一也の嫁
澪は、一也のために生まれてきた。
一也の嫁になるために生きている。その澪も今日で十六歳になった。一也の妻になるには決まり事があった。決まった身長を超えていないといけない。体重も髪の長さも目の形も、すべてが一也に釣り合わなければならない。澪はその基準を満たしていた。彼女は誰もが振り向くきれいな少女に育った。とりわけ美しいのはその声だった。澄んだ川のように、弾むような明るい声を誰もが誉めた。
一也と初めて会ったのは、澪の誕生日の日だった。
×××××
大学院生の一也は学校から戻ると、家の中にいる澪を見て驚いたが、すぐに顔を引き締めた。澪は制服姿で高校から直接、一也の家に来たところだった。澪は、一也のそばにかけ寄って手を差し出した。
「こんにちは、一也さん。わたしは澪です。今日、あなたの妻になります」
一也は無視して歩き出した。澪は慌てて後を追いかけた。
「待ってください」
「うるさいな、お前」
「ご、ごめんなさい」
一也は歩いて行ってしまった。その後ろ姿を澪はじっと見つめた。
×××××
それから二人が顔を合わせたのは儀式の時だった。
澪は純白の晴れ着姿で美しく頬はピンク色に染まり、恥ずかしそうに一也を見つめた。一也は、澪には目もくれなかった。婚姻届に印を押し二人は夫婦となったが、一也の顔は暗く怒っているように見えた。
その夜、澪は離れの寝室で待っていたが、一也は現れなかった。仕方なく澪は一人で眠った。
朝、目が覚めるとすずめが鳴いていた。それは庭から聞こえてきた。澪は隣を見たが一也はいなかった。着替えて母屋に行くと、一也と養母が食事をしていた。
「おはようございます」
「おはようございます。澪さん」
義母が鋭い声で言った。
「さっさと食べなさい」
「はい、お義母さん」
一也は味噌汁をすすっている。澪はいただきますと手を合わせ、お椀を手に取り味噌汁をすすった。
「あ、おいしい」
思わずにっこりと笑いかけたが、一也の顔はぴくりとも動かなかった。
「これ、お義母さんが作ったのですか?」
「どうして私があなたのために食事を作らなくてはならないの?」
鼻で笑われる。
「そうですよね」
澪は苦笑して、明日からは一也さんのために朝食を作りますね、と伝えた。一也は無言だった。一也と義母は先に食事をすませると別々にいなくなった。澪はぼそぼそと朝食を食べた。食事をすませ、家の中を案内してもらおうと一也を探しに行った。今日は日曜日で学校が休みだ。
一也は本堂にいた。手を合わせてお祈りをしている。澪はそばに座って、真剣な横顔を見つめた。お祈りをすませた一也は何も言わずに立ち上がり本堂を出て行った。
「待って一也さん」
一也が立ち止まり振り向いた。
「何だ」
「やっと声が聞けた」
澪はほっと息をついた。
「夕べはどうして来てくれなかったの? 待っていたのに、裸で」
冗談を言うと、
「ガキには興味がないんだ」
と軽蔑したように言った。一也は今年、二十二歳になる。
「わたしはあなたの妻なのよ」
一也は大きくため息をついて背中を向けた。
「一也さん、待って」
「うるさい」
「ねえ、家の中を案内してよ」
「どうしてだ?」
「広いからよく分からなくて」
「だったら出歩くな」
「いいじゃない。少しくらい」
澪は一也の腕を強引に引いた。嫌がる一也を引っ張り、二人はいつの間にか庭へ出ていた。
「ここから庭へ出られるのね」
一也は何も言わない。
「わたしが嫌い?」
「お前は頭が悪いのか?」
「頭はいいよ。だって一也さんのお嫁さんになるために常にトップの成績をキープしていますから。家庭教師が二人もいたのよ。すごいでしょ」
「好きな男とかいるんだろ?」
「どうして? わたしはあなたのために生まれてきたのに」
一也の顔が険しく曇った。
「そういうのが鬱陶しいんだ」
「気にしなくていいよ。あなたは一也さんだもの」
瞬間、一也の目が鋭くなった。口を閉じて澪の横をすり抜けようとしたが、すかさずその腕をつかまえた。
「わたしの名前を呼んで」
「覚えていない」
「澪よ」
「澪さんっ」
突然、義母が現れた。
「お義母さん」
一也の腕を放すと、彼はどこかへ行ってしまった。
「あの……、なんでしょう」
「あなた、お祈りはすませたのですか?」
「はい、すませました」
嘘をついて、澪は一也を追った。義母のむっとした顔が見えたが、気にせず追いつくとその背中に呼びかけた。
「いいかげんにしてくれ」
「どうして?」
「鬱陶しいと言っただろう」
「あなたと仲良くなりたいの」
「俺は忙しいんだ。お前の相手はできない」
「わたしはあなたの奥さんなのよ」
「どうしてお前みたいなのが選ばれたんだ」
一也の不機嫌さはますます色を増していった。澪は一瞬言葉を失ったが、息を吸い込むと、
「だって、わたしはあなたのために生まれてきましたから」
と強く言い返した。
「俺は出かける」
「わたしも行っていい?」
「来るな」
一也は離れにある自分の部屋の方へ歩いて行った。澪はその場から動けなかった。
×××××
一也の家には、御神木がある。
沈みかける夕日を背に御神木は凛とそびえ立っていた。木の名前は分からないが、澪はその大きさに圧倒された。その木は悲しんでいるように見えた。一也が本堂から出て来た。
「一也さん、お帰りなさい」
「またか」
「ねえ、いつ帰っていたの? ずっと待っていたのに」
一也が離れへと歩いて行く。追いかけようとすると、本堂から出て来た義母に呼び止められた。
「澪さん、待ちなさい」
澪は去って行く一也に目をやりながら焦った。
「あなた、お祈りはしたの?」
「え……」
口ごもると、お祈りをしないと家に入れてやらないと言われた。
「でも…」
「でもじゃありません」
義母はぴしゃりと言い、澪の手を引いて本堂へ連れて行った。本堂には信者がたくさんいた。義母は澪を本堂へ押し込むとすぐにいなくなった。澪は、義母の姿が見えなくなったのを確かめてすぐにそこを出た。しかし、今戻ると抜け出したことがばれると思い、庭の方へ行ってみた。庭は薄暗くひっそりとしている。歩いているとハクモクレンの木に気が付いた。ハクモクレンは大好きな木だった。蕾がたくさんついている。暖かくなれば、美しい白い花が咲くだろう。澪は木の根元に腰を下ろした。幹にもたれながら、一也の事を思い浮かべた。しかし、彼の冷たい横顔しか思い浮かばなかった。
「今夜こそ笑顔が見たいな」
澪は呟いた。
その日も一也は寝室には現れなかった。
彼はどこで眠っているのだろう。疑問に思った澪は、一也を探しに行った。彼の部屋はすぐに見つかった。ノックしたが追い返された。
最近は目も合わせてくれなくなった。澪は悲しい時、決まってハクモクレンに会いに行った。話し相手がいないので、ハクモクレンに一也の事を話した。時々、母の事も思い出した。澪はやさしい母が大好きだった。ハクモクレンは母が好きな花で、蕾が開く頃になるとよく一緒に花を探しに行った。
日が暮れて辺りがすっかり暗くなると澪は体を起こした。体が冷たくなっている。
「そろそろ一也さんが大学から戻ってくるわ」
離れの玄関に戻ると、ちょうど、一也が靴を脱いでいるところだった。
「お帰りなさい」
一也は無言で自分の部屋に向かった。澪が部屋の中に入ろうとすると、
「入ってくるな」
と、冷たく言った。
「じゃあ、ここで待ってる」
澪は冷たい廊下にうずくまった。一也が再び出てくるのをじっと待ったが、いつまで待っても出て来ないので、中にいる彼に呼びかけた。
「ねえ、一也さん」
中は物音一つしない。
「声が聞きたいの。もう一週間もたつのに、あなたの声が聞けないなんて。大学と家の事で忙しいのは分かるけど、ちょっとくらいわたしの相手をしてくれてもいいでしょう?」
すると、突然、襖が開いて一也が現れた。
「どこに行くの? お腹すいたね」
一度、一也のために食事を作ろうとしたが、すぐに台所から追い出されてしまった。それから一度も台所に入った事はない。彼らの仕事を奪う事は許されなかった。
「聞いてよ。お料理は得意なのにお湯も沸かさせてもらえないの。わたしの手料理をあなたに食べてもらいたい」
そう言いながら一瞬、二人きりの生活を思い描いた。
「ねえ、一也さん―――」
一也は本堂に入って行った。澪は足を止めてそれを見送った。その時、若い女性が入り口付近でふらついているのに気が付いた。
「大丈夫?」
駆け寄って声をかけると女性が顔を上げた。澪はハッとした。目が見えないんだ。声をかけて手に触れていいか聞いた。女性はほっとした顔をした。
「ありがとうございます」
「どこへ行くの? 連れて行ってあげるよ」
女性の目は白く濁っていて、澪をじっと見て言った。
「地下へ行きたいの」
「地下?」
「ええ」
「本堂から地下へ降りられると聞いたの」
女性が言った。
「目を治してもらうの」
「目を?」
「ええ」
澪は顔をしかめた。そんなの嘘だ。彼女の目は取り替えない限り、見えるようにはならない。でも、無粋な事を言うつもりはなかった。
「いいわ。地下まで一緒に行ってあげる」
女性はありがとう、と言ってほほ笑んだ。澪は本堂の中に見知った信者の女がいるのに気がついた。女に地下へ行く道を聞くと、女は顔を強ばらせた。
「澪様。私がその方をご案内いたします」
「いいわ。わたしも地下に興味があるの」
女は一瞬むっとしたが、黙って案内してくれた。
「ここから降りるの?」
信者の女は頷いた。鉄の扉を開けて、澪は女性の手を握りしめ、ゆっくりと階段を降りた。進むにつれ、ひんやりした空気が流れてくる。泥臭い嫌な臭いがしてきた。後ろを歩く女性も顔を歪めていた。地下は洞窟のようになっていて、そこに白髪交じりの男がいすに座っていた。
「名前は?」
老人が言った。
「わたし?」
澪がきょとんとすると、老人は面倒くさげに首を振った。
「違う、あんたじゃない。その目の見えないお嬢さんだよ」
「私は相原奈美です」
老人は手元にあった紙に目を通して顔を上げた。
「中で待っておいで、明日儀式があるから」
「儀式って何ですか?」
澪が訊ねると、老人は一瞬押し黙り澪をじっと見つめた。
「あんたは誰だね?」
「わたしは澪です」
「知らんね。それにあんたには関係ない事だ。あんたは五体満足だろ?」
「はあ」
何せわたしは一也様のために育てられましたから、と心の中で皮肉を言ってしょんぼりした。その時、女性が地面に手をついて転んだ。
「大丈夫っ?」
澪は、女性の手を握って立たせた。
「ねえ、どこまで連れて行けばいいの?」
「この先に休む部屋がある」
「分かったわ」
澪は女性の手を握って壁伝いに奥に入った。奥に行くほど嫌な臭いは増してきた。
「何て臭い」
「生け贄を捧げているのよ」
「何ですって?」
澪はギョッとして女性を見た。
「何を言っているの?」
「生け贄が必要なの、神様には」
「え?」
「私が知っているのはそれだけ。神様が宿る木は食事をなさるんですって」
「何それ、わけが分からない」
「それで私の目も治してもらえるの。御神木に生け贄を捧げると、代わりに私に新しい目をくださるの」
「そんなの……」
絶対に嘘だ。
「目が見えるようになったら、結婚するの」
女性は幸せそうに言った。
「そうなんだ……」
女性の様子を見て、澪は胸が熱くなった。少し進むと、すぐに小屋が見えてきた。洞窟にぽつんと建っていて、女性は入り口で靴を脱いで中へ入って行った。
「見えるようになるといいね」
澪はそう言って立ち去った。来た道を戻ると老人が居眠りをしていた。
「ねえ」
肩を叩くと老人がどきりとしたように目を見開いた。
「な、何だ、あんたか」
「生け贄って何?」
「ん?」
「あの女の人は生け贄なの?」
老人の顔がこわばり、立ち上がると澪を追い立てた。
「子どもが来るところじゃないんだっ。出て行けっ」
「何よっ」
澪は地下から出るとドアに向かって舌を出た。
「生け贄……」
そうひとこと呟いた。
澪は、一也の部屋で帰りを待っていた。夜遅く、一也は戻って来た。澪を見るなり顔をしかめた。
「何やっている。風邪引くぞ」
「引かないよ」
澪は腰を上げた。
「お帰りなさい」
「さっさと寝ろ」
「ねえ、生け贄って何?」
「何だと?」
一也が足を止めて、澪を見た。
「生け贄の女の人に出会ったわ」
とたん、一也は口を真横に結び部屋の中に入ろうとした。澪が割り込もうとすると、入るなと冷たく言い捨てた。澪はびくっとしたが、かまわず中に入った。部屋の中は整然としていて、本がたくさんあった。
「すごい本だ。一也さん本を読むんだ」
「聞こえなかったのか? 出て行けと言ったんだ」
背後で一也がいらいらしたように言った。澪は一也を見た。
「生け贄って何なの? 答えてくれないと出て行かない」
その時、パンッと音がした。持っていた本が床に落ち、澪は目を見開いて頬を押さえた。
「どうして叩くの?」
澪の目に涙が滲んだ。一也は手を震わせている。
「二度とこの部屋に入るな」
一也が澪の腕を強引につかんで部屋から追い出した。閉まった襖を頬を押さえたまま見つめていたが、とぼとぼと歩き出した。澪は、再び地下へ下りて行った。
「おじいさん」
老人は鼾をかいて眠っていた。
「ねえ、生け贄の話を教えて」
「ん…? また、あんたか……」
老人は目をこすってあくびをした。腕時計を見て顔をしかめる。
「さっさと寝ろ。学校があるんだろう?」
「生け贄について教えて」
「ダメだ。子どもに教えられるか」
老人はふんと顔を背けた。澪は老人の足もとに座り込んだ。
「教えてくれるまでここを動かない」
「勝手にしろ」
老人は言ったが、自分を見上げる澪の顔を見て落ち着かない気持ちになった。
「分かった。教えるから見るのをやめてくれ」
澪はにっこりと笑った。
「生け贄って何?」
「……生け贄と言うのは、御神木の肥料の事だ」
「肥料?」
「そうだ」
老人はため息をついた。
「もう何百年も続いている。肥料になる人間は処女で体に欠陥のある女だけだ」
「何て事……」
澪は青ざめて口を押さえた。
「神様だって飯を食わんと大きくならんだろ」
老人は自嘲気味に笑った。
「別に肥料たって砕いて水に溶かすわけじゃない。女たちは御神木の根元でただ死ぬのを待つだけだ」
何も食べずに水もなくひっそりと一人で肥料になれるのを待つ。そして、肥料は年に二回与えられる。いくら御神木でも消化不良を起こして枯れてしまうと大変だからな。春先の満月の夜と秋の彼岸頃の満月に生け贄を捧げるんだ。
その話を聞いて思わず吐きそうになった。
「大丈夫か?」
澪は力なく首を振った。
「教えてくれてありがとう」
重たい足を動かして地上へ出ると空を見上げた。
丸い月が白く輝いて見えた。
「一也さん……」
澪はその足で一也の寝ている部屋に向かった。襖を開けて中に忍び込むと、一也の顔が月明かりに照らされて見えた。一也は眠っている。澪はそばに寄った。ふとんをめくり体を滑り込ませると、一也がびくっとして目を覚ました。
「な、何をやっているんだ、お前は」
澪は一也の体にすがりついた。
「一緒に寝てもいいでしょう?」
澪の足は氷みたいに冷たかった。
「お前の足冷たいぞ」
「廊下が冷たかったの」
澪は口をすぼめて言い、もぞもぞと一也の胸にしがみついた。一也はため息をついた。
「疲れているんだ」
「知ってる」
「出て行かないと無理やり追い出すぞ」
「どんな事をされてもわたしはここを動かないから」
澪は頑なに言い張った。
「勝手にしろ」
一也は本当に疲れているようだった。目をしょぼしょぼさせて、
「どうせお前は追い出そうとしても無駄なんだろうな」
と呆れたように言った。
澪はドキッとした。
「う、うん……」
一也の顔をひたすら眺めた。
「あったかい……。一也さん、あったかいね」
「早く寝ろよ」
その時、白い息がぱっと散らばった。
「寒いわけだ」
澪は肩をすくめた。
「ねえ、一也さん」
「何だ……」
「抱きしめてよ」
「嫌だ」
冷たい言葉に返す言葉がない。
「お前……」
不意に一也の声がした。一也が澪を見つめていた。
「な、何?」
一也はいきなり手を伸ばすと、澪の頬に触れた。
「殴って悪かった」
指先が澪の頬をなぞる。澪は息ができなかった。
「ううん……」
首を振りながら、泣きそうになった。
「あのね、一也さん、わたし……」
何か言おうとすると、一也は突然背を向けた。怒らせたのだろうか。澪は不安でたまらず、触れていた手を離して黙り込んだ。しばらく動けずにいると一也の呼吸が耳に届いた。
「眠ったの?」
返事はなかった。澪は一也の顔をよく見ようとしたが、月が翳ったのか暗くて顔をよく見ることはできなかった。
「一也さん……」
呼びかけながら、彼が本当に眠ってしまった事を知って涙が出た。
「信じないかもしれないけど、ずっと好きだったのよ」
澪はそっと一也の胸に頭を乗せた。涙が着物に染み込んでいった。
「小さい頃からずっとあなたが好きだったの。だから、あなたと結婚できてわたしはとても幸せなの」
言いながら涙が零れた。
「一也さん」
何度も名前を呼んだ後、澪は押し黙った。ふとんを抜け出し、一也の寝顔を見つめ彼の頬に手をあてた。温かくとても柔らかい頬だった。
「好きです」
澪は部屋を出た。そして、再び地下へ降りた。眠っている老人のそばを通り抜け、足を忍ばせて小屋の前に立ち、中に呼びかけた。
「奈美さん」
女性の名前を何度か呼ぶと、部屋の戸が開いた。
「誰?」
女性は不安そうな顔をしていた。澪は草履を脱いだ。
「入ってもいい?」
「あなたはさっきの女の子ね」
「うん」
部屋の中は殺風景で何もない。
「眠っているところをごめんね」
「いいわよ。今、何時なの?」
澪には答えられなかった。澪は時間を確認せずに来た。
「分からない」
「そう」
女性は気にした様子もなくふとんに入った。
「寒いわね」
「そうだね」
澪は女性の傍らに寄り添い囁いた。
「信者の人から伝言を預かったの。この部屋は生け贄の部屋であなたの部屋は上の本堂にあるそうよ」
「えっ」
女性は飛び起きた。
「大変っ」
すぐに飛び出そうとする女性を澪が止めた。
「大丈夫よ。まだ、間に合うから」
そう言うと、彼女はほっとした顔をした。
「ありがとう。あなたが来なかったらどんな事になっていたか」
女性は澪の方へ手を伸ばした。
「朝一番にここを出るわ」
「それがいいわ」
澪は、ねえと小さな声で言った。
「一緒に眠ってもいい?」
「え? いいわよ」
澪がふとんの中に潜り込むと女性は薄く笑った。
「どうしたの? 寂しいの?」
「え?」
澪はドキッとして、うんと小さく頷いた。女性は澪の髪をやさしく撫でてくれた。
「あなたには光があるでしょう。私に光はない、いつも暗闇があるだけ。でも、あの人の声が聞けるから私は幸せなの」
「うらやましいな。わたしも好きな人に愛されたいな」
「あなたが望むならきっと叶うわ」
彼女はそう言ってほほ笑むと、目を閉じて深い眠りについた。澪は女性にすがりつくとじっと息を殺していた。夜が明ける前に彼女をここから連れ出さなくてはならない。しかし、地下にあるこの部屋に朝日が差し込むわけでもなく澪はハッとした。そして気持ちよさそうに眠っている女性を見て、もう少しだけ眠らせてあげようと思った。
あと少し、もう少しだけ。それから少しして、澪は女性を起こした。
「早く、手遅れにならないうちに本堂へ行って」
女性は壁伝いに上ヘ向かった。
どうか、彼女が逃げられますように。
澪は祈った。




