第八話 邪魔者
まだモーネが幼く、両親が健在だった頃。
西陽の差し込む、生暖かい午後。ブランケットやらぬいぐるみやらが散らかっている。疲れた様子の母が、ほつれた髪を耳にかけ直す。扉からモーネが覗いているのに気が付き、表情を和らげた。
「もう大丈夫だから入っておいで」
幼いモーネは部屋に入るなり抱きつき、母は頭をよしよしと撫でてくれた。すぐに父が入ってきて、いたわるように肩を優しく叩く。
「ジンノは落ち着いたかい?」
「ええ、疲れて眠ってしまったわ」
「きみにばかり苦労を掛けてすまない……。私では余計に泣かれてしまって」
「仕方がないわ。もう少ししたら父親のあなたの顔にも慣れるでしょう。眠っていたらこんなに可愛いのにねえ」
そう言ってまたモーネの頭を撫でた。
母の視線の先に映っているのは、暴れ疲れて眠ってしまった赤ん坊だった。緩んだ口から涎を垂らしすやすやと寝息を立てている。こちらがどんな酷い目に遭っているか知りもせずに。
モーネは弟のことを一度たりともかわいいと思ったことがない。
モーネは元々大して明るい子どもではなかった。しかし、人並に子供らしさはあった。
母親が趣味の庭仕事をすればその周りで花や虫を愛で、部屋では読書や人形遊びをした。父親が早く帰ると、足元にまとわりついて甘えに行った。幼い少女らしく、かわいいものもきらきらしたものも好きだった。それらを身に着けるのではなく、宝箱に大事にしまって、そっと眺めていた。
引っ込み思案だが決して無口ではなく、見たこと聞いたこと思ったことを喋って、時折はにかんだように笑う、そんな子供だった。
あの弟が生まれてくるまでは。
弟は、モーネが六歳の時に生まれた。
自分に弟が出来るなんて、不思議な感覚だった。親戚や近所の子供たちを見ている限り、きょうだいとは、良いこともあり、悪いこともあるらしいとは知っていた。赤ん坊や、小さい子どもがよちよち歩いているのを見て、かわいいなと思うことも当然あった。
とても待ち遠しかったかと訊かれればそうでもないが、だからといって欲しくなかったわけでもない。母親の出産が近づけば、なんとなくそわそわし、まだ空の揺りかごを意味もなく揺らしてみたりしたものだ。
まさか自分の人生がこんなに狂わされることになるとは、思ってもみなかった。
生まれた赤子はとんでもない力を持っていた。
初めてその光景を目にした時の感情を、モーネは今でも忘れていない。
穏やかな昼下がり。揺りかごの中で眠る赤子。母親が部屋を少し離れた時に、それは起こった。
小さな泣き声が聞こえ、モーネは揺りかごを覗き込んだ。
まだ生まれて数日で、子供が抱き上げるには赤子はか細すぎ、あやしてやる術もなかった。せいぜい揺りかごを揺らしてやるのが関の山で、母が戻って来るのを待つつもりだった。
最初は空耳かと思った。
だが次第にカタカタカタと、何かが小刻みに震えるような音がし、それはだんだん大きくなる。テーブルの上の花瓶と水差しだと判った時には、それらが壁に向かって飛んでいく瞬間だった。陶器とガラスの割れる音、モーネの悲鳴とで、慌てて母親が駆けつける。
本棚が揺れ始め、母はモーネを近くへ呼び寄せた。急いで赤ん坊を抱き、モーネの手を引いて部屋から飛び出す。揺れてはいない、地震ではないようだった。
庭へと逃げて束の間ほっとしたが、移動で乱暴に揺らされた赤ん坊の泣き声はいよいよ大きくなった。あまりにも鼓膜に訴えかけるような声で、思わずモーネは耳を塞ぐ。そこへモーネ目掛けて鉢植えが飛んできた。それは額をかすめて、派手な音を立てて飛び散った。一瞬のことだ。
母親の悲鳴で若いメイドが飛んできて、モーネに駆け寄る。
何の前触れもなく飛んできた鉢植えを見て、母親はしばらく呆然としていた。
そして腕の中で泣き続ける赤子にハッとし、ようやく赤子をあやしはじめた。次第につんざくような泣き声は小さくなり、それと共にただならぬ気配も収まっていった。
モーネの額の切り傷をハンカチで抑えながら、メイドは震える声を絞りだした。
「この子は魔力持ちです、奥様」
午後の日差しのコントラストに、血の気の失せた母の顔。
腹が減っては泣く。眠たくなって泣く。母を求めて泣く。そして赤子が声を上げ、顔を真っ赤にして泣き始めると、部屋中の物が飛び回る。
そんなことが日常茶飯事に起こり、この現象は弟が泣き叫ぶことで起こるのだと確定するのにそう時間はかからなかった。
その後、若いメイドは突然暇を出された。母親が妊娠中でモーネに構えない間、世話を焼いたり一緒に遊んでくれた姉のような存在だった。会えなくなって悲しかった。
そしてクレイセン家の最大の課題は、この赤子の秘密を隠し通すこととなった。
お手伝いは減らされ、古参の不愛想な老婆だけになった。細々とした人付き合いも絶たれ、親戚の子どもと遊ぶ機会も無くなった。唯一、父の友人の息子が時折出入りしていたが、それも数えるほどだった。
いつも嵐をやり過ごすような感覚だった。
安全な部屋の隅で小さくなって、クッションで頭を覆い、身を縮こまらせて、ひたすらに過ぎ去るのを待つ。
形のあるものは壊れる。そんな当たり前のことが、酷く受け入れがたい日々だった。
ひとたび赤子が泣けば、ガラスと陶器は割れてしまう。モーネのお気に入りだった取っ手に細工のあるグラスも、棚の上に飾られた陶器の人形も、色ガラスの嵌った窓も。さすがにある程度重さのある家具などはよかったが、物という物が手当たり次第浮いては暴れた。ランプも本もぬいぐるみも、なんでも飛んできた。
対策として、赤子が泣き始めると母親は慌てて物のない部屋に閉じこもるようになった。しかし、赤子はいつ泣くかわからない。
「物があるところにいるから、物が壊れるんでしょう。なら何もないこの部屋に、ずっと閉じ込めておけばいいのに」
「ああ、モーネ。なんてことを言うの」
酷いことを言ったつもりはなかった。思いついたことをそのまま伝えた。だが母は酷く悲しそうな顔をして、モーネを抱きしめた。
弟のせいで狭くなっていく世界。奪われていく自由。
次第にモーネは、何かと弟に向けて棘のある言葉を放つようになった。しかし相手はまだ二、三歳の幼児。言葉にならない声をあうあうと上げているだけで、モーネの言葉を理解しているはずもなかった。
だがうっかりそれを母に聞かれると、やんわりと諫められた。
「あなたは女の子なんだから。優しくしてあげなきゃ」
「あなたはお姉さんなんだから。でももう少しの辛抱よ」
そう言われる度、モーネは強く反抗した。
「どうして?」
「どうして女の子だと弟に優しくしなきゃいけないの。どうしてお姉さんだと我慢しなくちゃいけないの」
母に悪気は無い、それはモーネもわかっていた。
母は滅入っていてもきつい言い方をすることはなかったし、いつも心配そうな、悲しそうな顔をした。わかっていたから辛かった。母も父も、モーネを大切に思っているのと同じくらいジンノを大切にしていた。どうしてそう思えるのかがわからなかった。
自分にとってジンノはまったく要らない存在だ。むしろ邪魔者で、消えて欲しいくらいだった。
母と父にとっては四人で暮らすことが幸せかもしれないが、モーネにはそうでなかった。弟などどこぞに捨てて、また三人の幸せな生活を取り戻したい。モーネの頭に過るのは、いつもそればかりだった。
泣いて、暴れて、物が飛んで。
疲れ果てて眠りについた幼子を、モーネは冷ややかな目で見下ろしていた。
三年経ったとはいえ、まだ小さな手、小さな足、小さな頭。家の中の惨状も知らず、いい気なものだと、いったい何度思っただろう。
この柔く、小さな生物。無力そうで、無害ではない生物。
窓から落とせば、壊れるだろうか。
「モーネ!」
駆けつけた時の母の顔が、ずっとずっと焼き付いて離れない。モーネは弟に手を伸ばしてもいなかった。抱きかかえたり、窓に向かってもいなかった。
ただその部屋に、眠った弟と二人で居ただけ。
その後モーネはしばらく母の顔が見れなかった。本当は自分がどうしたいのか、知られてしまった。考えていたことを全て見透かされたような気がした。
「あの子をよそへ預けようと思うの」
夜。不意に両親の部屋から聞こえた声に、モーネは足を止めた。扉の隙間から覗くと目に飛び込んできたのは、涙声の母と、それをなぐさめる父の姿だった。
「もう、限界よ……。これ以上二人を一緒にしておくのは気の毒だわ」
「でも私たちは家族だ。きょうだいを引き離すなんて。それに、あの子を親元から遠ざけるなんて。考え直そう、きっとわかってくれる」
「でもこのままじゃ……」
しめたと思った。
弟さえ居なくなれば。居なくなれば。居なくなれば。
「モーネはいつか、ジンノに危害を加えてしまう。そうなってからでは遅いのよ。ジンノは私たちの元を離れては生きていけない。だったら、モーネを」
頭に雷が走った。
心臓の音が聞こえてしまう前に。息を止めてその場を離れた。
さすがに涙が頬を伝った。
違った。
よそへやられるのは、自分の方だった。
母親は自分が危害を加えると言っていた。しかし危害ならとうの昔から加えられている。
お気に入りのもの、大事なものを壊された。母と父はジンノのことばかりで、自分なことなど見向きもしない。全て奪われた。挙句の果てに、ここからモーネを追い出そうとしている。
なぜ、自分が出ていかなければならないのか。
跡取りではない女だからか。年上だからか。
いつまで奪われ続けて、我慢し続けなければならないのか。
あの子が居る限り。この家に居る限り。
視線を感じて振り返ると、暗い廊下に小さな弟が立っていた。
黒い瞳、黒い髪。姿かたちばかり自分に似ていてぞっとする。自分より小さくか細い身体であるにも関わらず、得体の知れない不気味さが上回った。嫌われていることを察しているのか、弟からモーネに関わって来ることはなかった。まだ幼子だが、喋っているのをろくに聞いたことがない。
何を思っているのか。何を考えているのか。追い出されるのがモーネだと知って、内心ほくそ笑んでいるのか。
化物だ。
これは幼子の皮を被り、モーネの幸せを奪いにやって来た化物なのだ。父と母はそのことにまだ気が付いていない。完全に篭絡されてしまって、もう目を覚まさせることは出来ないかもしれない。モーネが何を訴えても無駄だ。モーネが悪者にされ、この家から追い出される。
先にここに居たのは自分だ。そんな不条理が、許されていいはずがない。
この、化物め。
それからモーネはあまり喋らなくなった。
喋れば両親に嫌われてしまう、家を追い出すきっかけにされてしまう、そう思った。次第に、笑顔も消えた。
何も楽しいと思えない日々が鬱々と続いた。
その少し後。モーネ十歳、弟四歳の時。
両親が亡くなり、屋敷に弟と共に取り残された。深い悲しみと、寂しさと心細さがまだ幼いモーネを襲った。母が居なくなり泣き叫ぶ弟を、モーネは何もない部屋に鍵をかけ、閉じ込めてやり過ごした。そしてそれが落ち着くと、この先どう暮らしていくかの不安より、真っ先にやらなければならないことがわかった。
弟、ジンノを魔力持ちとして通報すること。
最後の日、自分がどんな顔をしていたか、そして弟がどんな顔をしていたかもわからない。ただどちらも酷く落ち着いていて、自分は悲しいはずがなかったし、弟は大人しく連れていかれた。今思えば、何もわからなかったのだろう。
帝国に連行されれば、魔力持ちとして生涯帝国に仕える身となるが、衣食住は保証され、魔力を制御する術を授けてくれるという。なぜ両親がもっと早くにそうしなかったのか、モーネはずっと疑問だった。息子と共に暮らしたいという傲慢な考えで、弟の人生を、なによりモーネの人生を滅茶苦茶にされた気分だった。
これでやっと邪魔者は居なくなった。気持ちがひどく軽くなったのを覚えている。
しかし、一緒に居たかった母も父も、もう居ない。
もっと一緒に居て欲しかった、もっと甘えたかった。でもあの二人は弟を他所にやってはくれなかった。モーネがそれを望んでいることを知りながら、あろうことか自分を他所へやろうと考えたことさえあった。
弟は居なくなった。でも奪われた大事なものも、大事な時間も、戻ってくるはずもない。
そして、自分は一人きりだ。
やり場のない憎しみと怒りと、悲しみと寂しさを抱え、小さな身体を折って両親の寝台にうずくまるしかなかった。




