第十九話 撤退
そうしていたのはどれくらいだったか。
刹那のようで、永遠のようでもある。では後者だ、このまま時が止まってしまえばいい。
ついさっきまで絶望の淵に居たのに、今はこんなに満たされている。こんなことがあるのだろうか。
「フリッツ、時と場合を考えて」
突如振ってきた声に、フリッツは目を瞬かせた。
腕の中のルーウィンのものではない。彼女はばつが悪そうに苦笑する。
ルーウィンの視線の先を追うと、屋根の上にモーネが立っていた。
「うえっ、えっ、えええ! モーネ! えっ、いつからそこに?」
「最初からずっと」
顔を真っ赤にして距離を置くフリッツと、いつものように淡々と答えるモーネ。それを見て、ルーウィンは微笑む。
「モーネがここまで連れてきてくれたの。あんたが連れ去られて、戦いも起こるって知らせてくれた。巻き込まれるかもしれないって」
「モーネが、って……マティオスとかじゃないの? 二人で?」
ルーウィンが目の前に現れたことがただ嬉しく、どうやって彼女がここまでやって来たかを今初めて不思議に思ったフリッツだった。
「別。あの人たちも来てる。けどここに居るのは知らない」
「なんて無茶を……」
そうなると、どこかしらで状況を知ったモーネが独断でルーウィンをここまで連れてきたということになる。なんの手引きも段取りもなしに。恐ろしい話だ。
そもそも弱り切ったルーウィンをこの戦場に連れてくること事態が無茶苦茶なので、それを今のマティオスが許すはずがない。
あっという間に青ざめたフリッツの気など知らずにモーネは淡々と言った。
「鐘が鳴ったから」
「……見つけてくれたんだね。鳴らしてよかったよ」
ブラックドラゴンが頭をぶつけてくれて良かった。
モーネの背後で大きく炎が舞った。ここで悠長に話し込んでいる暇はない。早く動かなければ煙と炎に巻かれてしまう。
「ともかく、ここから離れてマティオスたちが来てるなら合流しよう。帝国の兵士は苦手だけど、間違えてやられないようになんとかしなきゃ。モーネ、来た道覚えてる?」
モーネはこくりと頷いた。
モーネを先頭に、フリッツは力を使い果たしてしまったルーウィンを負ぶって走った。あまりにも軽くてぎょっとしたが、一刻も早くここから脱出し、何かあたたかくて美味しいものを食べさせてやりたいという気持ちになる。
夜が迫っている。戦いは終わったようで、駆けていくフリッツたちを邪魔する者はなかった。あちこちに転がる遺体から目を逸らす。この様子だと、おそらく帝国側の勝利だろう。漆黒竜団が勝つよりはずっといい。
モーネの背中を追って、フリッツは薄闇の中をひたすら走る。
その間、時と場所を考えてと、それもルーウィンではなくモーネに諭された事実がじわじわフリッツを苛むのだった。
モーネは来た経路をしっかりと覚えていた。
見取り図を頭に入れていたこともあり、フリッツも自分で答え合わせをしながら進む。だんだんと出入り口の門に近づき、そしてついに強固な塀の外へと出た。少し離れた所に人や馬が集まっており、帝国軍が陣を敷いている。どうやって近づこうか慎重になっていると、一人の兵士がやって来た。
普段門兵をしている彼はマティオスの部下だった。見覚えのある顔が出てきてフリッツは安堵する。攻撃されることなく陣に近づき、そして迎え入れられた。
「フリッツくん! 無事で良かった!」
報せを受けたマティオスが飛んできた。フリッツの姿を見、表情を緩める。そして背後にルーウィンが居るのを見て驚いた。
「どうしてここに?」
「そう、ルーウィンが居るんだ。休ませられる?」
フリッツはそこで初めてルーウィンからの応答がないことに気が付いた。いつの間にか気を失っていたのかと真っ青になる。マティオスが様子を見、フリッツを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、眠ってるだけだ」
「あんなに走って来たのに……」
揺れる背中でよくも眠れたものだ。それだけ消耗していたということなのだろう。
「きみに会えて安心したか、よほど居心地が良かったんじゃないかな。実はそのあたりでうろうろしているジベタリュウを保護してね。誰か来ているとは思ってたけど、まさか……」
「モーネが連れてきてくれたんだ」
「モーネだって? どこに居るんだい?」
フリッツは目を瞬かせた。慌てて辺りを見回すが、兵士たちの中にモーネの姿はない。
「さっきまで一緒だったのに! 門を出るところまでは絶対に!」
「モーネ、負傷は?」
「してない。大鎌も持ってる、ピンピンしてた。ここまでぼくたちを先導してくれて」
マティオスは考えるような顔をしたが、それも一瞬のことだった。
「とにかく、フリッツくんはルーウィンちゃんの傍にいて。モーネのことは心配しなくていい」
マティオスは兵士を呼び、フリッツはようやく背中からルーウィンを降ろした。担架に身を横たえた彼女は穏やかな寝顔で、フリッツは心底安堵する。同時に、今まで気にならなかった疲労がどっと湧き、身体が泥のように重くなった。ルーウィンの安全を確保したことで、次第に頭が落ち着いてくる。
何か大事なことを忘れている。
自分がここまで迷わずに外を目指せたのは何故だったか。
「待って! まだマナが居る! 捕まってるんだ、助けないと!」
今の今までマナのことを思い出せずにいた薄情さに、フリッツは自分を強く恥じた。
ルーウィンと会えたことが嬉しくて、外に連れ出すことに必死で、あれだけ良くしてくれたマナのことなどこれっぽっちも思い出せずにいたとは。
血相を変えたフリッツに、マティオスは眉をひそめた。
「それは誰なんだい?」
「本拠地で会ったんだ。ずっと漆黒竜団に捕まってる! 燃えてる建物もあるし、助けに」
踵を返そうとしたフリッツの腕を、マティオスは強く掴んだ。
「許可できない」
「どうして!」
思わず声を荒げたフリッツにもマティオスは動じない。
「自分を見てごらん、いくつも傷がある。ずいぶん消耗しているはずだ、そんなことにも気づかないのかい? それに今はルーウィンちゃんが先だろう。きみは彼女についていてほしい」
「でも……」
「その子のことは諦めてくれ」
容赦ない言葉にフリッツは固まる。まさかそんなふうに言われるとは。
「もう暗い。じき夜が来る」
マティオスは小さく息を吐いた。
「捜索に割くだけの手勢も余裕もどこにも無い。正直モーネや、もっと言うとラクトスくんすら捜せずにいる。おれはここで指揮を執りながら二人が無事に帰るのを待つことしか出来ない。その上やっと戻ってきてくれたきみまで居なくなったらと思うと……ここまで来たのに、おれはきみを捜しに行くことすら出来なかった」
最後の言葉にはっとして、フリッツは顔を上げる。
戦装束を纏っているマティオスは一見凛々しく思えるが、その瞳には緊張や不安や疲弊、自身への不甲斐なさなどが見え隠れしていた。
マティオスの今置かれている状況を察するにはそれで十分だった。しかし、まだ食い下がりたい自分の気持ちに嘘はつけない。
「きみには悪いが、もっと言ってしまうと」
フリッツが諦めきれずにいるのをわかってか、マティオスは続けた。
「まだアーサー=ロズベラーが出てきていない。彼が姿を見せなかったからこそ、帝国軍はこの程度の損失で済んでいる。だが、油断ならない。撤退の用意をしつつ、警戒も続けなければ」
さすがのマティオスだった。
フリッツに諦めさせるための要素を、これでもかと出してきた。特にアーサーの件は、フリッツが早々に諦めれば言うつもりはなかったのだろう。全てを言わせてしまったのはフリッツだ。
「わかってくれるね」
気づかわしくかけられた言葉を、撥ね退けることは出来なかった。だんだん自分が酷いわがままを言っているような気さえしてくる。
フリッツが漆黒竜団本拠地にマナを捜しに戻ることはなかった。
慌ただしく働く衛生兵たちを横目に、穏やかな寝息を立てるルーウィンの傍にずっとついていた。
「おーい、ジンノくーん。ここ、ここだよー!」
瓦礫の陰から見える細い腕が、軽快かつ豪快にぶんぶんと振られている。
大事無いのをみとめてほっとしたが、繊細なラインは肩まで丸見えで、さすがのジンノもぎょっとする。ひょこっと出てきた愛らしい顔に、有無を言わさずマントを投げつけた。
「……アーサーの予想は当たった」
「さっすがアーサー、気が利く! でも来るのが遅かったね、あと働いてないな? だからわたしもこんなことになってるんだけど」
シアは一糸纏わぬ姿でそこに居た。瓦礫を利用してその柔い肌を隠しているが、そのなんと危ういことか。
「……あれを使ったのか」
「そう。ミケは死体食べに行っちゃってお留守だったの。自分でどうにかするしかなくって。もう、この食いしん坊めっ!」
ミケはしゅんと項垂れる。だからこそ、ジンノの道案内はしっかりと果たしたのだろう。
ジンノはシアに背を向けて続けた。
「……どうして使った」
「昔のこと、ちょっと思い出しちゃって。あの服お気に入りだったのにな。もう見るも無惨、ビリビリになっちゃったよー」
上級補助魔法を使いこなすシアには、ヘキガンマダラドラゴンのミケという切り札だけでなく自身の最終手段があった。だがそれを使えば元の彼女に戻れる保証はなく、瀬戸際に追い詰められた時しか使われることはない。そこまで危険な状況でなかったことに安堵しつつ、未だシアが過去に囚われていることを憂う。
そしてシアに痺れを切らした。
「……早く羽織れ」
「これアーサーのよね、いいの? 後で不機嫌になったりしない?」
「……怒るぞ」
「ごめんなさぁい」
まったく反省した様子など見せず、シアはいそいそとマントを羽織る。
「あーあ、ついにやられちゃったねえ。案外あっけなかったな」
シアが呟き、ジンノと二人、荒れ果てた戦場を見渡す。
一部火の手が上がっていたが基本は石造りの建物が多いため、炎は屋根を舐めつくし鎮火に向かっている。逃げ出したブラックドラゴンが数匹暴れていたようだが、自由になった彼らはどこかへ飛び去ってしまった。遠目に人影が転がっているのが見える。少し歩けば団員と帝国兵士の死体がごろごろ出てくるだろう。
漆黒竜団は壊滅した。だがそれは、帝国軍の予想外に早い進軍が功を奏したものではない。
潮時だった。彼にとって、この組織はもう必要でなくなった。
ただそれだけのこと。
「……アーサーも出なかった」
「それだよねえ。これだけ何もしなかったのってやっぱり命令かな。これからどうしようね、とりあえずアーサーとルビアスを」
「見つけた」
聞き慣れない声に振り返ると、ジンノの首元に刃が光る。
シアは言葉を失った。背後を取られていることに全く気づけなかった。
膨大な力を持っているが故に危機察知はそこまで得意としていない二人ではある。だがそうでなくてもあまりにも気配が無い。何もかもが終わり静まり返った戦場跡で、瓦礫の影に紛れて何の違和感もなく、大鎌の女はそこに居た。
見たところ兵士ではない。だがこの佇まい、明らかに一般人ではあり得ない。
人の命を躊躇いなく奪えるはずだ。自分たちと同類の匂いがする。シアの周りで、ミケが低く唸る。
ひょろりとした体つきに黒い髪、黒い瞳は底がなく何を考えているか読めない。細腕には似つかわしくない大振りの鎌。そしてその刃は、今まさにジンノに向けられていた。
命を刈り取る死神、それを彷彿とさせる。
「……やるなら早くやれ」
ジンノは全く抵抗する素振りを見せず、シアは息を呑んだ。いつもなら速攻で雷撃を食らわせている頃合いだ。そこまで憔悴している様子はないのに、なぜ抵抗しないのか。
「ちょ、ちょっと待って!」
大鎌の女の視線が、ジンノからシアへと移る。だが刃はそのままで、あくまでも標的はジンノだ。
「ジンノくんに居なくなられると困る! わたしみたいなかわいこちゃん一人、しかも丸裸で残されても困るんだけど! ちゃんと守ってよ!」
死神ではなくジンノに向けた言葉だった。実際シアはかなり消耗しており、防御壁一つも張る余裕がない。
ジンノは薄い唇を開いた。
「……シアにはミケが居る」
「ばか! そういう問題じゃないでしょ! ジンノくんが居なくなったら嫌だって言ってるの!」
シアは金髪を揺らして抗議した。だがジンノの心に響いた手応えは無い。どうして反撃しないのかと、シアは次第に腹立たしく、同時に瞳が潤み始めた。
ふと、空気が変わる。
死神から満ち満ちていた殺気が一瞬にして解かれた。かと思えば、女は踵を返してさっさとその場から立ち去った。
自由になったジンノは雷撃を食らわせるでも相手を追うでもなく、根が張ったようにその場に立ち尽くした。
女が完全に行ってしまったのを見届け、シアはジンノに飛びついた。
「何あの人、怖っわ! いきなり襲ってくるとか野蛮すぎるよー」
自分のことは思い切り棚に上げてシアは肩を怒らせる。そしてなぜジンノは反撃しなかったのかと、怪訝そうに横顔を見詰めた。
相も変わらず、何を考えているのかわからない。寡黙で言葉の少ない彼だが、長く過ごしているうちになんとなく通じているような気がしていた。だがやはり、人の気持ちはわからないものだ。
特にこの無表情では。
「あ」
一つの可能性が浮かび、思わずシアは声を上げた。
「もしかしてあれ、ジンノくんのお姉さん……?」
その問いかけには答えず、ジンノは死神の去っていった方を見つめ続けた。
フリッツは寝かされているルーウィンの横についていた。
苦悶の表情はなく、規則正しい健やかな寝息を立てている。安堵しているからこそ、マナのことがずっと気になっていた。
マナはこの本拠地を知り尽くしているようだった。あれだけ地下通路を把握していれば、帝国の兵士に見つかることなくやり過ごせている可能性はある。だが地下に火の手が回っていたら? 身動きの取れない状況に置かれていたら?
帝国軍は着々と引き上げの準備をしており、今この場を離れられない。
マティオスにあんな顔をされたら、戻るとは言えないし、出来なかった。
鬱々とした考えが頭をもたげる。そのために、隣に立っている人影に気づかなかった。
「モーネ!」
さっきからずっと隣にいたような顔をして、モーネは眠るルーウィンを見ていた。
「どこに行ってたの? 突然居なくなったから心配したんだよ」
「ごめんなさい」
淡々と、素直に謝罪の意を伝えられ、フリッツも拍子抜けしてそれ以上は言えなくなる。
「ラクトスも帰って来た」
「本当?」
「あっちに居るのを見た。怒られてる」
「そっかあ。無事で良かった……」
モーネもラクトスも戻ってきた。
そうなると、心配なのはマナ一人だ。
「何か心配事」
モーネに顔を覗き込まれ、フリッツは力なく苦笑した。モーネは相変わらず表情が読めないが、最近は本当に人の機微がわかるようになってきたのだと実感する。
「いや、なんでもないよ……」
フリッツは心の声に蓋をした。
突如、モーネが勢いよく振り返る。スカートが宙をひらめき、何事かとフリッツも身をよじった。
「どうしたの?」
「見られてる気がした」
「いっぱい人がいるからね。ぼくたち兵士じゃないってわかるし、そのせいじゃない?」
だがモーネは少し高い位置を見上げている。
かなり向こうのほうにある、漆黒竜団の尖塔のようなものがあるが、それ以外は何もない。例えあの位置から矢や砲弾が飛んできたとしても、当たる範囲ではない。きっとモーネの気のせいだ。
引き上げの合図が鳴り響き、にわかに慌ただしくなる。近くの兵士から指示が出され、フリッツたちもそれに従った。
敗北した漆黒竜団。
その尖塔から、引き上げていく帝国軍を見つめる男が居た。
風にたなびくはずのマントは、今は無い。長く艶のある深緑の髪だけが風に攫われる。
アーサー=ロズベラーは黙って弟を見つめていた。




