにかぶりなおした。

「それじゃ、君たち二人のうち、多くヒットを打った方の勝ちってことで良いかな?」

「押忍ッ! お願いします、先輩ッ!」

「え、えっと……。はい」

 バッターボックスに立つ春翔は戦意十分だったが、輝はパイプ椅子のベンチで浮足だっていた。

「どうしたの、カガヤキくん? あ、さては武者震いってやつかな?」

 見るからに期待で満ちた碧木の瞳に、輝は困惑で応えた。

「どうしよう、碧木さん! このままじゃ僕、ずっと紅くんに勝負を挑まれ続けることになっちゃうかもしれないよ!」

「えっ? 今なんて言ったの?」

 碧木が自分の耳に当てたメガホンを輝の口に差し出してきたので、輝は大声を出した。

「だから、このままじゃ僕は目立たない学校生活を送れないよ、って言ったの!」

 碧木は耳を痛そうに押さえた。

「おお……。この距離でこれはいらなかったわ……」

 ダメだ、この人は……。自由すぎる!

「じゃ、行くよ」

 九籐はグラブからボールをつかみ取る。

「よっしゃァ! いつでもいいっすよ、先輩!」

 威勢のいい春翔の気合で、輝の脳裏に一閃の希望が弾けた。

 そうだ! たしか紅くんは四歳で虎と戦ったことがあるって言ってた……! 

 もしかしてあの人は、僕なんかよりものすごく強くてスポーツもできるんじゃないだろうか!?

 そうだとしたら、僕が相手にならないことをここで証明できれば、きっと興味をなくしてくれるはず!

「よっ!」

 九籐の手中からボールが放たれた。

「うおおおおッ!」

 スパン! と小気味良いミットの音。

 輝は目を疑った。

「……あれ? なんで振らなかったんだろう?」

 九籐はキャッチャーからふわりとした返球を受け取る。

「ごめんごめん、今のちょっと速すぎた? ねえ、君!」

 春翔は、はっと我に返った。

「あ、ああ……! す、少し様子を見ようと……!」

「なるほど、オレの癖を探そうとしてるのか。なかなかやるね。……なら、手加減はいらないな。正々堂々行こうかっ!」

 真っ向勝負らしく、九籐の投球はど真ん中のストレートだった。

「もらったああ――」

 春翔の鋭いスイングが、空気を裂いてボールに届こうとした刹那。

「えぇっ!?」

 輝は驚愕を禁じ得なかった。

 なんであの人、上から叩きつけるように振ってるんだ!?

「――ああァ!」

 ギィン! とくぐもって金属バットが鳴り響き、打球が土の音を聞かせた。再び浮き上がったボールを九籐が難なくキャッチし、一塁へ送球する真似をしてみせる。

「はい、アウト」

「なッ……!?」

 絶句した春翔を遠目に、碧木は容赦なかった。

「あちゃー、あの人、さてはド素人だね」

「……うん。残念だけど」

 希望の光が消え去り、輝は闇に閉ざされた気持ちになった。

「じゃあ、次はそっちの君ね」

「は、はい!」

 呼びかけられ、輝は春翔に近づく。

「く、紅くん、さすが虎と戦えるだけあって、すごいスイングの速さだったね。僕じゃ敵わな……」

 言いかけたところで、春翔は膝からくずおれた。

「バ、バカな……! たしかにバットがボールを打ち落としたのに……!」

「紅くん!? 大丈夫!?」

「ダイヤモンドには魔物が棲むと聞いてはいたが……なんと怖ろしい……!」

 輝は春翔の意外な一面に戸惑いを感じた。

 いつもあんなに強がってるのに、負けるとこんなに落ち込むんだ……。

「……紅くん、そんなに落ち込まなくても」

「九回裏まで何が起こるかわからないとは、こういうことだったのか……これが野球ッ……!」

 なおも頭を抱えてうわ言のようにつぶやいている春翔に、輝は扱いにくさも感じた。

「おーい、そろそろ投げてもいいかな」

 九籐はボールを持て余している。

「は、はい! どうぞ!」

 春翔がベンチへ這って行ったので、輝はようやく打席に立てるようになった。

「いっけー! カガヤキくん、かっとばせー!」

 碧木の声援で、はっと輝は気がつく。

 しまった。なんだか今、すごく目立ってるじゃないか……!

 輝にとって対処しなければならない相手は、春翔だけではなかったのだ。

「おや、君……。もしかすると、野球やったことある?」

輝の憂慮は現実のものとなった。

「い、いえ、全然……」

「いや、だってけっこう良いフォームしてるみたいだけど」

 冷や汗ものの言葉で、輝は反射的に姿勢を崩す。

「そっ、そんなこと言われたの初めてです。あ、ありがとうございます」

 九籐は手首を回して温め始めた。

「まあ、見ればわかるさ……それっ!」

「わっ! 待ってださい!」

 が、ピッチャーが投球の途中でタイムを受け付けるはずはなかった。

「わ、わぁ~……」

 バットを軽く回して外したものの、無意識にボールの中心を狩ろうとする自分に、輝は抗うのが難しかった。

「ストライク! ……だが危なかったな。直球はもう使えないか」

 九籐はボールを戻されると、右手をグラブに隠した。

「ど、どうしよう……」

 打て。本能がそうささやくのだ。打てる。やつの実力は、お前の把握する感覚の中にある、と。

 その声が、三振して茶をにごそうという輝の理性を許さなかった。

「なるほど。これならどうだっ!」

「あっ!?」

 やってしまった。輝は反射的にスイングを放っていた。インパクトに合わせた軸とタイミングのイメージを慌てて振り払う。

 パァン! と張りつけられた皮の鳴らす音。

「つっ……! 九籐ぉ、一年相手に熱くなりすぎだぜ……!」

 ここで、突然キャッチャーが自身の沈黙を破った。

「悪いな、水口。なぜだか本気でやらなきゃいけねぇ気がしやがるんだ……。この一年相手にはよ」

「せ、先輩?」

 輝は九籐の荒ぶってきた口調に怖れを抱いた。

「今のは偶然か……? オレの高速スライダーが一瞬、三遊間にブッ飛ばされたように見えた……。いや、そんなはずがねえ。初見でこいつを見切ったなんてことは!」

 当初穏やかそうだった九籐の表情は、厳しい勝負師の顔へと変貌しつつある。

 まずい。

 輝は確信した。次にボールを投げられたら、条件反射で打ってしまう。

「さあ、行くぞっ! 食らえぇっ!」

「うわっ……!」

 意識とは裏腹に、すでに輝の体は重心の移動を始めていた。

だめだ。このままでは、一連の予備動作がそれぞれの段階を経て、理想的なミートへの軌跡が構築されていってしまう!

 と、その時、輝に再び希望が舞い降りてきた。

 そうだ! 目をつぶっちゃえばいいんだ!

 なぜこんな簡単なことに気づかなかったのだろう、と思いながら、輝はまぶたで文字通り眼前の希望をつかんだ。当然、九籐による渾身の一球は闇へ葬られる。

 カアァン!

「……え?」

 輝は愕然とした。この手ごたえはまさか。

「ウソ……だろ」

 目を開けると、九籐が大きな口で頭上を見上げていた。

その先では、青空へ向かって打球がぐんぐんと昇っていく。小さくなる白球は校庭のフェンスを越え、やがて見えなくなった。

「あ……」

 呆然自失する九籐の姿に、輝は過去の幻影が重なって見えた。

 同じだ。あの時と。

 僕はもうだれにも、負けて嫌な思いをさせたくないのに!

「な、なんだこれ……。アホか……」

 九籐から漏れる台詞を、キャッチャーが立ち上がって訂正する。

「いや、天才だ……。この筋肉量でこの飛距離。よほどバネを使うセンスがなければこうはなるまい」

「よくやった! これでこそあたしたちのカガヤキくんだよっ!」

 二人からの賛辞にも、輝はうろたえるばかりだ。

「あ、いえ、その……」

 ひときわ興奮しているのは、ほかでもない春翔だった。

「クハハハ……素晴らしい! 見せてもらったぞ白星 輝! これがお前の真の力かッ!」

 輝は後ずさりしながら、両手で懸命に否定する。

「ち、違うよ、そんなんじゃないって! だって今のは……あっ」

 目を閉じていたから、と言いかけて言葉を飲み込んだ。見なくても打てる、という意味にとられかねない。

「完敗だよ君。どうだろう、うちの学校は甲子園に出た経験もある。君だってその才能、眠らせておきたくはないはずだ! ぜひ、野球部に入ってくれないか!?」

 九籐が汗をぬぐった手を差し出すも、輝の心はもはや重圧に耐えきれなかった。

「む、無理です! ごめんなさいっ!」

 脱兎のごとく駆け出す輝の背中に、九籐が熱烈なラブコールを投げかける。

「どこへ行くんだ!? 待ってくれ! そうだ! うちに入ってくれたら好きな背番号をあげよう! ジャージの色も選んでいい! 髪型だって自由だ! おーい、お願いだから俺たちと甲子園に行ってくれ!」

冗談じゃない!

 輝は校門へ一心不乱に走りながらかぶりを振った。

 僕はそんなことをするためにこの学校に入ったわけじゃない!

 中学までは、単純に頑張って、結果がついてくるのが楽しかった。

 でも今は違う。他人を蹴落としてまで上を目指そうとは思わない。

 ただみんなと一緒に普通に勉強して、楽しくスポーツをして、無難な高校生活を送りたいだけなんだ!

「待て、白星 輝ッ!」

「うわっ!?」

 突如、目前に春翔がたちふさがった。

「野球では確かに俺の負けだった……。だが、勝ち逃げは許さんぞッ!」

「そんな!?」

 いつも勝手に決めた勝負で勝ち逃げしてるのは紅くんじゃないか、と反論する間など与えられなかった。

「はあッ!」

 春翔は先ほどの新体操用リボンを輝の頭に巻き付けてくる。

「まっ、前が見えない!?」

リボンの切れ目からのかすかな視界で迷走する輝の進路に、今度は練習中のサッカー部が映った。

「危ないだろ!」

「す、すみません!」

 避けようとする輝の足もとに丸いものが引っかかった。

「待て! ボール返せ!」

「わあっ!」

 踏んづけて転ぶまいとする輝の足は、自然とドリブルでボールを運んでいた。

「そいつを止めろ!」

「練習の邪魔だぞ!」

 襲いくる屈強なディフェンスを華麗にすり抜けても、輝は吸い付けるようにボールを保持している。

「先生! いきなりなんなんすかあの制服のヤツは!?」

 記録係の憤慨に顧問は奥歯を噛みしめ、眉間にしわを刻んでから怒鳴るように叫んだ。

「シュートォ!」

「ひっ!?」

 大声が耳に飛んできた輝は、おびえるあまりその指示に従ってしまった。

「させるかよおおぉ!」

 シュートコースを塞ごうとキーパーが滑り込んでくる。が、輝の周囲にあるはずのボールが見えない。

「き、消えた!?」

 と思った直後、背後で優しげに、トン……、とボールが地面に触れる音が聞こえた。

「こいつ……いつの間にループを!?」

 ネットが揺れるのを見届けると、顧問はおもむろに言葉を紡ぎだした。

「攻めると見せるや、その武器を隠す。引きずり出されれば、どっこい裏をかかれる。ループシュートがまるで魔性の女の唇のように見えるなど、何年ぶりだろうか……」

「先生!? 何言ってんすか!?」

 唖然とする記録係に、顧問は太い眉を向けた。

「あいつを捕まえてこい!」

 立ち止まってリボンを外そうとしていた輝のもとに、数名のサッカー部が押し寄せてきた。

「おい! お前、サッカーとか興味ないか!?」

「うっ、うわああぁ!」

 輝が追い詰められた方向には、陸上部が準備していたハードルが整然と並べられていた。飛び越えて逃げる輝に続いて、サッカー部も次々障害をクリアしていく。

「あいつら……まとめて陸上部に入っちまえばいいのに……!」

 そう思ったと同時に、もう陸上部部長はスタートを切っていた。短距離で鍛えた反応速度が、まさかこんなところで役に立つとはな。部長はこの二年間を振り返りつつ、次の己なる後継者へと瞬足を導いていた。

「で、出口はどこだっけ!?」

 輝はまだ慣れない学校を必死に駆け回る。限られた視野で辺りを見回すと、後方から追ってくる人だかりが見えた。

「うちの部に入ってくれ!」

「いや、うちの部よ!」

「うちの部だよな!?」

 なんだ、この展開は!?

 輝が望み、思い描いた未来とは正反対の方向へと、彼も知らぬ間に運ばれているようだった。

 輝はよく思い返してみる。それというのも、元凶はたった一人の少年。

「待つんだ、待て、白星 輝ッ!」

「紅くん!? もう僕を放っといてよ!」

 ようやくリボンが振りほどけ、輝は校門目指して息を切らせる。

「そうはいくか! 貴様は俺が探し求めていた、強い戦いの相手なのだからなッ!」

「知らないよ、そんなの!」

 学校を出、街中へ出ると部活の集団はいなくなったが、春翔だけは執拗に追いかけてきた。

「もう一度勝負しろ、白星 輝ッ! 貴様こそ、俺のライバルにふさわしいッ!」



 3rd. Battle  君だけのサンクチュアリ


 勝負だ、わがライバルよッ!

 この二週間というもの、もう毎日これだった。

「……じゃあ、次は長座体前屈だね」

「望むところだ! わがライバルよ」

 輝は若干ノイローゼ気味になっており、もはや抵抗する気力もなかった。

「はあッ!」

 対して以前にもまして生き生きしている春翔は、勢いよく測定器を押し込む。

「えっ? もっと伸ばせない?」

「クッ……。これが限界だ」

 春翔の腰はほぼ九十度から変わっていないように見える。

「に、二十六センチ……? 結構体硬いんだね」

 今までの検査で判明したことだが、春翔の成績は意外なほど低かった。体の使い方というか、力の向けどころを操る器用さが致命的に欠けてしまっている。基本的な体力は悪くないだけに、輝はもったいないと思った。

「さあ、次は貴様の番だ」

 体力テストでの全国平均は四十五センチ。輝は昨晩すでに調査ずみだ。

「え、えいっ」

 ここだ!

 輝は測定器を四十五センチちょうどで止める。

 そう、彼はまだあきらめてなどいなかった。

 輝は体力テストが行われると知った直後から行動を開始し、クラスメイトに平凡な測定結果を見せつけるための努力を惜しまなかった。ソフトボール投げや持久走、反復横跳びなど、不自然にならないよう平均値をたたき出す訓練を近所の公園で重ねていたのだ。

 一度決めた目標を達成するまでは決して妥協しない。それが白星 輝という男だ。

「ふむ、四十五センチ……。ちくしょうッ! また負けたッ!」

 春翔は両手で体育館の床を殴りつけた。なぜか負けると異常に悔しがる彼を励ますこともまた、輝の役割となっていた。

「で、でも、あんまり気にせずに頑張ろうよ」

 春翔は立ち直りも異常に早かった。

「そうだな! ライバル同士、お互い頑張ろうじゃないか!」

 ぽん、と肩を叩かれ、輝はふと気がついた。

 もしかして、わざわざあんな練習しなくても、単に手を抜けばよかっただけなんじゃ……。

 現状において問題の根本的な原因は、彼が何においても全力で取り組んでしまう律儀さにこそある、ということには、残念ながら自覚するだけの余裕がなかった。

「よしッ! 次は握力で勝負だなッ!?」

 わくわくしながら検査の列に並び出した春翔の一方で、輝は脳裏から三十九キロという数値を振り払うことに全力を傾けていた。


「はあ……」

 輝は小説の表紙にため息をかける。

心休まるときといえば、放課後こうして図書室で本を選んでいるときくらいだ。

 無論、はじめは春翔もついてきて「はたして、どっちが早く読めるかな? フフフ……」などと息巻いていたが、本を読むのは苦手らしく、いつの間にか挫折して帰っていくのを繰り返すうち、この場所には姿を見せなくなった。

 いつまでこんな生活が続くんだろう。

 本当に勝手なんだよな、紅くんは。いつもいつも勝負勝負って。

以前読んだことがあるファンタジーの最終ページを、何の気なしにめくって開く。

 争いのない平和な世界なんて、やっぱり夢物語なのかなぁ……。

「面白い本は見つかったか? わがライバルよッ!」

 恐れていた言葉が背後からかけられたが、声が違うので驚きには至らなかった。

「……碧木さん、図書室では静かにしないと」

 碧木は慌てて自分の口をふさぎ、小声で話しだす。

「あ、ごめん。ついテンション上がっちゃって。似てた?」

「なんで紅くんの真似なんか」

 見せつけるように『赤ずきん』の絵本を手に取る碧木。

「それはね……貴様を食べるためだッ! ガオー!」

「シーッ」

 輝がたしなめると、狼のつもりだったらしい碧木は犬のように従った。

「今度は図書委員の視察? ずいぶん忙しいんだね」

 絵本をしまいながら、碧木はご名答、と言わんばかりに人差し指を立てた。

「カガヤキくん、あんまりあたしに会えなくてさびしいだろうけど、泣かないでね」

 碧木はどうしても輝をからかわずにはいられないようだ。

「どっちかっていうと、今は一人にしてもらえないせいで泣きそうだけど」

「おっと!? なかなか言うようになったね~。ハルショーくんとの戦いで身に着けた反撃かな?」

「はあ……。思い出させないでってば」

 輝の図書室での二回目のため息を聞いて、碧木は腕を組む。

「なるほど、相当参ってるみたいですねぇ」

「うん……。学校にいるときはだいたいずっと紅くんと一緒だからね。落ち着くひまがないんだ」

「そんなカガヤキくんに、あたしが癒しを提供してあげようか?」

「えっ? 癒し?」

 碧木のにんまりした満面の笑みが、輝は信用できなかった。

「まあ、だまされたと思って!」

 最初からだまされたと思ってるよ! などとは図書室でなくても輝が大声で言えるはずもない。正直なところ、輝の中で碧木と癒しが結びついたことなど、今まで一度だってないのだ。

「さ、こっちこっち!」

「ちょ、ちょっと碧木さん!? あんまり服引っ張らないで……」


 輝が連れて来られたのは、学校の端にある体育倉庫だった。

「碧木さん、こんな所に何かあるの?」

 碧木は耳にかかった髪をわざとらしくかき上げた。

「放課後だれもいない場所に呼び出したからって、残念ながら愛の告白じゃないんだなぁ。ごめんね?」

「べ、べつにそんなの期待してないよ!」

 その手のことを言ってくるだろうと予測していたが、いざ話題にされてみると輝はなんとなく照れてしまう。

碧木は輝の必死な反応を面白がり終えると、倉庫の扉をそっと開けてから中を指さした。

「勝手に開けて大丈夫?」

「うん。先生に鍵借りてるから。ほら、見て見て!」

 さびた扉は冷たく、金属のにおいがする。輝は内部をのぞきこんでみるが、薄暗くてよく見えないうえ、これといって変わったものもないように思えた。

「この中がどうかしたの?」

「シッ」

 輝の唇に碧木の人指し指が近づく。図書室でもないのに、と輝が不思議がるのを待つことなく、その指は高跳び用マットの上に向けられた。

「ん……?」

 示されたマットに目をこらすと、白っぽくて丸いものが乗っかっていた。輝はボールかと思ったが、すぐに違うことがわかった。

「あ、あれって、猫……?」

 嬉しそうな碧木は声を出さないように努めているのか、ぶんぶん首を縦に振る。が、結局喋るらしかった。

「かわいいでしょ!?」

「うん。あんまりよく見えないけど、丸っこくてかわいいね」

「そうなの! この前、一緒に部活を見学しに行くときに“にゃー”って声がしたって言ったでしょ? たぶんその時の子だと思うの」

 たしかにそんな話をしていた、と輝は思い返す。ただ、その後に起こった出来事については考えを及ぼしたくなかった。

「じゃあ、さっき言ってた癒しっていうのは、この猫のこと?」

「うん! かわいいでしょ!? 癒されるでしょ!?」

 輝は目が再びマットの上でうずくまって寝ている子猫に目を向けた。よく見ると、呼吸するたび腹部がかすかに上下したり、小さな耳がぴくぴく動いたりしている。

 輝の心になんとなく温かい感情がわきおこってきた。その気持ちは、春翔や碧木といるとき基本的に感じない、久々の安らぎだった。

「本当だね。なんだか幸せそうで、癒されるなぁ……」

 碧木は勝ち誇ったように自慢する。

「でしょ? あたしたちのテバサキは世界一なんだから!」

「てばさき? ってまさか、この猫の名前じゃないよね」

「そうだけど? 変?」

「ちょっと変かな。だって手羽先って、鳥肉の部位だよね。なんでそんな名前に」

「えーっと、なんでだったかな……」

 碧木が顎にこぶしを当てて首をひねる。

 と、突然倉庫の中から声が聞こえてきた。

「あなたたち、ちょっと静かにしなさい」

「わあっ!」

 中に人がいるとは予想だにしていなかった輝は驚きの声を上げる。

「静かにしなさいと言ってるのよ」

 淡々とした声は女の子のものだった。驚きのあまり、さっきの猫が少女に変身したんじゃないかという想像が輝の頭をよぎったが、そんなはずはないと直ちに思い直した。マットの上の白もその事実を裏付けている。

「ご、ごめんなさい」

 輝が自分の声もろとも小さくなって謝ると、小柄な少女が中から現れてきた。碧木も少女に頭を下げる。

「すみませんでした、カエちゃん」

「テバサキを起こしてしまうわ」

 少女は二人を冷たい目で見ていたが、扉の間から猫の様子が変わりないことを確かめると、いとおしそうな眼差しに変わった。

 少しだけトーンを落とし、碧木が二人に互いを紹介しだす。

「あたしと同じ中学だった白星 輝くん。カガヤキと書いて輝と読むよ。こっちは隣のクラスの桜田華絵ちゃん。ハナやかなカイガと書いてハナエね」

「は、はじめまして」

 輝が礼をすると、少女の方も軽く会釈した。

「どうも」

「そしてあたしが碧木清香! アオキじゃなくてミドリだよ! ミドリギッシュに頑張ります!」

 急に自己紹介してはしゃぎだした碧木に輝はどう対応していいかわからなかったが、桜田の方は絶妙なタイミングで切り返した。

「あなたのことは二人とも知ってるわ。それに、なによそのフレーズは」

 碧木は得意げに答える。

「へへー、あたしのキャッチフレーズだよ。格好いいでしょ? 生徒会の選挙で使おうと思って」

 桜田は間髪入れなかった。

「それ以前に全く意味がわからないけど。考え直した方がいいんじゃないかしら」

「ええ~? せっかく考えたのに……。どうしてもダメ?」

「使いたければ使うといいわ。あなたがいくら恥をかこうが、私には関係のないことだから」

 二人の会話、とりわけ桜田の碧木への対処に、輝は妙な頼もしさを感じた。

 すごい! この人がいると、あの碧木さんと一緒でもぜんぜん楽になる!

「というわけで、カエちゃんはあたしみたいに可愛い顔してるけど……」

「そういうのはいらないわ」

 打てば響くような桜田に、輝自身よくわからないが、なぜか内心ガッツポーズをしたくなった。

「……とても厳しい人なの」

 腕を組み、うなだれた碧木からつんとそっぽを向いた桜田はなるほど厳しそうな雰囲気があった。ただ、碧木が誉めるように顔立ちが可憐なのは本当で、涼しげな目元も彼女をより魅力的に仕立てあげていた。

 一応は可愛いと言われたのを気にしてか、桜田は左右にまとめてある髪をならす。

「あなたが無意味にふざけるからでしょ。まともなことを言ってれば私だって……」

 にゃあ、と倉庫から漏れる鳴き声に、桜田の目の色が変わった。

「どうしたのテバサキ? うんうん、うるさくしてごめんね! 寝てて大丈夫だからお休み……。そう、いいこいいこ」

 内部に吸い込まれていった桜田の猫なで声が奇妙に響いて来、碧木はくすくす笑う。

「でもね、猫にはすっごく優しいの」

「うん、そうみたいだね」

 なんだか輝もおかしくなり、二人で笑っていると、桜田が扉から顔を出した。

「あなたたち、何を笑ってるのよ」

頬が少し赤らんでいるのを見ると、自分の甘やかしぶりに気づいてはいるらしい。

「べつにぃ~」

 碧木はからかいのカードを温存しておくつもりらしい。能天気なようでいて、そういう知恵だけは人一倍働くのが彼女だった。

「そうそう、一緒に部活を見学しに行こうとしてはぐれちゃったっていうのがカエちゃんだよ。あの時もあたしとの約束を差し置いてテバサキに夢中でね」

「そっ、それ以上はやめて! お願いだから少し黙って!」

 先ほどの冷ややかな表情とはうってかわって必死になる桜田に、輝はこの人ならそれも納得だと思え、ほほえましくなった。

 碧木さんの癒しっていってもどうかなぁ、なんて思ってたけど、なんだかたしかに癒されてるみたい。忙しい中わざわざ連れて来てくれたんだし、きっと碧木さんなりに気をつかってくれてるんだよね……。

疑ってごめん、ありがとう碧木さん!

「あ、そうだカガヤキくん。カエちゃんは猫だけじゃなくて、スポーツにも詳しいんだよ」

「えっ?」

「って言っても選手やマネージャーじゃなくて、なんと審判やってるんだって! プロ野球で日本初の女性審判も目指してるとか」

 誇らしげな碧木の説明に、輝の表情がひきつる。

「えっ? ちょ、ちょっと待って。それ本当なの……?」

 おそるおそる確かめると、桜田は冷静に答えた。

「本当よ」

 輝の本能は危機を察知し、即座に避難を試みた。

「ぼ、僕もう時間だし帰らなきゃ……」

 しかし、桜田にがっしりと左腕をつかまれてしまった。

「ひっ……!」

 桜田は残酷に問う。

「運動部に入る予定は?」

「なっ……ないです!」

「あなた、野球をやりなさい。野球をやるべきだわ。テバサキに気を取られていて気づくのが遅れてしまったけど、数多の選手を見てきた私にはわかる。あなたは野球……いえ、野球だけじゃなく、スポーツをやるために生まれてきたような男よ!」

 桜田の語気とともに、腕をつかむ力もますます強くなる。

「そ、そんなことありませんって……!」

 恐怖のあまり敬語になってしまった輝の震える声も、桜田の耳には届かないようだった。

「まず姿勢がいいわね。今ですら、体の持っている運動エネルギーを最大限引き出すのに適した角度を筋肉が保っている。かといって力が入りすぎているわけではなく、ふさわしい脱力も心得ていて、なお下半身は安定……いい仕事をしているわ。あなた、格闘技か何かの経験でもあるの?」

 骨董品の真贋を見極めるような桜田の炯眼に、もはや声すらだせない輝は首を精一杯横に動かす。

「あなたのあどけない顔、拳、足の甲から察するに、そうでしょうね。人を殴ったことも殴られたこともなさそうだもの。惜しい……。惜しいわ! なぜ格闘技をやってこなかったの!? もし三年前……いえ、二年前からボクシングを始めていれば、今頃は全盛期のタケダすら凌駕する存在だったかもしれないのに……!」

 だれなんだ、タケダって……! という輝の心の叫びを知ってか知らずか、碧木が助け舟を出した。

「カガヤキくんは中学までずっと野球をやってて、エースで四番だったんだよ。それに優しいから格闘技はちょっと似合わないな~」

 いつからか輝の胸ぐらをつかんでいた桜田からふっと力が抜けた。

「なんだ、そうだったの。それを聞いてほっとしたわ。あまりの損失に少し熱くなってしまいそうだったけど、なら話は簡単ね。今すぐ野球部に入部してきなさい。ここの野球部は弱くはないから、一、二週間体を慣らす分にはまともな練習ができるはずよ。その間に強豪校に転校する手続きをするとして、この辺だと候補は真鳴学園が賀光大付属か……」

 輝はのどをおさえてせき込みながら、勇気をふりしぼって反対した。

「あ、あの……。悪いけど僕、もう野球はやりたくないんだ」

 桜田の眉がぴくっと跳ね上がる。

「今、何て言ったの?」

「決めたんだ。もう野球はやらないって」

「なぜ? 説明してみなさい」

 すさまじい威圧感が襲いかかってきたが、それでも輝はめげなかった。どんな苦難が降りかかろうとも、今、彼は一生懸命に弱音を吐こうとしているのだ。

「僕は野球をやってきて、うまくなることとか、試合で勝つのが楽しかったんだ。でも中学のあるとき、僕にホームランを打たれたピッチャーがマウンドで泣き崩れちゃって、すごく辛そうだったのを見て、それで……」

「勝つのが嫌になった、ということ?」

「う、うん」

 碧木が感心したように言う。

「ふーん。そんなことがあったとはねえ。やっぱり優しいんだね、カガヤキくんは」

 対照的に、桜田はあきれた様子だった。

「それは優しいとは言わないわ。いいこと? 勝負の世界は、生きるか死ぬかの真剣勝負よ。勝利こそすべてで、敗者の泣き言なんて負け惜しみ以外の何物でもないの。ましてそれに情けをかけるなんてもってのほか。どちらのためにもならないわね」

「そ、それはわかってはいるけど」

「わかってて言ってるなら、なおさら相手をバカにしてることになるけど」

「うっ……」

「まったく……。あなたみたいな選手は初めて見たわ」

 桜田が腰に手を当てたのでまた怒られるのかと輝は思ったが、そうではなかった。

「まあ、いいんじゃないかしら」

「えっ?」

 桜田はもとどおりの涼しげな目で、遠くで練習している野球部や他の部の部員を追っている。

「私も親の見よう見まねでいろんな競技のルールを覚えて、審判までできるようになったけど、ジャッジできるのはあくまでルールの中での話。それ以上のことまで裁く権利は、私にはないわ」

 さすが審判だけあって公平な見解をもっているらしく、輝は救われた気がした。

「もちろん私はスポーツがそれなりに好きだから、才能ある人には頑張ってほしいけどね。今はまだその気になれなくても、いつか野球を再開するときには私に教えて。白星くんだっけ? これだけは覚えておきなさい。こと野球に関しては、あなたってド真ん中ストライクよ!」

「あ、ありがとう……。桜田さん」

 感謝の気持ちは心からのものだった。自分の悩みを理解してもらえたのは、もしかしたら初めてかもしれない。

「でもカエちゃん、カガヤキくんが野球部に入っちゃったら、部活が作れなくなるかも」

 碧木の言葉に、桜田はまるで雷に打たれたかのようになった。

「あっ!? そうだった! 白星くん、今の話は全部忘れなさい! 野球部に入ったら絶対ダメよ!」

 急に手のひらを返しだした桜田に、輝は戸惑いを隠せなかった。

「ど、どういうこと?」

 碧木が説明する。

「驚かないで……。実はあたしたち、この体育倉庫を活動場所にして、新しい部活を作ろうと思ってるの!」

「えっ? 部活を? 体育倉庫で?」

 何から聞けばいいのかわからない輝だったが、とにかくなぜこの場所なのかが気になった。

「そう、この体育倉庫で!」

「どうしてもここじゃないといけないの? 他にもちゃんとした部屋が空いてると思うけど」

 桜田が念を押す。

「どうしても、ここでなくてはならないの」

「いったいどうして?」

 碧木は意気揚々と輝に答える。

「それはね……。ここがテバサキの、いちばんお気に入りのお昼寝場所だからだよっ!」

「え……?」

 言っている意味が理解不能だったので、また碧木の悪ふざけかと思った輝は視線で桜田に助けを求めた。

「そう……。だからどうしても、ここじゃなきゃいけないのよ!」

 桜田は拳を握りしめた。まぎれもなく本気だった。

「知ってのとおり、うちの学校は四人集まれば部活が作れるでしょ。体育倉庫を占拠して部活を作れば、テバサキは安心してお昼寝できるし、あたしたちは一緒にもふもふしたりのんびりしたりできて最高の学園ライフを満喫! ってわけ!」

 突拍子もない構想をためらいなく語る碧木の微笑みに、輝はほとんど戦慄した。

「そ、そんなわがままな理由で部活を作ってもいいの? とてもこれから生徒会に入ろうっていう人の言うこととは思えないけど……」

「大丈夫! そこらへんはちゃんと考えてあるんだから! ね、カエちゃん?」

 桜田は小さくうなずく。

「人数のほかに必要なのは活動内容と顧問の先生よ。活動内容……つまり部活の存在意義ってことなんだけど、大きく分けて三つあるわ。まず第一に優先されるのはここ、テバサキの聖域を保護すること」

「うん。それはもっとも重要だね」

 碧木がいつになく真剣な面持ちで同意した。

「いいのかなぁ、そんなので……」

 輝の不安は桜田にいささかも伝わらないようだった。

「準じて、体育倉庫の管理。基本的にがさつな運動部のせいで汚れがちな体育倉庫の環境美化、要するに室内の清掃と備品・器具の保守点検ね。これは行うことで学校へのアピールにもなるから顧問の先生もつきやすくなるし、みんなが気持ちよく利用できて一石二鳥よ。そして何より、猫はきれい好きな動物! テバサキも喜んで言うことなし!」

「本当に、全部テバサキが中心に回ってるんだね……」

 当の本人は自分がどれほど幸せ者かも知らず、マットの上で午睡にふけっている。言われてみれば当然のことだが倉庫の中はかなりほこりっぽい。体育の授業で使う器具やボールなど、至るところに土汚れがある。よくもこの中で安らかに眠れるものだと輝は思ったのち、これが掃除してきれいになればたしかにみんな喜ぶだろう、とも考えた。

「でも碧木さん、それならもう生徒会とか委員会がやってるんじゃない?」

 的を得た輝の疑問に、碧木はわずかながら肩を落とす。

「実はそうなの。意外としっかりしてるのよね~、うちの学校……」

 それはがっかりすべきところなのだろうかという疑問が増えてしまった輝に、桜田が話を続ける。

「そう。だからこそ部活であることが求められるの。つまり、三つめの活動内容……」

「ごくり……!」

 唾を飲み込む音を口で言った碧木のせいで、桜田はもったいぶった言い方をさせられた。

「……それが、審判部としての活動よ」



 4th. Battle  戦いはいつもそこにある


「審判部って……。もしかして、審判をする部活ってこと?」

 桜田はためらいなく答えた。

「そうよ。私の得意分野を利用させてもらうの。どんな競技だって審判は要るでしょ。体育倉庫は色んなスポーツが関わるから、居座る口実としては十分すぎるほどだわ」

「でも、審判部の試合とか大会なんて聞いたことないけど」

「当然ね。そんなのないもの」

 碧木が桜田に補足する。

「べつに、試合も大会もなくても部活でいられるんだよ。応援部だってそうだしね。まあ、チアリーディング部は大会出てるけど」

「ふうん、そっか」

 校内の事情に詳しい碧木に言われれば、輝もなんとなく納得できた。

「私としては審判の大会や試合があったら嬉しいけど、国内じゃまだまだ意識低いのよね。他の部活で人手がないときに審判だけしに行ったり、審判員資格の勉強をしたりするのもいいんじゃないかしら。サッカーなんか十二歳から公認資格が取れるのよ。私も今年三級に上がりたいと思ってたところだし、ちょうどいいかも」

「すごいなぁ、もう資格持ってるなんて」

「初めのうちは試験と講習だけ受ければ簡単に取れるわ。もっとも、より難しい資格にはそれなりの努力がいるけどね」

 碧木が輝に向き直った。

「そういうわけだから、カガヤキくんは野球部じゃなくて、あたしたちの部活に入ったらいいと思うんだ!」

「そういうことだったんだ……」

「どう? 一緒にやってみない?」

 野球部に入れと言ったり入るなと言ったり、かと思えば別の部活に入れとかなりの強引さを輝は感じたが、どのみち暇をもてあましたくはなかったし、何かのためになる活動なら強いて断る理由もない。今は流されるままにしてみるのも悪くないと思い始めていた。

「うん。僕に手伝えることがあれば」

 碧木は飛び跳ねながら、桜田と無理やり手を合わせた。

「やったね! ありがとう! カエちゃん、これで一歩前進だよ!」

「白星くん、私からも礼を言うわ。急な話で申し訳なかったけど、感謝してる。これからよろしくね」

 桜田は碧木から自由になった手を輝に差し出す。

 桜田さんって、ちょっと変わった人だけど、やっぱりすごくいい人だなぁ。

 輝が手を取ると、桜田は熱意を込めて言った。

「テバサキのため、一緒に青春のすべてを賭けましょう!」

 ただ、猫のことになると人が変わってしまうのはどうかと輝は思う。

「でも、部活を作るにはまだまだ必要な条件があるんでしょ?」

「ええ。まずは人数を四人集めないと。白星くんで三人目だから、あと一人ね」

「あと一人かぁ……」

「碧木さんと知り合いじゃなければ、白星くんを見つけ出すのも難しかったわ。部活動に熱心な学校だからこそ、こうして簡単に部活が作れるわけだけど、同時に人集めには難儀することになるのよね」

「そうだね。部活を決めてない人なんて、まだいるかなぁ」

 輝の目に、怪しげな笑みを浮かべている碧木が留まる。

「うふふ……」

「ど、どうしたの、碧木さん」

「やだなぁ。いるじゃない、一人。最高に暇そうな知人が」

 輝の背筋にぞくっと悪寒が走った。春翔から逃れて静かな場所を求めてここへ来たのだ。彼を招き入れるわけにはいかない。

「まさか……。あの人はやめた方がいいと思うよ!」

「でも、彼ならやってくれると思う、きっと……。あたし、そんな気がするの」

「碧木さん、夢を見すぎだよ! だってあの人は……!」

 桜田が割って入る。

「ちょっと、あの人とか彼とかじゃわからないんだけど。その人はだれなの?」

「なんと、白星くんのライバルなのです」

「そ、それは向こうが勝手に言ってるだけで」

 ライバル、という言葉に桜田は反応したらしい。

「へえ、この才能の塊に対して、自称ではあってもライバル宣言をするとは、なかなかいい度胸してるヤツじゃない。さぞかし実力があるんでしょうね。会ってみたいわ!」

「たしかに力はあり余ってるみたいだけど、どうかなぁ」

「何か問題でもあるの?」

 問題と言われると輝も表現しようがなかった。別に春翔の何が憎いというわけではない。だが、できるだけ桜田の興味はそいでおきたかった。

「えっと……。紅くんはかなり声が大きいから、テバサキが怖がって逃げちゃうと思うよ」

 桜田は思いのほか深刻そうに思案する。

「なんですって、それは問題だわ! ……でも、四人集まらないと部活自体作れないし、背に腹は代えられないわ。その人にはなるべく喋らせない方向でいきましょう」

「桜田さんって、ときどき無茶苦茶なこと言うよね……」

 一緒にやると言った以上、部活を作れなくさせるわけにはいかない。輝は春翔の加入には目をつぶることにした。彼は義理堅さには定評があるほうなのだ。

「よし! じゃあさっそく、噂の彼を呼び出してみよー!」

 電話でもするのかと思いきや、碧木はどういうわけか倉庫の裏に回り、直径が腰くらいまである大きなタイヤを転がしてきた。

「これは何かしら、碧木さん?」

 桜田の無機質な言い方が、輝は怖かった。

「えっ、見ればわかるでしょ? タイヤだよ、タ・イ・ヤ。あっ……! ごめん、タイヤ知らなかった? これは車が走るとき地面に……」

 何を勘違いしたのか説明を始めた碧木を、桜田が遮った。

「タイヤくらい知ってるわよ! タイヤでどうやってその人を呼び出すのかを聞いてるの!」

「まあ見てなよカエちゃん! ハルショーくんはカガヤキくんのライバルだって言ったじゃない。つまり、カガヤキくんが何かで活躍すれば、”むう、さすがわがライバルッ……!”とか言って崖の上から現れるに決まってるよ!」

 この子は何を言っているの……? という桜田の心の声が、輝にも聞こえてくる気がした。

「さ、カガヤキくん! この上に乗って校庭を一周してみて!」

「や、やだよそんなの!」

「お願いっ! なんなら二、三メートルでも良いから! あと、終わったらあたしにもやらせて!」

「自分がやりたいだけなんじゃない!?」

 暴走する碧木を桜田が留めようとする。

「はい、そこまで。わかったわ、こうしましょう。白星くんが二、三メートル乗ってみて、彼が現れなかったらあなたは走って校舎を探しに行くこと。その後ならタイヤ乗りでも玉乗りでも好きなだけやりなさい」

「さすがカエちゃん、ナイスジャッジ!」

「えぇ……」

 輝はなんだか納得がいかなかったが、勢いでタイヤに乗る羽目になった。

「そもそも、なんでタイヤなんかが学校に……」

 足をかけて飛び乗り、バランスを取ると桜田がため息を吐くように言った。

「きれい……」

「えっ? 桜田さん?」

「今のプレー、すごく美しかったわ……。まるでバレエみたいだった」

「プレーって……」

 桜田は輝のバランス感覚にほれぼれしているようだったが、タイヤに乗るのを褒められてもあまり嬉しくはなかった。

「カガヤキくん、ここまでおいで~」

 数メートル離れた碧木の手招きに輝の足が応じ、タイヤが前進しだす。

「おお……! これは! 素晴らしい……。想像以上だわ。あなた、本当に天才かも……!」

 冷静さを失った桜田に代わり、輝はいつになく自分を客観視できた。

 僕はいったい、何をやっているんだろう……?

 この状況の意味についてはだれにもわからなかった。が、意味そのものはあったらしい。

「むう、さすがわがライバルッ……!」

 呟きにしては大きすぎる声の方に、全員の視線が集中した。

「バカなっ……! まさか本当に!?」

 桜田の反応に碧木が喜ぶ。

「ほらほら! 言ったとおりでしょ?」

「でも、崖じゃなかったみたいだね……」

 春翔は体育倉庫の屋根に上っていた。

「こんなところで会うとは思わなかったな、白星て……いや、わがライバルよッ!」

「今、なんで言い直したの?」

 碧木の素朴な疑問は、輝にさえ無視されてしまった。

「僕も思ってなかったけど……。なんでそんなところに?」

 春翔は立てひざで座る。

「貴様が図書室に行ってしまった後、暇だったのでこの上で昼寝をしていたんだ。意外と日当たりが良いので心地よかったぞ」

「……たしかに暇そうね」

 桜田がぼそりと言ったのを輝は聞き逃さなかった。

「そりゃ~、テバサキ先生お墨付きのあったかさだからねぇ。ハルショーくん、なかなかいいセンスしてるよ!」

「クク……。褒め言葉として受け取っておこう」

 碧木に褒められて動揺しているのか、春翔は格好いいフレーズの使い方を間違えたようだった。

「春翔くん、どうやって上ったの? というか、そんなところで寝てたら危ないよ。降りてきたら?」

 春翔の不敵な笑みに、若干かげりが生じた。

「壁にあったタイヤを踏み台にして上がったんだが……。はッ! もしやそれは!?」

 春翔から足の下にあるものを指さされ、輝は慌ててタイヤから降りる。

「ごっ、ごめん、そのためのものだとは知らなくて」

 輝は倉庫の壁にタイヤを立てかけ、春翔が降りられるようにした。

「フッ、バカにするな。そんなものなくても飛び降りれば……おっと」

 飛び降りようとして春翔は躊躇し、体勢を崩しかけた。

「危なくない? 大丈夫?」

 碧木の心配も、春翔は手で制する。

「心配など……。よッ!」

 屋根のへりに手をかけ、ようやく降りてきた春翔は輝を見据える。

「どっ、どうも」

「今の技……しかと見届けた。だが今度は俺の番! さあ、勝負だ!」

「やめておきなさい」

 桜田がきっぱりと言う。

「ほォ……。何だ? 貴様は」

「あなたのライバルくんの友達よ。勝負するだけ無駄。怪我するだけだからやめておきなさい」

「なぜそう言い切れる? やってみなければわからないはずだ」

「そう。怪我しなければわからないってことね」

 輝は、両者の間に火花が散っているかのように見えた。

 なんか、この二人の方がよっぽどライバルっぽいんじゃないかな……。

「怪我を恐れて勝負などできるものかッ! わがライバルよ、そのタイヤを渡してみろ!」

「ま、待ってよ紅くん、僕は勝負するためにタイヤに乗っていたわけじゃ……」

「なに? じゃあなぜだ?」

 なぜと聞かれても、それは輝も知らなかった。

「えっと……。そうだ紅くん、まだ部活に入ってないなら、僕たちと部活を作らない?」

「部活だと?」

「そうなの! お願い、力を貸して!」

 碧木がちょうどよく話し始めたことで話題がそれ、輝はほっとした。

「……なるほど、そういうことか。弱い生き物を気遣うとは、なかなかの志だな。気に入ったぞ」

 ひととおり事情を聞き終えると、春翔は理解してくれた様子だった。

「本当に!? じゃあ一緒に頑張ろうよ!」

 両手を差し出そうとする碧木を、春翔は押しとどめる。

「しかし、それとこれとは別だ。今の話は勝負と何の関係もないではないか! まずは勝負が先だ、ライバルよッ!」

「うっ……」

「うまくごまかそうとしたらしいが、残念だったな。俺は話の流れをすぐに忘れてしまうような単純バカではない」

 春翔の発言に、桜田は心底意外そうな顔をした。

「なっ……! そうなの!?」

「クク……。ではこうしようではないか。この勝負、もし俺が負けたら、お前らの部活に入ってやろう」

「えっ……? いいの……?」

 輝に続いて、桜田も思わず声に出す。

「なんだ。やっぱりバカじゃない」

「バカかどうか、貴様の目で確かめてみるんだな」

「貴様じゃなくて桜田よ。悪いけど私、人を見る目には自信あるの」

 春翔は桜田を指さす。

「そのかわり、俺が勝った暁には、貴様らみんなで俺と”ライバル部”を作ってもらうぞッ!」

「ラ、ライバル部!? なによそれ!?」

「部員はみなライバルとなり、あらゆる機会に勝負を行う。戦いに次ぐ戦い! ほとばしる熱情! 勝っても負けても強敵(とも)を称え合い、握手を交わして夕日へ走る……そんな素晴らしい部活だ」

「どうしよう……。意味がわからなすぎて怖くなったのは初めてだわ」

「ゆくゆくは他校のライバル部とライバル関係となり……」

「もういいってば! わかったからいいわよそれで! どうせあなたが勝てるはずないんだから」

 碧木がタイヤを春翔のもとに運んできた。

「よ~し、そうと決まればルールは簡単、このタイヤに乗って、さっきのカガヤキくんより遠くに進めればキミの勝ちだよっ!」

「そ、それじゃ簡単すぎない? だって僕、本当に何メートルも進んでないよ」

「平気平気、あたし、カガヤキくんを信じてるから!」

「そう、条件はできるだけ公平に……。一応ね」

 周囲の反応をよそに、春翔は意気込む。

「いいだろう、行くぞッ!」

 春翔はタイヤの溝に手をかけ、楽々と上に乗ってみせた。

「人並みのことはできるみたいね。まあ、あなたの演技には遠く及ばないけど」

 桜田の評価はあてにしているが、それでも輝は不安だった。

でも、紅くんはすごい自信があるみたいだし……。もしかしたら実は得意だったりするんじゃないかな……。

 春翔はつま先を前に動かして叫ぶ。

「括目せよ、ライバルッ! これが俺のッ……」

 が、前に出しすぎたらしく後ろに重心を崩してひっくり返った。

「どぅふッ!」

「春翔くん! 大丈夫?」

 春翔はかろうじて輝にうなずく。タイヤから落下した拍子に左ひじを思い切り地面に打ち付けたらしく、横たわりながら手で押さえていた。

「あたし、救急箱取ってくる! たしかこの中に……」

「だからやめとけって言ったのよ。ちょっと待ってなさい」

 二人が倉庫へ消えると、春翔は例によって落ち込みだした。

「なんということだ……ゴムの塊とみくびった俺が悪かったのかッ……!?」

「よかった……。喋れる元気はあるみたいだね」

 それにしても、タイヤごときでそんなにショックを受けなくても……と輝は思った。


「と、いうわけで! ハルショーくん、ようこそあたしたち審判部へ~!」

「まだ部活にはなってないけどね」

 横やりを入れるものの、桜田は碧木と同じくらい嬉しそうだと、輝には見て取れた。

「フン、ちょうど暇だったしな。それに、同じ団体に所属し、切磋琢磨してこそ真のライバルというもの」

「そうなのかなぁ……」

 一口にライバルと言ってもいろいろあるだろうが、春翔の求めるライバルとは何なのか、いまだ輝には謎だった。

「またまたぁ。負け惜しみ言っちゃって」

「なッ!? 負け惜しみなどではな……いつつゥ」

 春翔は肘の湿布を押さえた。動かすと痛むらしい。

「それじゃ、改めて会議を始めましょう。私が部長ってことで異論はないかしら?」

 倉庫内のテーブルで桜田と対面した三人はめいめいうなずいた。

「うん。あたしはきっと生徒会で忙しくなるからね。カエちゃんにお願いするよ」

「僕も、審判のこと全然知らないし、それが一番じゃないかなぁ」

「そうだな。俺の怪我を予言したその実力、仕方がないが認めざるを得ない。よろしく頼む」

 春翔がさっきまで敵意をむき出しにしていた桜田に握手を求めるのが、輝には不自然に思えた。

 まさか……。紅くん、アレをやる気じゃ……!?

「……よろしく」

 手を差し出した桜田の親指を、春翔の親指がねじ伏せる。

「1・2・3・4・5……!」

「反則」

 桜田の声に、春翔のカウントが止まった。

「なにッ……!?」

「だから、反則。取りたいファウルはいろいろあるけど、まず両プレイヤーの肘が平面に接していないと。この競技がサムレスリングであるならね」

 輝の気持ちを碧木が代弁した。

「なにそれ?」

「アメリカでの指相撲よ。マイアミで毎年国際大会が行われているの。その公式ルールに則ればあなたは反則よ、紅くん」

「そッ、そんなルールは初めて聞いたぞッ! いきなり反則を取るなど……!」

「へえ、知らなければサッカーのハンドも陸上のフライングもしていいわけ?」

「ぐッ、だが今のは……!」

「ルールを守る気がないなら、プレーする資格はないわ。よってこの試合は、あなたの反則負けよ」

「はッ、反則負け……」

 春翔は椅子ごと後ろに倒れてしまったが、運よくボールがクッションになり事なきを得た。

「く、紅くん、大丈夫? 立てる?」

 輝が肩をたたいても、春翔はうめき声を上げるだけだった。

「俺が……もっとも不名誉とされる、反則負け……」

「さて、バカはほっといて早く本題に入りたいんだけど……。部員も集まったし、最後は顧問の先生ね」

 桜田が何事もなかったかのように話を進めるので、春翔が心配だった輝も倣う。

「ぶ、部員を見つけるのも大変だったなら、先生はもっと大変なんじゃない?」

「ええ、その通りよ。そのあたりは碧木さんが詳しいわ」

 碧木は大げさに腕を組む。

「体育科の先生が最適なんだろうけど、みんな部活受け持っちゃってるからね~。中には二個三個面倒見てる人もいるみたい」

「やっぱり、体育科は望み薄そうね。でもそうなると難しいわ……。まだ入学したばかりで、どんな先生がいるかも知らないし」

 輝の頭に金城の顔が浮かび上がる。まだ授業も本格的に始まっていないし、知っている先生といえばたしかに彼女くらいだ。

「じゃあ、担任の先生はどう?」

「あ、あたしのクラスの先生はたぶん無理だよ。だって見るからに犬っぽい顔してるもん」

「だからって犬以外受け付けないとは限らないでしょ。そもそも顔だけじゃ犬好きかどうかすらわからないわよ」

 指摘する桜田の眼光はさながら豹のようだった。

「あれはどう見ても土佐犬なんだけどな~。じゃあカエちゃんとこは何の先生で、何て名前なの?」

「日本史で犬飼って名前だけど」

「やっぱ犬じゃん! 却下!」

「だ、だから偏見でしょ!? 先入観やイメージにとらわれていては、公正なジャッジはできないわ。仮にも審判部を名乗るなら、そういう意識は大事よ。ましてあなたは生徒会に入るんだからしっかりしないと」

 珍しく、碧木はちゃんと反省しているらしい。

「ぐむっ……。すみませんでした。以後気をつけます。でもカエちゃん、犬派と猫派の溝は海の底より深いんだよ。派閥間の争いによって、はたしてどれほどの血が流されたことか……」

「どうしたらそれで血が流れるのよ。……まあ、言いたいことはわかるわ。犬好きと猫好きって、たいていどっちも譲らないからね」

「そう、彼らはさしずめライバ……」

 ピッ! と桜田がホイッスルを鳴らし、碧木が言おうとした単語をかき消した。輝は反射的に春翔の様子を伺う。

「……俺のッ……! 俺の灼熱と評される親指が反則負けとはッ……!」

よかった……。気づいてないみたい。

「碧木さん、次にあの面倒な人を刺激したら、これを出すわよ」

 桜田はネックレスのごとくホイッスルを胸に戻し、制服のポケットから黄色い紙を取り出した。

「そ、それはイエローカード!? くぅ……! 欲しい!」

 伸びてきた碧木の手から、桜田はさっとカードを避ける。

「欲しがっちゃダメでしょうが。これは警告のカードなんだから」

「だって、テレビでみんなもらってるから羨ましかったんだよ~! しかも二枚貯めると赤いやつと交換してもらえるんでしょ!?」

 碧木が何度もつかみ取ろうとするが、桜田はそのたびにかわしていく。

「お菓子のおまけみたいに言わないで! いい? 次やったらあげるからね!」

「ホント!? やった! じゃあ次がんばる!」

 ようやく碧木がやめてくれたので、桜田は一息ついてカードをしまえた。

「ふぅ……。なんか違う気がするけど、まあいいか」

「桜田さん、それいつも持ち歩いてるの……?」

 輝の質問に、桜田はさも当然というように言った。

「もちろん。違反行為はいつ何時行われるかわからないからね」

 ひょっとしてこれからは自分も持ち歩かなければならないのかと思うと、輝は今後の活動に懸念を抱くしかなかった。

「で、カガヤキくんのクラスは? どんな先生?」

「数学の金城先生っていうんだけどね。若くてきれいで優しい女の先生だよ」

「白星くん、あなたはだまされているわ」

 きっぱりと言う桜田に、輝は疑問を隠せなかった。

「ど、どうして?」

「この世には、若くてきれいで優しい美女の先生なんて存在しないの……!」

「それって偏見なんじゃ……」

 輝は矛盾を感じたが、桜田の気迫には逆らえなかった。

「いいえ、ごく公平に言って事実よ。その先生、よほど猫をかぶってると見たわね」

 碧木が反応する。

「猫かぶってるの? あっ、じゃあうちの顧問にぴったりだね!」

「だれがうまいこと言えって言ったの!?」

 いつになったらちゃんと話が始まるんだろう……と思っていた輝の足に、不思議な感触があった。

「わっ……! て、テバサキ?」

「えっ!? どこ!? 白星くんのところ!?」

 三人でテーブルの下をのぞくと、白い猫が輝の足にすりよっていた。

「あっ、本当だ~。あんまりうるさくしたから起きちゃったんだね。よしよし」

 碧木が頭をなでてやると、テバサキは気持ちよさそうに喉をならした。

「か、噛まれたりしないの?」

「大丈夫大丈夫。この子は人懐っこいからね。抱っこしてみる? はい!」

 碧木が、抱き上げたテバサキを輝に渡す。

「えっと……こう?」

 言う通り人に慣れているようで、テバサキは輝が触っても嫌がらずに腕へ収まってきた。

「どう? かわいいでしょ」

「う、うん。かわいいね。それにふわふわして、あったかい……」

「……」

 桜田がものすごく羨ましそうにしているのが目に入ったので、輝は気を遣う。

「さ、桜田さんも抱っこしてみる?」

「わ、私はいいわよ。もう何度もしてるし。ほら、白星くんにもテバサキの良さを知っておいてほしいし」

「と言いつつ、本当は抱っこしたくてたまらないんだよね~」

「うっ!? ち、違うってば!」

 必死に否定する桜田の後ろで、ゆらりと春翔が立ち上がろうとする。

「クク……。そいつが例の猫か。どれ、俺にも抱っこさせてもらおう……」

輝にとってはもはや条件反射だった。

 この流れは、言う気だ……。

「よーし、じゃあハルショーくん、だれが一番テバサキに好かれるか勝負だ!」

 が、春翔は碧木に先を越されてしまった。

「フ、フン! 言われなくても、勝負はすでに始まっている! さあ来るんだ! テバサキよッ!」

「あっ! テバサキ!?」

 テバサキは輝の腕から逃げ出し、並んだカラーコーンの奥へ隠れてしまった。

「ハルショーくん、ダメだよ大声出しちゃ」

 碧木の文句はまだしも、桜田のは脅迫だった。

「あなた……テバサキを怖がらせたらどうなるかわかってるわよね……?」

「わ、悪かったと思っている。俺は弱いものいじめをするような男ではない」

 輝はコーンのわきにしゃがみ、テバサキに手招きした。

「だってさ。怖がらなくて大丈夫だから、出ておいでよ」

 にゃあ、と小さく鳴いて、テバサキはまた輝の手に頬ずりをした。

「さすがだな、わがライバル。次こそ俺も……」

「あっ」

 春翔が近寄ろうとすると、テバサキはもとの場所へ逃げ込んだ。

「なぜだッ! なぜなんだッ!?」

「知らないわよ、そんなこと……」

 どこからか取り出した陸上のスタート用ピストルを桜田に向けられ、春翔は怯えながら両手を上げる。

「ま、待てッ! 話せばわかるッ!」

 碧木が身をもって方法を示した。

「ハルショーくん、こうやって体を低くするの。そうすれば猫は怖がらないから」

「なるほど、そうなのか!」

 春翔は膝をついて、テバサキにささやいた。

「さあ、これなら怖くないだろう」

 しかし、テバサキは黒く光る大きな眼で数回まばたきをしただけだった。

「クッ……。どうしたんだ?」

「白星くん、お手本を見せてあげなさい」

「えっ? う、うん。おいで、テバサキ」

 桜田に言われ、もう一度呼んでみるとテバサキは近づいてきて、輝の指を舐めた。

「く、くすぐったいよ。あはは」

「解せんッ!」

 春翔は頬に桜田のピストルを突き付けられながら、輝に言い渡した。

「こうなったら俺も本気でやってやる……! 俺はこの部活で三年間かけてでも、貴様よりテバサキに好かれてみせるぞ! わがライバルよッ!」

 結局こうなるのかと思いつつ、有無を言わせない春翔に対して、輝は「えぇ~っ……」と力なく声を出すほかなかった。



 5th. Battle  その先にある勝利をつかめ


「あの、桜田さん……?」

 朝に電車の中で輝が見かけた、中年のサラリーマンが読んでいたのと同じスポーツ新聞から、少女の白い頬が現れる。

「あら、白星くん。昨日のシャイニースタジアムの結果見た?」

「う、ううん。どうだったの?」

 桜田は、たばこのにおいがしてきそうな紙面に長いまつ毛を伏せる。

「それはもちろん、今季絶好調のA・ガブリエラが先発じゃさしものフェルナンデスも……。って、もしかしてもう全然野球には興味ないの?」

「そんなことないよ。でも今はできるだけテレビではニュースじゃなくてバラエティー番組を見たり、小説じゃなくて漫画を読んだりしてて忙しくて……」

「はぁ? どういうこと?」

 顔を歪めた桜田は、新聞のせいか輝の目に親父くさく映った。

「え、えっと、あんまりまじめすぎるとクラスでみんなと話が合わないんじゃないかと思って……」

「それで大衆っぽいメディアをわざわざ選んでるって言いたいの? あなた、いったい何様のつもりなのよ……」

「ご、ごめん」

「私に謝っても仕方ないわ。育ちがいいものはいいんだから、自分に自信持ちなさい。その方が気楽でしょ?」

「うん……。そうだね。ありがとう桜田さん」

桜田は大きく息をついて新聞をたたんだ。

「まったく。これじゃ私、審判じゃなくてマネージャーじゃない。それで? うちのクラスに何か用?」

 知らない同級生ばかりで輝はさっきから緊張していたが、ようやく話を切り出せた。

「碧木さんから、さっき金城先生のところに行ってきたって聞いたけど、顧問になってくれそうだった?」

「ええ、そういえばそうだったわね」

 桜田は露骨に不機嫌そうになった。

「だ、だめだった?」

「いいえ。思いのほかあっさり引き受けてくれたから拍子抜けしたわ」

 輝は桜田の態度を鑑みると、喜ぶに喜べなかった。

「えっ? 良かったんじゃないの?」

「そりゃあ、良かったは良かったんだけど……。私、見てしまったの」

「な、何を……?」

 桜田によれば、それは昼休みの職員室で金城と話している時だった。


「そういうわけで、ぜひとも先生に顧問をお願いしたいんですっ!」

 碧木が資料を差し出しながら腰を九十度に曲げると、金城はほほえみながら言った。

「ええ、いいですよ」

「ほっ、本当ですか!?」

 感涙せんばかりの碧木がおかしかったのか、金城はくすくすと笑う。

「私、実は顧問って請け負ったことないんです。それでも良ければ」

「全然大丈夫です! 先生にはご迷惑かけませんから! やったよ~カエちゃん! あたしたちの部活だよっ!」

 桜田の両手を取って上下に振り回す碧木に、職員室じゅうから失笑とも苦笑いともつかぬどよめきが生じた。

「ちょっ……。あなた、職員室なんだから静かにしなさい」

 桜田の指摘で、ようやく碧木が改める。

「あ、そっか。先生すみません。ありがとカエちゃん」

 碧木が人差し指を自分の口に立て、「しーっ」とジェスチャーを向けてきたので、桜田はつい手を出しそうになる自分を抑え込むのに必死だった。

「それじゃ、先生方の方には私からお伝えするとして、生徒会には碧木さんが連絡してくれるんですよね?」

「はいっ! あたし、生徒会に入りたいので!」

「そうでしたね。ちゃんと両立できるように、頑張ってくださいね」

「わかってます、それはもう! 先生、ありがとうございました!」

「はい。これからよろしくお願いします、碧木さん」

 その時だった。

 金城は机の上に置いてあった湯呑みを取り、ゆっくり唇に近づけて――

「あつっ……!」


 桜田の話はそこで終わりだった。

「……ね?」

 なにが「……ね?」なのか、輝にはよくわからなかった。

「ええと……。金城先生はすごく良い人だった、って話?」

 言い終わる前に桜田が声を荒げる。

「違うわよ! あの先生……猫をかぶってるどころか、猫舌ぶってもいる、って話! 信じられる!? いいえ、同じ女として信じられないわ……。テバサキのためにこれから同じ部活でやっていくのは我慢するけど、いつか必ず化けの皮剥がしてみせるんだからっ!」

「桜田さん、お、落ち着いて」

 これが女の戦いか……。と輝は思ったが、そんな自分は春翔に影響されているのかもしれなかった。


 一方で、体育倉庫では骨肉を争う死闘が繰り広げられていた。

「フフ……。テバサキよ、これが貴様の弱点だということはすでにわかっている。さあ、おとなしく投降しろッ!」

 テバサキは石灰のライン引きの間から、地面に置かれた獲物を奪う隙を伺っている。

「そう、人質を解放して銃を捨てるんだ……。見ろ、こちらは丸腰だ。安心して話し合おうじゃないか」

 先にしびれを切らした春翔が骨付き肉をつまみ、立てひざでテバサキの鼻元に近づけようとする。

「これでも食って、洗いざらい吐いてしまえば楽になれる。今ならまだ刑は軽い。故郷のお袋さんの泣き顔を見たくはないだろう?」

「なんの刑事ドラマよっ!」

 桜田が新聞で思い切り背中をはたくと、春翔は前のめりに倒れこんだ。

「くはッ! 痛い! ヒジが痛いッ!」

 まだ治りきっていない箇所に衝撃が走ったらしく、春翔は床で肘を抱えている。

「だ、大丈夫? 紅くん」

「白星くん、甘やかしちゃダメよ。こういうタイプは笛じゃなくて、体でわからせてあげないと」

「カエちゃん、鬼ジャッジだねぇ」

 倉庫の裏から回ってきた碧木はマスクにジャージ姿だった。

「碧木さん、あなたがついていながらテバサキを守れないなんて」

「ごめーん、裏が汚かったから先に掃除してたの。まさかこの短時間で買ってくるとは思わなかったよ、ハルショーくん」

 輝は春翔の指にかろうじて挟まっている肉に気がついた。

「これ、もしかして鳥の手羽先?」

「そうそう。初めてここに来たとき、テバサキがカエちゃんの鞄に顔を突っ込んで、お弁当の残りの手羽先肉を食べちゃったからテバサキになった、って話をしたんだけど……」

「へえ、だからなんだね」

 桜田は春翔から手羽先を回収する。

「本当は猫に人間の食べ物をあげちゃいけないんだけどね。その時は予想できなかったの。しかも、鳥の手羽先は骨が小さくてのどに引っかかるから危ないのよ。わかったかしら、紅くん」

 春翔はやっと立ち上がれた。

「そ、そうならそうと先に言ってくれ……」

「あなたが勝手に先走るからいけないのよ。まずは敵を知ること。己を知り、相手を知れば百戦危うからずってね。そうでしょ?」

「なるほど、敵を知り、相手を知る、か……」

「それじゃ同じでしょうが。そんなことも会得できないんじゃ、あきらめたほうが身のためね」

「わ、わかっているッ! 戦う前から負けを認められるかッ! 頼む、ヤツを攻略する方法があれば教えてくれ!」

「ふぅん? 私の教育的指導は厳しいわよ。教えてほしければ、まず”様”をつけることね!」

「押忍ッ! お願いします、桜田様ッ!」

 輝は桜田の要求にショックを隠しきれなかった。

「さ、桜田さん、それはちょっとやりすぎなんじゃ」

「違う違う、私じゃなくて、テバサキ様!」

「ああ、そういうことか……」

 いちおうそう言っておいたものの、輝はそれもどうかと思っていた。

「さ、みんな! まずは掃除が先だよ! ちょっと男子ー! さぼってないで手伝ってよー!」

 碧木はほうきとちりとりをたたき合わせる。

「あっ、ごめんね碧木さん。何したらいいかな」

「いやぁ、やっぱ学校で掃除するときは、一度はこれ言っとかないとね! じゃ、あたしはさっきの続きやってくるから!」

 そそくさと行ってしまった碧木の後ろ姿も見ずに、桜田はポケットティッシュで手をふく。

「顧問が決まって舞い上がってるのね。まともに相手するだけ無駄よ、白星くん。さて、掃除用具はどこにあるのかしら……」

 掃除の時間になるたびにさっきの文句を言われる碧木のクラスの男子を思うと、輝はなぜだか胸が痛んだ。


 掃除といっても、今できる範囲は限られており、動かせないものはほこりを落とし、あとはバケツの水で大きな汚れを流したり床を掃いたりする程度にとどまった。

「ふー……。でも、こうやって見ると見違えるくらいきれいになったよね!」

 すっかり汚れてしまったジャージの袖を気にしながら、輝も碧木と同じく、やっただけのかいはあると思った。

「そうだね。全然手入れされてないみたいだったから、どうなるかと思ったけど」

「ああ。俺もまさか貴様らに、掃除でここまでの惨敗を喫するとは思わなかったぞ……」

 案の定、最も早く自分の持ち場を美しくしたものが勝者だ、と言い出した春翔だったが、彼の選んだ屋根の上は水を運ぶのも一苦労だった。はたして屋根まで掃除する必要があるのかと輝には疑問だったが、碧木の「掃除の基本は上からだよ!」という意向もあり、結局最後は全員で春翔を手伝うことになってしまった。

「あたしたちの部活の第一歩か……。感慨深いな~。よっしゃ! 夕日に向かってお菓子パーティでもする!? 今夜はあたしのおごりだよっ!」

 桜田は碧木についていけない様子だった。

「みんな体力あるのね……私はもう駄目。でも、これでテバサキも気持ちよく過ごせるって思えば……」

 そこへ、どこかへ行っていたテバサキがちょうど帰ってきた。

「て、テバサキ様っ! ああ、抱っこしたい……。でも手が汚いから抱っこできない……!」

 桜田の疲れが吹き飛んだのを見て、輝は便利な体だなと思う。

「どう? キミのベッド、きれいになったでしょ?」

 碧木が高跳び用マットをぽんぽんたたくと、テバサキは飛び乗ってきてにおいをかぎ始めた。

「ちゃんと気に入ってくれるかしら……」

 桜田の心配をよそに、テバサキは前と同じように座って手足を体にもぐりこませる。

「ああ、良かったぁ……!」

「良かったね、カエちゃん」

 碧木の言葉に桜田が泣き出すのかと輝は思ったが、さすがにそんなことはなかった。

「ありがとう、みんな。テバサキに代わってお礼を言うわ」

 テバサキはぺろぺろと舌で毛づくろいを始めている。どうやらリラックスしてくれているらしい。

「クク……。それでは勝負を再開しようじゃないか、わがライバルよ! こいつを見るがいいッ!」

 春翔が取り出した、棒と糸がくっついたようなものに、碧木は過激な驚き方をする。

「そっ、それは釣竿型の猫のおもちゃ!? しかも先っぽにネズミの人形がついてるなんて……! これじゃいかにマイペースなテバサキ先生といえど、仔猫としての本能に抗えないこと必至! ハルショーくん、こんな危険なものをいったいどこで!?」

「さっき、休憩で飲み物を買いに行ったときついでにな……。フッ、近頃の百均がこれほど物騒なものまで扱っているとは、日本の治安も悪くなったものだぜ」

 なぜ会話が噛み合っているのか、輝には不思議だった。

「行くぞテバサキ様……。その肉球で頬杖つかせてやるッ!」

 しかし、春翔の放った一撃にテバサキは無反応だった。

「ほうら! 獲物はここにある! さあ、狩猟本能を呼び覚ませッ!」

 不器用な春翔はただ勢いよく引っ張ったりぷらぷらさせたりするだけで、少しもネズミを挑発的に動かせない。

「どうしたテバサキ様よォ! お前の食欲はそんなものかッ!」

「はいブレイク! 明日になさい、明日に! テバサキはもう寝るんだから!」

「何をッ!?」

 一人と一匹の間に入り、桜田は春翔の振り回す凶器を取り上げた。

「やはりレフェリーストップ! 見逃さない本日の審判は桜田です。解説のカガヤキさん、レフェリーフェアリー桜田の異名は伊達じゃないということでしょうか?」

「そ、そうですね……」

 急にふられた輝に合わせられるのはこれがやっとだった。

暮れていく陽の黄昏に、運動部のかけ声と、「だれがフェアリーよ!」という桜田の叫びがこだまする。


「違ぁう! もっと腰を入れて!」

「こ、こうかッ!?」

「頭が高いわ! 鼻を擦るくらい地面に近づけなさい!」

「うッ……! く、首が」

「そう! 声は小さく! ささやくように!」

「テ、テバサキ様ァ……」

 放課後、体育倉庫に来た輝は、春翔がまるで奴隷のように扱われているのを見て、少しいたたまれなくなった。

「な、何してるの、二人とも」

「何って、テバサキに好かれるための特訓よ」

 桜田の手にはなぜか竹刀が握られていた。

「特訓?」

「ああ、昨日手に入れたこの武器さえ使いこなせれば、テバサキ様を魅了できるはずだからな。怖がられないようにこうして……」

 春翔は桜田の教えどおり、身を蜘蛛のように伏せて例のネズミがついたおもちゃをぷるぷると揺らす。

「なんか、むしろ怖くなってるような……」

「ほら、まだ休憩の時間にはなっていないわ! そこ、手首のスナップを利かせて!」

「お、押忍ッ!」

 桜田が竹刀で春翔の右手を指すと、ネズミが多少は生き物らしく動くようになった。

「見ていろ、わがライバルよ、これで必ずや貴様に……」

「私語は慎む!」

「は、はいッ!」

 輝は春翔の執念にも驚いたが、桜田の熱血指導ぶりにも驚きを禁じ得なかった。

「みんな~! ごめん、あたしのこと待ってた?」

 突如現れた碧木になんと返そうか迷っていた輝より、桜田の方が早かった。

「だれも待ってなどいないわ」

「もう、素直じゃないなぁ、カエちゃんは」

 愛想のない桜田の返事を気にする風でもなく、碧木は手に抱えた書類をどさっとテーブルに置く。

 今のって、もしかして特に意味はなかったのかな……。

 近頃になって、ようやく碧木の言動がわかりかけてきた輝だった。

「はい注目! これから忙しくなるよっ! さー、まずは備品のリストアップから! カガヤキくん、これにメモしてって!」

 シャーペンとノートを輝に押し付け、碧木はてきぱきと器具をより分けていく。

「ど、どうしたの? 急に」

「なに言ってるの、部活の準備しなきゃ! 明日から正式に活動開始なんだから!」

「あ、明日!?」

 輝のみならず、桜田も戸惑いを隠せないでいる。

「いくらなんでも早すぎない? まだ具体的に何をするか決まってないのに……」

「それを今から詰めていくんだってば! ほらほら、カエちゃんはそこに座って決定事項をまとめる!」

「え、ええ」

 桜田が提出用の書類をチェックしていると、扉の向こうから未知の生物かのような姿勢で春翔が叫ぶ。

「お、俺は何をすればいいんだッ!? 手伝えることがあれば何でも言えッ!」

 おそらく、全員が自分と同じ想像をしたのだろう、と輝は思った。

 だれが一番部活の役に立てるか勝負だッ!

「……あなたはそうしてなさい。テバサキに怖がられないようになることも、この部活では立派な仕事よ」

 ほとんど腕立て伏せのような格好で猫のおもちゃを振る春翔を、桜田は冷徹な目で見降ろしている。

「なるほど……わかったぞッ! だがこの姿勢は……意外と疲れるなッ……」

 備品を数え終えると、次の議題に移ることとなった。

「まず恒常的に行う活動の一つは、昼休みにおける体育用具の貸し出しね」

 桜田の読み上げた項目に、碧木が説明を加える。

「うん。今のところ昼休みに使えるのはクラスに備えつけのボールくらいなんだけど、他の道具を借りたい人もいっぱいいると思うんだ。もちろん遊びだけじゃなくって、授業でやったハードルとかダンスの練習とかでもね。この大きいストップウォッチ使っていいなら、あたしも校庭走りたいな~」

「だけど、昼休みの校庭って全然遊んでる人いないよね。いるのは部活の昼練の人たちくらいかな」

 輝の正直な意見に、桜田も同感らしい。

「そうね。でも潜在的なニーズはけっこうあるのかもしれないし、調査する意味でもやる価値はあるんじゃないかしら」

「でしょ? だけど体育の先生に聞いたら、危ないからって触っちゃいけない器具のリストも出されたよ……やり投げだの砲丸だの。けっこう多いんだ、これが」

 碧木はがっくりと肩を落とした。

「まあそんなものでしょ。最初は信用ないかもしれないけど、これから実績で示していけばいいのよ」

「そっか……。ありがとうカエちゃん。こんなことで落ち込んでちゃ、いつでもミドリギッシュなあたしらしくないよね!」

 桜田が目を細める。

「まだ言ってたの? なんなのよそれ……」

「なにって、そりゃあミドリギーに満ちあふれているさまのことだけど」

 ミドリギーとは何なのか、彼女に尋ねる者はいなかった。理由は単純だった。だれも興味がなかったのだ。

「それにしても、これだと本当に委員会みたいな仕事になっちゃうわね」

「で、ジャッジメント桜田の出番ですよ」

「安っぽいレスラーみたいな通り名はやめて。……出張で審判させてもらえるなら、いい経験にもなるしありがたいんだけど、簡単にはいかないでしょうね。練習試合や大会の生徒審判員ってたいていはその部活から選ばれるし、部員の育成の場でもあるしね。よほど人手が足りなければチャンスはあるかも、って程度に思っておきましょう」

「それに審判の腕にもよるよねー。あたしたちみんな、カエちゃんみたくあらゆるスポーツに通じてるわけじゃないし。あたしはバレー専門ならなんとかって感じかな」

「私だって詳しく知らないルールはいくらでもあるから、その都度の予習は欠かせないわ。だから審判部としての主な活動は、審判員としての訓練っていうのが妥当なところだと思う」

「そうだね。じゃ、そういうことで書いとこっか。……でも、訓練ってどんなことするの?」

「こういうのはどうかしら」

 ペンを運ばせる碧木に、桜田の携帯が差し出される。画面には商品の詳細が解説されていた。

「えっと、世界のベストジャッジ百選……。BSでハイビジョン放送された幻の審判番組が待望のセル化! 第一巻”はじまりの笛”から最終巻”最後の審判”まであますところなくディスク九枚組に収録。マニア垂涎の逸品がお手頃価格で……」

「学校内の試合を見学するのもいいけど、やっぱりプロの仕事を知っておくのが筋よね。全部観ると二十時間くらいかかるけど、これを教材としつつ審判員資格の受験とか……」

「ちょっと待ってカエちゃん! これお手頃価格って書いてあるけど、高校生にとっては全然お手頃じゃないよ! 買ったら定期半年分吹っ飛ぶんじゃない!?」

「心配いらないわよ、私のを見せてあげる」

「持ってんの!?」

「なんと言っても、私たちには白星くんがいるじゃない。彼なら野球のアンパイアはできるし、才能を生かせば他の審判だってすぐ覚えるわよ」

「それはそうかも~。生徒会に活動実績を見せろって言われても心配はなさそう。まっ、たぶんあたしがやるんだけどね! その時は敵同士かもよ、カガヤキくん!」

「……白星くん?」

 輝ははっと気がついた。

「あっ、ご、ごめん」

「どうしたの? 具合でも悪くなった? ここ、ちょっと風通し悪いからね」

 碧木が思いのほか心配そうなので、輝はあわてて誤解を解こうとする。

「ちょっと考えてただけなんだ。……なんだかこういう風に、みんなで意見を出しながら一つのことに向かって頑張るのって楽しくて。僕、もしかすると、ずっとこんな感じのことがしたかったのかもしれないなぁ」

 一転して、碧木はにやける。

「おやぁ? そっかぁ。そうだよねぇ。あたしたちみたいにかわいい女の子に囲まれてれば、そりゃあ楽しいだろうねぇ」

「そっ、そういう意味じゃないよ!」

 桜田が勢いよく、高跳び用のマットであくびするテバサキを指さす。

「待ちなさい、一番かわいいのはテバサキだってこと、忘れないように!」

 屋内から聞こえる笑い声は、もちろん修行中の春翔にも届いていた。

「はァ、はァッ……! お……俺のことも忘れてはいないかッ……!?」

「よし! やるだけのことはやったよね! とにかく決戦は明日の昼休み! みんな、ボールを貸し出しまくる覚悟はいい!?」

「ええ。楽しみに明日を待ちましょう」

「うん。そうだね」

「初陣か……腕が鳴るぜッ!」

 決戦と聞いて飛んできた春翔も含め、今、ついに四人の気持ちが一つになろうとしていた。



 6th. Battle  だれだって最初は


 そして迎えた翌日は、雨だった。

「人が来ないよぉ……!」

 罪もないテーブルが碧木に叩かれ、貸出し張が一瞬宙に浮く。

「あきらめなさい。そもそも考えてみれば、どこにも宣伝してなかったんだから。天気のせいじゃないわ」

 落ち着きを装う桜田と同じく、輝も自分で意外なくらい残念だった。

「……今のうちに、もっと利用してもらうためにできることを考えてみようよ」

「そうだね、くよくよしても始まらない! 明日は絶対負けないんだから!」

 春翔が碧木に触発される。

「何ッ!? では今日は負けたのかッ……。だが、テバサキ様をめぐる戦いでは負けないぞ、わがライバルよッ!」

「紅くん、どこ行くの!? 外は雨だよ!?」

 春翔は持って来ていたレインコートを羽織り、輝の制止も気にせず雨の中へ飛び出して行く。

「クク……こうして悪天候でも努力しているところを見せれば、テバサキ様も俺への印象を改めてくれるはずッ!」

「そ、そうなのかなぁ」

 しかし輝には、顔を洗うテバサキが春翔を気に留めているようには見えなかった。

「貴様はそこで見ていろ、俺が歩みゆく勝利への軌跡をなッ!」

「紅くん、風邪ひくよ! ……行っちゃった」

 桜田が携帯の画面に話す。

「好きにさせときなさいよ。本人は幸せなんでしょうから」

「でもでも、ちょっと楽しそうだよね。あたし憧れちゃうな、ライバルって」

 輝は心の底からわき上がる疑問を碧木にほとばしらせた。

「……どこが!?」

「女の子どうしだと、面と向かって戦うなんてあんまりないからさ。最初は単に競い合いたいだけでも、いつのまにかお互い意地になってて、ケンカになっちゃうことの方が多いよ。でも男の子は、”バカ野郎!”とか”ブッ殺すぞ!”とか言ってるのにむしろ仲良くなるんだもん。羨ましいなぁ」

「そんなひどいことは言われたことないけど……」

「たとえばの話だってば。でも、実際二人は”勝負だ!”とかで仲良くなってるでしょ? 不思議だよね」

 言われてみれば、始めは関わりたくないと思って避けていた春翔と、今はこうして同じ部活で、同じ目標に向かって進んでいる。輝のしたことは、彼の仕掛けてくる勝負に何度か相対しただけだった。

「でも、僕は争いごとはあんまり好きじゃなくて……」

 桜田が携帯のスポーツニュースから、雨に打たれつつネズミの素振りをする春翔に視線を移す。

「私としては、どうして紅くんが白星くんにライバル宣言できるのかが不思議だけど。ほら、彼って力の向けどころがおかしいせいでスポーツなんて全然ダメだし、いつもバカの一つ覚えみたいに勝負すればいいと思ってるし、そのくせ負けると妙に落ち込むし……。悪いけど、何考えてるんだかわからないわね。すべてにおいて白星くんの足元にも及ばないと思うわ」

「え、えっと……」

 自分を引き合いに出され、なんとか言おうと思っていた輝だったが、やはり碧木が早かった。

「おっとカエちゃん、ずいぶんステキなジャッジを下すねえ」

「でもまあ、根性だけはあるわね。あらゆる点で敵に負けておきながら、依然戦う気力を失わないハート、っていうのかしら。そういうのを持ってるのはたしかよ。私が保証する」

「ふうん。やっぱり見てくれるところは見てくれるんだね。やっさしー」

 桜田は嬉しそうな碧木から顔をそむけた。

「こ、公正な基準をもってこその審判だからね」

 輝は、春翔が幾度も「負けたッ!」と言って落ち込む姿を思い出す。

 戦うって、何なんだろう……。


「桜田さん、今日は新聞じゃないんだね」

 中間テストの翌日、輝が教室へ呼びに来た桜田は携帯でスポーツ情報をチェックしていた。

「それは好きな選手とかチームが載ってるときだけ。毎日買ってると思ってた?」

「う、うん。桜田さんならそれくらいやりそうだなって……」

「負けるとボロボロに叩かれるからね。見たくないときだってあるわ。……白星くん、テストもう返ってきた?」

 つまり、昨日はひいきのチームの調子が芳しくなかったようだ。話題を変えられて、輝は少し自信なさげに答える。

「うん」

「どう? 調子は」

「ま、まあまあだったよ」

「……その様子だと、また平均点ちょうどを取るためにわざと間違えたわね」

「うっ……! なんでわかったの?」

「碧木さんによれば中学まで超成績優秀だったあなたが部室であれだけ勉強してたんだから、当然、結果に満足してなきゃおかしいでしょうが」

 桜田の言うとおりだった。目標は達成したはずなのに、どういうわけか輝の心は浮き立たない。

「まあいいけどね。白星くんが全問正解して全科目満点なんて取った日には、学年平均も上がって私が赤点取る確率も高くなるわけだから……。はぁ、言ってて空しくなってきたわ。次はちゃんと勉強しよう……」

 部活設立に加え、運営のための手続きや部活の業務そのものをこなしていた桜田は、あまり勉強する時間が取れなかったらしい。

 ただ、そのかいあって審判部の認知度も上がり、今では二、三日に一組は体育倉庫を利用するようになっていた。

「次からは、僕もちゃんとやるよ。でも、部長は大変だね」

「ええ……。ただでさえこの時期は開幕するスポーツが多くて大変だっていうのに! NBAが秋からだってことがせめてもの救いね」

 桜田は席を立ち、窓の外を輝に示す。

「白星くんも彼に呼ばれたんでしょ?」

「う、うん。今日こそ決着をつけるって」

 校庭のすみに見える体育倉庫で、ひたすら素振りをする春翔がいた。

「懲りずによくやるわね。でもまあ、私もあれを三週間続けるとは思わなかったわ。ちゃんとテバサキの興味を引けるようになったかどうか、見ものじゃない。さ、行きましょう」

 

「クク……。テストも終わったことだし、ついに特訓の成果を見せる時がきたようだな、わがライバルよッ!」

「あ、うん……。ずいぶん頑張ったみたいだから、うまくいくといいね」

 春翔が輝に突きつけた猫のおもちゃは、ネズミの人形がもう壊れかけていた。

「そうだ、雨の日も風の日も、俺は厳しい訓練に耐え続けた……。フフ、今日の俺は、貴様に負ける自信がないッ!」

 ややこしかったが、つまり勝つ自信があるのだと輝は理解した。

「そういえばハルショーくん、テスト期間中ずっと修行の身だったよね。テスト大丈夫だったの?」

 碧木の疑問に、自信満々だった春翔は生傷をえぐられたかのごとく地面へ手をついた。

「そ、それは聞くなッ……! ぐッ、こんな点数を取ったことがヤツに知られたらッ……!」

「ヤツってだれよ? あなたのライバルならここにいるけど」

 春翔は桜田に答える気はないようだった。

「そんなことより貴様には審判を頼むぞ、桜田」

「あら、特訓のコーチにそんな態度でいいわけ?」

 桜田の物言いには有無を言わせないものがあった。

「お、押忍ッ! 審判をお願いしますッ!」

「わかればいいのよ」

「じゃあ試合開始だね! 久しぶりにレフェアリー桜田のジャッジが見られるなんて、楽しみだなー!」

 碧木が体育倉庫に鍵を差し込むと、どこからかテバサキが駆け寄ってきた。

「きゃあ! テバサキちゃん元気だった? ああ、数日ぶりに癒されるぅ……」

 春翔に対してとまるで違う態度の桜田に、テバサキは顔をすり寄せている。

「ほら、今開けてあげるからね」

 碧木に扉を開けてもらうと、テバサキは「にゃっ」と短く鳴いてお気に入りのマットへ跳びのぼった。

「さあ、そろそろ始めようじゃないか、テバサキ様よ……。鍛え上げられた俺のテクニックについてこられるかな?」

「あなたの努力は買うけど……。ちゃんとできるかしら」

 春翔は桜田に向き直る。

「当たり前だ。なにせ俺は虎と戦ったこともある男だぞ」

「……なにそれ。何の冗談?」

 輝はなんとなく補足してしまう。

「紅くんは四歳のときに虎と戦ったことがあるんだって。その時、ほっぺたに傷がついたみたいだよ」

「その傷、気になってはいたけど、悪いかと思ってあえて聞かなかったのよね。でも本当なの?」

 桜田がためつすがめつする春翔の頬に、碧木も興味津々だった。

「へえ、虎と戦ったなんてすごいね! しかも四歳で? 詳しく聞きたいな~」

「ま、またにしなさいよ。あなた、生徒総会のスピーチ作るのに忙しいんでしょ?」

 面倒を避けようとした桜田だったが、あえなく春翔の語りが始まってしまった。

「いいだろう! そう、あれは俺が四歳の時だった……」

 

 紅一家は動物園へ来ていた。

「パパ、クマさんかわいかったね!」

 春翔が見上げると、彼の父はにっこりと笑う。

「ああ、そうだね。春翔にエサを投げてもらって、嬉しそうだったね」

「うん! ママもかわいいと思った?」

 一歩先を歩いていた母は、立ち止まって横顔を見せた。

「……飼い馴らされた動物をかわいがるなど、人間のエゴに過ぎんな」

「ママ……?」

 彼女は奥歯を噛みしめる。

「熊から爪を奪って、いったい何が残ると言うのだッ……!」


「タイム! ちょっとタイム! あなたのお母さん、本当にそう言ったの!?」

「ああ。どうかしたか?」

 春翔は桜田が何を疑問に思ったのかわからないようだった。

「いや、なんていうか……。ずいぶんユーモアのあるお母さんなのね」

「何を言ってるのかよくわからないが……」

 かろうじて失礼な表現が控えられた桜田をさておき、春翔は話を続ける。


 春翔の父は妻をなだめようとする。

「厳しい野生の世界だけが熊の生きる場所じゃないさ、ママ」

「フン、貴様までそんなことを」

 父は春翔の頭に手を置く。

「春翔。きみもママに見習って、熊の幸せを考えてあげられるような優しい大人になるんだよ」

「うん、わかった!」

「な、何を言っているんだッ!?」

 声をうわずらせた母は、またすたすたと足を早めてしまった。

「あっ、ママ、虎さんがいるよ!」

 しばらく歩くと、獰猛な肉食獣が集められたエリアに入った。

「虎か……。ふむ、ここはいいな。ヤツら、血に飢えた良い眼をしているじゃないか」

 わくわくしている母の横で、父は説明書きを読み入る。

「へえ、ここはできるだけ自然の生態に近づける工夫をしているんだね。でも危ないから網には絶対触らないように、だって」

「そうだ春翔。自然界は弱肉強食だからな」

 春翔には初めて聞く言葉だった。

「ママ、それなあに?」

「弱き肉は強きによって食われる。生き物は勝負に負ければ滅び、勝てば生きのびていくという意味だ。春翔、貴様も生きるためには強くならなければならない」

「強く……」

「だが、それだけが自然の摂理ではない。強さの真髄は、弱いものを生かす力にこそある。ときに弱いものも強いものも、助け合いながらともに生きていく必要があるからな」

 父が腕で母の肩を寄せる。

「そう、ちょうど父さんと母さんのようにね」

「よ、よけいなことを言うなッ!」

 母が父を振りほどいて行ってしまったので、春翔は仕方なく一人で近くの虎を観察する。

「虎さんって、すごく強そうだなぁ……」

 食事の時間はまだのようで、空腹らしい虎が春翔の目の前で、ガシャンと網に前足をかけてきた。

 屈強な肢体をしならせ、野生の眼で虎は春翔を威嚇する。

 その満ち溢れる生命の息吹に、春翔の胸の奥で、熱く何かがたぎった。

「……貴様には、絶対負けないぞッ!」

 気がつけば、春翔は網につかみかかっていた。


「というわけだ。効いたぜ、あのパンチは……」

 桜田は春翔の自慢げな顔に納得がいかないようだ。

「いや、それ虎と戦ったって言わないんじゃないかしら」

「フッ、勝負を挑んだら反撃してきたんだ。これを戦いと言わずして何と言う」

「そういうことだったんだね」

 長きにわたる謎の解決でわずかながらも感慨を覚える輝と、碧木は興味の対象が異なっていた。

「うん、ハルショーくんはお母さん似だってことがよくわかったよ」

「カエルの子はカエルってことね。……にしても、独特なご家庭だこと」

 春翔は桜田の皮肉には気づかないらしい。

「だから、虎と戦ったことのある俺はその経験を生かし、同じネコ科であるテバサキ様を手なずけることができるはずなんだッ!」

「そうね。まあ、やるだけやってみなさい」

 投げやり気味な桜田が椅子で観戦の姿勢に入ると、春翔は輝に不敵な笑みを見せた。

「さあ、今日こそ貴様へのリベンジを果たしてみせるぞ、わがライバルよッ……!」

「う、うん」

 春翔はすでに臨戦態勢で、テバサキを驚かせないよう声のトーンを落としていた。

「まずは身を低くして視点を合わせる! 猫は大きいものを怖がる性質があるからなッ!」

積み上げられた高跳び用マットのテバサキは、春翔の胸あたりの高さにいる。春翔と水平に目が合うと、テバサキは彼のつんつん頭をじっと見つめた。

「おお! あたしが実演したやつだ! 頑張れハルショーくん!」

 いつのまにか碧木も春翔の味方になっていた。

「次はこいつの出番だ……。出でよ、わが分身ッ!」

「ずいぶんボロボロの分身ね」

 春翔は桜田の入れる茶々よりすばやくネズミのおもちゃをテバサキの眼前に出現させた。テバサキの耳がぴくっと動く。

「す、すごい! うまくなってる!」

 これには輝も驚かざるを得なかったが、春翔は気を抜かなかった。

「まだまだ……。これからが本番だッ!」

 見つめるネズミがちょうど前足が届くか届かないかというところで、テバサキは捕まえようか迷っているようだった。

「せいッ!」

 春翔は勢いよく引っ張ると、テバサキは反射的に消えたネズミへ手を出す。

「動いたわ……テバサキが! あの時は全く興味を示さなかったのに……!」

 桜田は春翔の戦いぶりというよりは、テバサキのかわいらしい動きに心を奪われていた。

「フフ、テバサキ様よ……。貴様の獲物はどこへ行ったのかな?」

 挑発しつつ、春翔はテバサキから見えるようにわざとネズミを床に落とした。

「あっ! 跳んだ! 跳んだよ!」

 テバサキは碧木のそばを抜け、マットからネズミへ駆け降りる。爪を出した両足で捕まえようとした瞬間――

「させるかッ!」

 春翔はネズミをすっ飛ばしてカラーコーンの隙間に投げ入れた。

「追いかけてった!?」

 むしろ桜田がテバサキの姿を追いかけ、椅子から身を乗り出してコーンの奥をのぞく。

「奥の方を探してるね……」

 輝から見えるテバサキは、自分の体を二、三度ひるがえし、そこに逃げたネズミを見つけようとしていた。

「クク……。だが、実は死角を通ってここにいるのだよ、テバサキ様」

「あー! 悪い! なんかわかんないけど言い方が悪役っぽい!」

 碧木に非難を浴びせられながらも、春翔は戦いを有利に進めるため手にネズミを隠し持つ。

「さ、問題はここからね。ネズミを追ってるとはいえ、テバサキが紅くんに近づいてくれるかしら」

 ネズミがいないと察したテバサキは、コーンの間に隠れて春翔の様子を伺っている。

「ついにアレをやる時が来たかッ……! 見よッ! 三週間磨き上げて完成した、俺の最終奥義をッ!」

 春翔はネズミを隠したまま、ゆっくりと体を伏せ始める。

「はァァァァァッ……!」

 無論、かけ声は小声だ。

「こ、これは……」

「うん……」

 碧木と輝が思ったことを、桜田は率直に言った。

「気味悪いわね」

 春翔は左手と両足の三点で体を支持し、右手に釣竿を構えた。しかし辛い姿勢のため、糸で先にくくりつけられたネズミとともに体が小刻みに震えてしまう。

「クッ! だがこの”臥薪嘗胆のポーズ”は三十秒ともたないのが欠点だッ……!」

「いつからそんな名前がついたのよ」

 桜田に答える余裕もない春翔は、手首のスナップを利かせてネズミを床に放った。

「これで最後だ……! 食らえェッ!」

 飛び出してきたテバサキが、ネズミを捕える。

「あっ……」

 声をもらす輝に続いて、碧木も感嘆した。

「やったね! ハルショーくん!」

「ああ……。やった……やったぞ。俺はやったんだッ!」

 テバサキはネズミを離さず、じゃれて噛みついたりぺろぺろ舐めたりしている。

「へえ。良かったじゃない。これでテバサキにもいい遊び相手ができたわね」

「そうだ。今日から俺と貴様は仲間……ともに戦い、切磋琢磨しようじゃないか、テバサキよ」

 ”臥薪嘗胆のポーズ”を解いて立ち上がった春翔の足に、テバサキは頭をすり寄せてくる。

「本当に仲良くなったみたいだね~。もしかして、修行の間ずっと体育倉庫にいたから、ハルショーくんの大きい声にも慣れてきたのかな?」

 あごに手を添え、桜田は碧木にうなずく。

「なるほど……。それは一理あるかも」

 春翔にとって重要なのは、何が勝利に結びついたかではなかった。

「フフ……。わがライバルよ。今なら声を大にして言おう。……この勝負、俺の勝ちだッ!」

「う、うん。僕の負けだね……。おめでとう、紅くん!」

 輝の祝福に、春翔は心から満足そうだった。

「しかしこの勝利……俺一人で実現したわけではない。桜田、お前のコーチには世話になったぞ」

 急にお礼を言われ、桜田は意外そうだった。

「なかなかわかってるじゃない。それ、スター選手の常套句よ」

「はいは~い! あたしはあたしは?」

「フッ。碧木、貴様の助言がなければ、あの奥義を編み出すことはできなかっただろう」

 にやにやしながら、碧木はテバサキの前にしゃがみこんだ。

「でも、一番大変だったのはキミかもね! ごめんよ、くだらないことにつき合わせちゃって」

「くだらなくなどないよなァ? テバサキ。貴様の狩人としての技量、侮れなかった」

 春翔もひざをついて頭をなでると、テバサキはのどをごろごろ言わせた。

「そして、わがライバルよ」

「えっ?」

 春翔は横目で、驚いた顔の輝を見上げる。

「貴様という脅威が俺を奮い立たせた。礼を言う」

「うん……」

 ついに、桜田の我慢が限界に達したようだった。

「ちょっと紅くん……。いつまでテバサキをなでてるのかしら? 私にもさわらせてよっ!」

「ダメだよカエちゃん、次はあたし! ちゃんと並んでよねー!」

「クク、ではだれが一番テバサキを楽しませられるか勝負だッ!」

 桜田と碧木が「それはしない!」と声を合わせて春翔を落胆させるのを眺めながら、輝はひとつの言葉を思う。

 ライバル、か……。

 自分の中で新たに生まれた気持ちに、輝はまだ名前をつけることができなかった。



 Final Battle  さよなら、ライバル


 蝉の声の喧騒にも、輝はどこか静けさを感じていた。

「これでもう一週間……」

 期末試験以降、ずっと輝の隣は空席だった。

 最初の二、三日は風邪でも引いたのかと思い、桜田も「夏カゼ引くのはなんとかの特権ってね」と言うので、とくに気に留めてはいなかった。

 だが、これほど長く連絡がつかないのはおかしい。

 先生なら事情を知っているかもしれないと考えた輝は、昼休みの始めに職員室へ向かおうとして碧木とすれ違った。

「あっ、碧木さん」

「おっと、カガヤキくん……! ごめんね、あたしちょっと急いでて! 部活には絶対顔出すから!」

「う、うん。お疲れさま」

 碧木は小走りで階段を一足飛びに降りていく。

 晴れて生徒会役員となった彼女は部活に委員会にと、端から見ても多忙な日々を送っていた。とくにここ数日はまともに会話する暇もなく、今のような挨拶すらしないときも少なくない。それが輝の感じる静けさに一層の拍車をかけていた。

 だだ、地道に増加しているとはいえ、いまだ利用者がほとんどいない体育倉庫で退屈そうにしている碧木よりは、この方が彼女らしいのではないか、と輝は思う。


「白星くんは仲が良いから、てっきり知らせてあるものだと……」

「えっ……。何をですか?」

 職員室の回転椅子で、金城は話しづらそうに言った。

「紅くん、ご家族の都合で、お父様が単身赴任されているキューバの学校に通うことになるんだそうです」

 あまりに唐突な情報なので、輝には把握しきれなかった。

「キューバ……って、言われても」

「それで、この二週間向こうで手続きを済ませて、夏休み明けには転校と……」

「転校……」

 まだ返却し終えていない解答用紙を整理しながら一呼吸おいて、金城はさらに続ける。

「……もうひとつ、大事なお話なので早めにお伝えしておこうと思うんですが、私たちの審判部、紅くんがいなくなってしまうと人数が足りなくなりますよね」

「は、はい」

 返事はするものの、輝の頭には十分入ってこなかった。

「当面は代わりでもいいので、だれか入部できる人を見つけておいてください」

 代わりの人……?

「期限以内に見つからない場合、残念ながら……」


「ええ、廃部でしょう?」

「桜田さん……。知ってたの?」

 用具の貸し出し張に要項を記入しながら、桜田は息を吐くように答える。

「知っていたわ」

 体育倉庫の隣にある砂場では、二人の男子生徒が幅跳びの練習をしている。さっき借りていったのはそのためのメジャーだった。

「みんなでやっと作り上げた部活も、このまま終わってしまうのかしらね。これだけしか人も来ないんじゃ新しい部員も入らないだろうし、碧木さんも最近は生徒会が忙しいみたいだし、紅くんはキューバに転校。彼なんかにあの野球大国はもったいなさすぎる気がするけど、まあ仕方ないか。それにしたってあっという間だったわ。でも、早いうちにタオルを投げておいたほうが、傷も浅くて済むんじゃない? もっとも、テバサキの福祉に関しては私が死んでもなんとかするけど」

 皮肉とも自虐ともつかない桜田に、輝は正面から答えなかった。

「どうして……教えてくれなかったの?」

 桜田はノートを閉じると、近ごろ涼を求めてマットの上から床の隅に移って寝ているテバサキに近寄る。

「私なりに正確な表現をするわ。知っていたというより、知らされていたの。彼本人から」

 なでられて、テバサキがにゃあ、と小さな声で甘えた。

「あなたには黙って行きたいんですって。……前時代的よね。メールでも電話でも、世界中どこでだって一瞬で連絡が取れるっていうのに。だいたい、現に今こうなってるんだし、いくら黙ってたっていずれわかることでしょ?」

 自分への問いかけなのかわからず、輝は口をつぐんでいる。

「でも……なんか断れなかったのよね、最後の頼みだと思うと。それに彼、本気だったから」

「もしかして、碧木さんも?」

「ええ。……悪かったわね、だました形になって」

 輝は首を縦にも横にも振れなかった。「ひどいよ」も、「大丈夫」も、今の気持ちとは違った。

「彼、どうしてあなたをライバル視してるのかわかる?」

 それは、ずっと輝が考えていたことだった。

「……ううん」

 聞こえてくる話し声から察するに、利用者の二人は幅跳びの記録を競い合っているらしい。

「私もわからなかったわ。圧倒的な力の差があるのに、なんでそんなことが言えるんだろうって。何をやらせても人並み以上の白星くんに、紅くんはふさわしくないんじゃないかって。でも、やっとわかった。そうじゃない」

 桜田はテバサキのもとから立ち上がって、輝の目を見た。

「あなたが強すぎるからこそ、彼はあなたに勝ちたいと思うのよ。きっと彼にとって、あなたほど挑みがいのある大きな目標はこれまでいなかったんでしょうね。あなただけが、行き場のなかった彼の闘志の受け皿となれたの」

「僕だけが……」

「たしかに彼は不器用で、何でも力任せだし、すぐ落ち込むうえ工夫もろくにできないバカだけど、あなたに勝ちたいっていう熱い思いは、負けても決して失わなかったわ。何度も勝負を挑んで、そのたびに負けて負けて、もうやめればいいのにって思うくらい負けても、あなたに勝つため立ち上がってくる……。白星くん、あなたにとってそんな人、ほかにいた?」

 輝はあの日、マウンドに崩れたピッチャーを思う。

「……いなかったよ」

 いなかった。だれも。およそ知る限り、輝を脅かすような力の持ち主は。

 みんな輝と戦うことをあきらめ、去っていった。

「だから、紅くんはあなたに……」

「桜田さん」

 輝はその先を言わせなかった。

「桜田さん……。僕に、特訓のコーチをしてくれない?」

 驚いた顔を見せてから、桜田はふっと笑った。

「ようやく覚悟を決めたのね。待ってたわ、その言葉!」

 桜田は輝の決意を見て取ると倉庫の竹刀を探したが、見あたらなかったのでネズミのついた棒を彼に突きつけた。

「いいこと? 私の教育的指導は厳しいわよ!」

「うん、頑張るよ!」

 あの時感じた気持ちの意味が、やっとわかった。

 僕は今、とても……悔しいんだ!


「……電車が参ります、ご注意ください」

 ブザーが鳴ると、まもなく車輪の音が近づいてくる。

停車して開いたドアから現れる人影に、輝はベンチから立ち上がった。

「紅くん!」

 つんつん頭の少年は驚きを隠せなかった。

「なッ……! なぜ貴様がここにッ!?」

「みんなや先生から、全部聞いたんだ」

 春翔はキャリーケースをホームに立てて腕を組む。

「クッ! なんということだ、何も言わずに去る方がライバルらしいと思っていたのに……。これでは数年後、本場キューバで鍛えたピッチングで貴様を打たせて取るという俺の計画が水の泡ではないかッ!」

 輝は、久しぶりに会う春翔がいつもどおりなことに少し安心した。

「紅くん、僕は……」

 輝より、春翔の奥にいた女性の声が大きかった。

「ふむ……。春翔、この少年が貴様の言っていたライバルか?」

 びっくりして輝が見上げると、気品ある顔立ちの鋭い眼があった。

「ああ、これがわがライバル、白星 輝だ」

 春翔の紹介に、女性が軽く会釈して長い髪を揺らす。

「春翔の母だ。春翔が世話になった」

「あ……。はい、こちらこそ」

 背が高く、春翔以上に真顔でいると凄みがあるので、輝はかしこまるどころか委縮してしまいそうだった。

「別れの挨拶は済んでいるんだろう。さ、行くぞ」

「あ、ああ……」

 荷物を引いて行こうとする二人に、輝は意を決して叫んだ。

「ま、待ってくださいっ!」

 ホームにいたまわりの人も振り返るような、輝にしては大きな声だった。

 春翔とその母も足を止める。

「紅くん……。僕と、勝負してよ!」

 唖然とした春翔は、答えるまでしばしの時間を要した。

「クク……。願ってもない! 貴様と再び戦える日が、まさかこんなにも早く来るとはなッ!」

「春翔、貴様……」

「頼む、これが最後だッ!」

 春翔が願い出ると、彼女は肩をすくめた。

「いいだろう。だが……思い残すなよ、必ず勝て!」

「ああッ! さあ、何で勝負する!?」

 輝は春翔に親指を立てる。

「指相撲で勝負しよう」

「指相撲だと……? ククク……クハハハハッ! 俺のもっとも得意とする種目じゃないか!」

 春翔は自分も親指を立て、右手を差し出す。

「桜田さんが言ってたルール、覚えてるよね。お互い、肘をつけてから始めよう」

「無論だ。この旅行鞄がちょうどいい台になる。行くぞッ!」

「うん!」

 互いに手を組むと、春翔が輝の指に目を留めた。

「貴様、そのテーピングはどうした?」

「特訓したんだ」

「特訓?」

「そう、紅くん……いや、僕の最大のライバルに勝つために」

「面白い、さすがはわがライバルッ! 手加減はいらないということだな!」

「全力を出し合おう。その上で、紅くんに勝ってみせる!」

 春翔は輝の今までにない気迫に触発される。

「俺もだッ! 貴様には絶対に負けられないんだッ!」

 プアァン! と通過電車が鳴らすクラクションは、示し合わさずとも試合開始の合図となった。


「カエちゃん、早く早く!」

「ま、待ってってば! 私、あなたみたいに体力ないんだから」

 地元の最寄り駅を進む碧木はいきおい先を急ぎがちになるので、桜田は見失わないようにするのがやっとだった。

「もう終わっちゃってたらどうするの!? 審判部としてちゃんと見届けないと!」

「はぁ、その時は、無効試合にして、もう一度やらせるわ……。はぁ、ルールのために審判がいるんじゃない、審判のためにルールがあるのよ……はぁ」

 酸欠なのか、桜田は自分でも何を言っているのかわからなくなりつつあった。

「あっ、あれそうだよ! カガヤキくんとハルショーくんだ!」

 エスカレーターで下りながら見える姿は、たしかに間違えようがなかった。

「そうね……。駅のホームでサムレスをする人はめったにいないからね……。ふぅ」

「てことは始まっちゃってる!? 早く早く~!」

「ま、待ちなさい! エスカレーターで走っちゃダメでしょ!」

 春翔の怒号は隣のホームまで届きそうなほどだった。

「うおおおおォッ!」

「あっ!」

 輝はすんでのところで春翔の攻撃をかわす。

「フフ……。指相撲では俺に一日の長がある。いくら貴様といえど、簡単には攻められまい!」

 碧木と桜田は、勝負の邪魔にならないよう自販機の陰に隠れて戦いの行方を見守っていた。

「うそ、あの天才カガヤキくんが押されてる!?」

「ええ、思った通りだわ……。白星くんは手加減なんてしていない。純粋に紅くんが強いのね」

「意外! ほかの大多数のスポーツは苦手なのにどうして……。あっ、もしかして!?」

 桜田はごくりと唾を飲み込む。

「そう……。あなたも覚えているはずだわ。彼、だれかれかまわず握手のフリして指相撲を挑むことによって、指相撲のスキルだけが異常に高まったのよ!」

「そんな! でもハルショーくんなら有り得る……!」

 春翔は余裕の笑みを浮かべる。

「灼熱と呼ばれる俺の親指、防げるかッ!」

「うっ!?」

 輝は初めての押さえ込みを受けた。

「1・2・3・4・5・6……ッ!」

「くっ!」

 締めつけられた指の痛みから力点を割り出し、輝はなんとか逃れる。

「あと四カウントで俺の勝ちだったなッ!」

「でも、まだ負けてないよ。九回裏だって、油断しちゃいけないんだ!」

「くッ、なにィッ!?」

 輝は軽いフィンガーワークでフェイントをかけ、春翔をダウンさせた。

「1・2・3・4・5・6・7……ッ!」

「はあッ!」

 春翔は持前の力を生かして、輝の追従を振り切る。

「そうよ、白星くん……特訓を思い出して! 力には頼っちゃダメ、技で勝負するの!」

 碧木が指を鳴らす。

「ああカエちゃん、あの時のアレだね!」

「ええ、あの時のあの特訓……。親指にマタタビをつけて、テバサキの猫パンチをかわす特訓で培ったその技よ!」

 春翔が輝に直球勝負をしかけた。

「倒し合いならこちらに分があるッ!」

「うわっ!」

「1・2・3・4・5・6・7・8・9……」

 碧木は見ていられず、目をつぶってしまう。

「あぁっ、もうダメだよっ!」

「よく見て碧木さん、抜け出したわ!」

 再び牽制し合っている今の状況に、碧木は胸をなでおろした。

「よかった……。もしかして、あの時の特訓の成果!?」

「きっとそうだわ。タイヤの下敷きにした親指を抜き出す、あの特訓の成果ね!」

「……貴様ら、さっきから何を騒いでいるんだ」

「うひゃあっ!」

 碧木は驚いて変な声を出したが、桜田は冷静に女性の特徴を分析した。

「もしかして、紅くんのお母さんですか……?」

「そうだ」

 二人とも、この人が例の話に出てきた変な人か……と思いながらも、アイコンタクトを交わしてポーカーフェイスを決め込んだ。

「あ、あたしたちは紅くんと白星くんの同級生でしてっ」

「ああ、制服でわかる……待て、ヤツらの様子がおかしいぞッ!」

 春翔の母は碧木に答えようとして、試合中の二人に目を奪われた。

「ぐおおおおおォッ……!」

「ああああああぁっ……!」

 なんと、二人は台にしていた鞄から離れ、せめぎ合いながらホーム内を移動しているではないか。

「ヒジが離れてるよ!? あれって反則じゃ……」

 桜田は碧木を制する。

「いえ……ジャッジは不要よ。おそらく、これはもう指相撲じゃないんだから」

「ど、どういうこと?」

「もはや、カウント数や反則など意味をもたないんだわ。お互いがお互いを勝者と見るか、敗者と見るかの戦いなの。だから、今はこの状況……いえ、彼ら自身が競技であり、ルールなのよ」

 春翔の母も、桜田に同意する。

「ああ、そういうことだ……」

 だから、どういうことなのってば? と碧木は聞けなかった。普段の自分と他人の立ち位置が逆になるなど、彼女自身の生涯を通じても稀に見ることだった。

「1・2・3・4・5・6・7……!」

 彼らは宙の上を。

「1・2・3・4・5・6・7・8・9……!」

 ベンチの上を。

「1・2・3・4・5・6・7・8……!」

 自販機の壁を台にして激闘を演じる。

「白星くん、負けないで!」

 碧木の願いも。

「あなたならやれるわ!」

 桜田の声援も。

「春翔! ……勝てッ!」

 母の命令も、彼らには聞こえなかった。

「1・2・3・4・5・6・7・8・9……!」

「1・2・3・4・5・6・7・8・9……!」

 突如、轟音が二人を包み込む。

「終わったわ……。ゲームセットよ」

 桜田の宣告に、碧木はうろたえる。

「えっ!? 電車の音で聞こえなかったよ! どっちが十までいったの!?」

 輝も春翔も、互いに手をつかんだまま、動こうとしない。

「それは、今はまだ彼らしか知らないわ」

 碧木は首を振る。

「あたし、どっちにも勝ってほしくないし、どっちにも負けてほしくない……」

「そう思えるのは、たぶんあなたが良い子だからね」

 ゆっくりと、一人の少年が左手を挙げる。

「勝ったのは……僕だっ!」

 輝の雄たけびは静かで、どことなく優しい響きがあり、彼らしかった。

「クッ……。負けたッ……。この俺が、指相撲で……」

 春翔が仰向けに横になると、輝も引っ張られて倒れてしまう。

「……また、負けて落ち込んでるの?」

「ああ。悪いか……」

 夏の夕空を見上げ、二人は言葉を交わす。

「悪くないよ。……負けて悔しいのも、勝って嬉しいのも、きっと僕たちが本気だからなんだね」

 春翔は苦笑する。

「ハッ、勝って嬉しいか……貴様からそんなセリフを聞けるとはな」

「うん。春翔くん、強かったよ」

「貴様もな、輝ッ!」

 勝負の名残りだった二人の右手は、いつの間にか握手に変わっていた。

「ごめんなさい、遅くなってしまって」

 階段から駆けつけてきたのは金城だった。

「せ、先生? どうしてここに……」

 輝が体を起こすと、碧木は説明しだす。

「先生にはね、証拠を持って来てもらったんだよ!」

「証拠だと……?」

 春翔の問いには桜田が答えた。

「あなた、前回も赤点だったから、今回のテストでも赤点取ったら転校させるって、お母さんに言われてたのよね?」

「なッ!? なぜそれを!?」

 赤面する春翔に、金城が手を合わせて謝る。

「申し訳ありません、紅くん。二人に、どうしても転校の理由を教えてほしいと頼まれてしまって……」

「そうそう、カエちゃんがいきなり、”審判部として、学校の試験が適正に行われているかジャッジする必要があるわ! 生徒会にも力を貸す義務があるんじゃなくて!?”って言うもんだからさぁ、あたしも仕方なく」

 今度は桜田の頬が紅潮した。

「そっ、そんな風には言ってないでしょ!?」

「桜田さん……?」

 桜田は輝の言いたいことを察したらしい。

「……私、先生のこと誤解してた。猫を被ってるなんて、審判のくせに公平さに欠けていたわね。反省するわ。先生は、うちの顧問にはもったいないくらい良い先生よ」

 碧木が無邪気に言う。

「あ、それって、あたしたちには猫に小判ってこと?」

 桜田の時間は一瞬静止したようだったが、やがて動きだした。

「どさくさに紛れて何言ってるの!? とにかく、証拠っていうのは紅くん、あなたが赤点じゃないって証拠よ!」

「なんだってッ!? 本当なのか!?」

 金城は持ってきた封筒から、今回の試験の問題用紙を取り出す。

「ここの印がついている問題なんですけどね。文を誤ってしまって、答えられない質問になっているんです。それで、この出題は無効になりました。ここで二点ですから、満点が九十八点となって平均点も下がり、平均点の半分である赤点も一点下がります。つまり、赤点ちょうどだった紅くんはここにあるように……」

 春翔は金城から、彼以外の生徒の名前が塗り消された、クラスの得点表を渡された。

「赤点じゃない、と……?」

「はい」

 部員たちから歓声があがった。

「よかったね、春翔くん!」

「ハルショーくん、赤点脱出おめでとう!」

「ルール無用のあなたが、今回ばかりはルールに救われたわね」

 春翔はうなずく。

「ああ、これで……!」

「待て、貴様ら」

 春翔の母は突き刺すように言った。

「くッ……」

 春翔をはじめ、周囲の空気が凍りつく。

「貴様ら、赤点を取る取らないで春翔の転校が決まるなどと、本気で思っているのか?」

 だれも、彼女に答えられなかった。

「思い違いも大概にしてくれ。私は、春翔も父親のいるところで家族一緒に暮らす方がいいと思っているから、こういうことを言っているんだぞ。子供のために最善のことをする。それが親の務めだ」

「それはそうだがッ……!」

 食い下がる春翔を、母は手で制する。

「今の環境で貴様がずっとたるんでいるようなら、キューバで父親に鍛えなおしてもらう約束だった……。そうだな?」

 何か言いたくても言葉が出てこない春翔の代わりに、輝が一歩進み出る。

「でも、春翔くんは……!」

 向けられていた手は、ぽん、と春翔の肩に置かれた。

「……しかし、今の戦いを見るに、貴様が鍛錬を怠っていないことがわかった。ライオンは自分の子をあえて谷底に落とすと聞く。今の厳しい環境ならば、ヤツも納得するだろう」

「それじゃあッ……!?」

 我が子に、母はふっと微笑む。

「良いライバルを持ったな、春翔」

「くゥッ……!」

 声にならない叫びを上げると、春翔は輝に鋭い眼を向けた。

「輝! 今回は敗北を喫したが、二度はないぞ! 必ず俺が勝つッ!」

「ううん。次も負けないよ!」

 力強くうなずいた輝は、もう勝利を恐れてはいなかった。

 敗北は人を強くする、と春翔に教えられたのだから。

 そんな輝に、春翔の右手が差し出される。

「えっ?」

「さあ、来い!」

 春翔の親指はすでにウォーミングアップを始めていた。

「……今やるの!?」

 驚愕する輝に、春翔は首をかしげた。

「明日まで待つ理由がどこにあるッ!? 来ないならこちらから行くぞッ!」

「うわああぁっ!」

「ま、待て! どこへ行く、わがライバルよッ!?」

 走って逃げ出す輝は、頭の中の前言を撤回した。

 やっぱり、平和が一番だよ!



 Extra Battle  新たなる強敵


「くッ……! 解せん! いったいどういうことだ!?」

「だから、これは整数Nが大きくなると自乗倍に増えていって……」

「待て! 貴様の手を借りては勝負にならないじゃないか!」

 春翔は数学の教科書を輝から奪い返す。

「俺は、何としてでも次のテストで貴様に勝たなければならないんだッ!」

 例の一件で春翔が赤点になったのは、輝が本気を出しすぎて九十八点満点を取ってしまったからだということに気づいてから、彼は勉強に躍起になっていた。

「う、うん。でもテストって夏休みが終わってからだよね」

「だからこそ、終業式の今日から始めるんだ。今から勉強して、次に九十九点以上を取れば貴様に勝てるッ!」

「そ、そうだね……」

 春翔が復唱する公式を耳にしながら、輝は運動部の練習風景を眺めていた。

 もし、春翔くんと出会わなかったら、僕はきっとあの中にいたんだろうなぁ。

 輝が求めていたものは、すべてではないにしても、今は自ら勝ち取っていた。

 それが彼の見つけた、戦うということの意味だった。

「白星くん! ついに来たわよ、審判の依頼!」

 めずらしく、桜田が息せき切って体育倉庫へ駆けてきた。

「えっ? 本当に?」

「ミス・ジャッジなんかじゃないわ、たしかにこの目で見たもの! ほら、あの人よ!」

 部員たちのもとに、一人の三年生が近づいてきた。

「久しぶりだね……。白星 輝くん」

 見た感じ好青年そうな先輩に、輝は覚えがなかった。

「えっと……。どこかで?」

 先輩は長い前髪を払う。

「忘れたとは言わせないよ。あの暑い夏の日、きみの放った満塁ホームランで、ぼくは野球への熱意を打ち砕かれた……」

 輝の中で、イメージが符合した。

「も、もしかして影川四中の……?」

「そう、黒峰 柊だよ」

 部活へ来た碧木が驚く。

「あれっ? 生徒会長様が、あたしたちの審判部に何かご用ですか?」

 すると、全員が驚いた。

「せ、生徒会長!?」

 桜田は勢いづく。

「生徒会長からじきじきに審判を頼まれるなんて、これはチャンスだわ! ぜひお願いします!」

「で、でもいったい何の審判を……」

 輝の嫌な予感は、黒峰の次の言葉で確信へと変貌を遂げた。

「決まっているさ。ぼくときみの勝負だよ!」

 春翔は勉強どころではなくなってしまう。

「な、何だとッ!? 輝を倒すのはこの俺だッ!」

「きみは黙っていたまえ」

 余裕のある笑みで、春翔はあしらわれる。

「もしかして会長……。できる人だとは思ってましたが、まさかうちのカガヤキくんに匹敵するほどの!?」

 碧木の質問には答えず、黒峰は輝に問い尋ねる。

「白星くん。きみの苦手なことは何だい?」

 桜田が意外そうにする。

「えっ? 白星くんにも苦手なことってあるの?」

「うん。たしか中学でひどいことやらかしてような……。あれは大惨事だったなぁ~」

 碧木の誹謗中傷にかまわず、輝は答えた。

「えっと……。歌は苦手で……あと、料理も」

「よろしい。ではそれで勝負しよう」

 桜田は手のひらを返した。

「こいつ……。ゲスだわ!」

 黒峰は自信満々だった。

「何とでも言うといいさ。ぼくは白星くんに勝ちさえすればいいんだからね」

「言わせておけば……。卑怯だぞ、わがライバルにそんな勝負を挑むとはッ!」

 熱くなる春翔と対照的に、黒峰は落ち着いていた。

「勝負を受けられないなら、こちらにも考えがあるよ。生徒会の全権力をもって、審判部の活動を妨害してみせるっ!」

「ちょっ……! なんでこんな人が生徒会長なの、碧木さん!?」

 碧木は頭に手を添える。

「いや~、うちの学校、部活に熱心すぎて、生徒会には興味ない人が多いみたいで……。ま、あたしが入れちゃうくらいだし。えへ」

 黒峰は輝に指を向ける。

「さあ、勝負を受けてくれるね?」

「む、無理です! ……うわっ!」

 逃げようとした輝は首根っこを桜田につかまれる。

「大丈夫よ、こんなゲスあなたの敵じゃないわ! サクッと勝って、公正とテバサキを擁護しましょう!」

 呼ばれて気づいたのか、ちょうど「にゃあ」と鳴き声が聞こえた。

「そ、そんなこと言ったって、僕は歌と料理は苦手で……」

 はたと桜田は気づいた。

「言われてみれば私、歌と料理のルールなんて知らなかったわ。これじゃ審判請け負えないじゃない!」

 黒峰が提案する。

「そうかい? ならばぼくの得意なテニスにしよう」

 テニスと聞いて、桜田の目は輝く。

「テニス!? やりましょう、いえ、やらせてください! うぅ……久しぶりにまともな審判ができる! 楽しみだなぁ!」

 黒峰が歩み去りながら伝える。

「勝負は二時間後だ。逃げないでおくれよ」

 迎えた二時間後、輝はいまだ納得がいかなかった。

「明日から夏休みなのに、どうしてこんなこと……」

 ピッ、と審判台から桜田が試し吹きする。

「ほら、始めるわよ。アップは済んだかしら?」

「おうッ! 特訓の成果を見せてやるッ!」

 試合はダブルスで、前衛を守る春翔は気合十分だった。

「ええ。でも気を抜かないで。白星くんほどじゃないにしても相手の実力は本物よ。たった二時間の付け焼刃なんだから、あなたの仕上がり次第で戦況は大きく傾く恐れがあるわ。いい? 絶対にルールは守るのよ!」

「ああ、もちろんだッ!」

「会長、お待たせしました~」

 相手のコートへ、サンバイザーにスコート姿の碧木が現れた。

「み、碧木さん!?」

「あなた、もしかして……」

 輝と桜田に、碧木はスマッシュのポーズで返事をする。

「会長と組むはずだった副会長が用事でね、急きょあたしが代打になったの! どう? 似合ってる?」

 媚びられたところで春翔には関係なかった。

「碧木よ、敵側に寝返るとは見損なったぞッ!」

 大げさに、碧木は辛そうにする。

「ごめんね……。私も生徒会の一員、権力には逆らえないの! お願い、勝ってあたしを解放して!」

「じゃあ、会長を妨害することね。そもそも、あなたテニスできるの?」

 碧木は桜田を見上げる。

「審判が八百長をそそのかしちゃダメだよ! ネットを使ってるんだから、バレーと同じでしょ!」

「……全然違うんだけど。せめてラケットは正しく使いなさいよ。嫌な予感がするわ」

「大丈夫だってば!」

 黒峰が柔軟体操を終える。

「役者もそろったことだし、そろそろ始めよう」

 コートとサーブが決まると、桜田はホイッスルをくわえた。

「試合開始よ!」

 サーブ権は黒峰側にある。

「カガヤキくん、ハルショーくん、あたしも全開でいくからね!」

 前衛である碧木の奥で、黒澤はボールを手に包んだ。

「白星くん……。きみにボロ負けしたあの日から、ぼくは野球をやめ、テニスを始めた。なぜだかわかるかい?」

「えっ……。どうしてですか?」

「野球と違って、テニスは髪も伸ばせてカッコイイ! それに個人競技で目立てるからさ!」

 桜田の黒峰に対する評価はすでに底辺だった。

「この人、今すぐ退場処分にしていいかしら」

「そ、そんな理由でテニスをやってるなんて……」

 輝はがっかりしていた。

 僕はあの時、負けて辛そうだったから、戦いが嫌になったのに……。

 やっぱり、勝負なんて。

「輝ッ! 耳を貸すなッ!」

「えっ……」

 前衛の春翔が輝に叫ぶ。

「ヤツは貴様を惑わそうとしているんだ! 勝つためにあらゆる手段をとる執念……侮れないものがある。本気の相手に、油断は禁物だッ!」

「う、うん! そうか、今までの話は僕を勝負に集中させないため……?」

 黒峰はにやりと笑った。

「へえ、気がつくとはなかなかだね。でも、目立ちたいのは本当だよ。このギャラリーはそのために呼んだんだからね」

 生徒会長ゆえの人脈か、コートの周りには運動部、文化部問わず人だかりができていた。

「白星くん! 気にしちゃダメよ! 人が多いってことは、それだけテバサキ……じゃなかった、審判部をアピールできるってことなんだから!」

 審判をしながらも、桜田の頭の中はテバサキでいっぱいらしい。

「そうだ、輝、試合を楽しめッ!」

「楽しむ……?」

 春翔は横顔で、不敵な笑みを輝に見せた。

「俺と貴様、ライバル同士で手を組み強敵と戦う……。こんなに面白いこと、楽しまずにいられるかッ!?」

 そうか。そうなんだ。

 僕は今、ひとりじゃない。

「わかったよ……。やってみる!」

 黒峰は左手を天に放つ。

「さて、ショーの時間だ! ……はあっ!」

 舞うように宙に浮かんだボールは、黒峰のラケットに打たれて爆発し、弾け飛んできた。

「来るぞッ!」

「うん!」

 一緒なら、どんな敵でも怖くない。

 戦いも勝利も敗北も、ぜんぶ意味のあることに変わるから。

 今なら言えるよ、春翔くん。

 君こそが、僕のライバルにふさわしいって!


(完)

(著者の私見を含むあとがきです)

























初めて公募の審査を通過した記念的作品。


この作品の制作コンセプトは「とにかく手を抜いて書く」。

実際一か月で書きました。


ひとつ前の作品はテーマ、伏線から設定までプロットを構築して

何回も前後関係を確認しながら書いて同じ賞に落ちたのに、


登場人物の名前も決めずに書き始め、一切書き直さず、

ほとんど下書き状態のこっちが審査を通るとは正直思いませんでした。


でも一生懸命"いいかげんに"書こうとしたところが、

主人公と共鳴していて良かったのかもしれないですね。


初めてネットに投稿することでも記念的であり、

思い入れがあってかなり好きな作品です。


読了されました方、いらっしゃいましたらありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 京アニは人物設定および舞台設定を評価したのだと思います。確かに、面白い設定でした。 [気になる点] 文庫本に直すと、170~200ページになる分量だと思います。その中で、ペース配分に問題…
2015/07/06 06:32 二経路で晒を勧めた者
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