第十六話 一つ目の望み
気が付くとジンノは抱きかかえられていた。
ほんの一瞬、意識が飛んでしまったらしい。
目を開けばアーサーの顔があった。向こうに空が見えており、塔の外に連れ出されたのだと知る。小柄な自分を運び出すのは造作もなかっただろう。
艶のある深く長い髪、精悍な面立ち。その瞳には自分の顔が映りこんでいた。
しばらく顔を合わせていなかっただけなのに、ずいぶん懐かしく感じる。同時に、酷く恨めしく腹立たしい。
「遅い!」
「すまなかった」
「すまないで済む話じゃない!」
ぐったりしていたのが嘘のように、ジンノはアーサーに向かって吠えた。
「無事で何より」
そう言われ、ジンノはぐっと言葉を呑む。しかしそこは珍しく絆されず、勢いを失くす前に言葉を続けた。
「あいつをここに連れてきたのはアーサーだろ。なのにどうして置いたまま居なくなるんだ。追い出す許可も、片づける許可も無い! あの胸糞悪い能無しにうろうろされて、いったい自分がどんな思いで……」
アーサーは少々面食らったように動かなかった。そして視線は、やや彷徨う。
「すまない」
「ずっとそれしか言わないつもりか」
鋭い視線を向けてもアーサーの瞳の奥は読み取れない。ジンノが身じろぐと、アーサーは地面にそっと降ろした。そこで初めてアーサーのマントが掛けられていたと知る。ジンノはふいと背を向けた。
「助けに来てくれたから許す。どうせ、それしか出来ない」
悔しいがそうするより他にない。ジンノは足元の地面を見詰めた。
鼻息の音で、ジンノは近くにブラックドラゴンが待機していることに気が付いた。アーサーが踏み出すと頭を深く下げ、その背に軽やかに飛び乗る。
「行くのか。闘いに」
「そのために私は居る」
アーサーがひとたび合図をすれば、ブラックドラゴンは翼を唸らせる。ジンノは慌てて抱えていたマントを差し出した。
「これ!」
砂埃が巻き起こり、上昇したかと思えばあっという間に居なくなってしまった。見えない残像に囚われたまま、マントを抱えしばしジンノは立ち尽くす。
そうしてどれだけの時が経ったのか、経っていないのか。
とにもかくにも、間が悪かった。
「おい」
人の気配はしていた。やって来たのは隊ではなく、たったの一人。身を潜めるでもこちらを伺うでもなく、横柄な声音と足取りだ。
黒髪を短く束ねた、目つきの悪い男。ローブと杖から、おそらく魔法使い。どこかで見たことがある顔だ。
「フリッツはどこだ。知ってんだろ?」
「……それが人にものを訊ねる態度か」
アーサーの弟の仲間だと判かり、ジンノは一気に白けた。
確か以前、シアと共にボコボコに倒してやったはずだ。それがどうだ、臆面もなくまた現れた。もしかすると気の毒なほど馬鹿なのかもしれない。
ちょうどいい。自分は今、虫の居所が良くない。
辺りの空気の匂いが変わる。ピリピリと、ドラゴンの舌のような、小さな閃きが踊りだす。不快感と共に、魔力が迸っていくのがわかる。
「……またやられに来たのか」
「教えてもらうには、やっぱりそうなるわな」
杖を肩に担いだラクトスは、不敵にニィと笑ってみせた。
「……雷?」
背後の落雷の気配に、フリッツは思わず足を止めた。
またジンノが闘っているのだろうか。先ほどの襲撃で無事だったということだ。少しほっとしたが、あの雷撃に誰かが狙われているかと思うと気が気でない。ラクトスやマティオスに来ていて欲しいが、絶対にジンノには遭遇してはならないと思う。
最初に北大陸に上陸し、シアとジンノに完膚なきまで洗礼を受けた。魔法についてはからっきしのフリッツでも、ラクトスの様子を見ていればジンノがどれほどの脅威であるかがわかる。
塔では何度も気絶させられた。何度も何度も。何一つ得るものもないまま。
ただ一点、気になることがあった。一度だけ、くしゃみと共に周囲に光が走ったことがあったのだ。
あれはいったい何だったのか。その後すぐに気絶してしまったが。
フリッツは首を振った。今はそんなことを考えている暇はない。
目の前には、本拠地の中でも本館と思われる建物。その屋根は少し離れたところにある。下に降りれば誰かに見つかったり、交戦に巻き込まれる可能性があるため、ここを跳んで渡ってしまうのが一番手っ取り早い。そもそもバルコニーらしきものがなく、屋根から下に降りるのもかなり難儀しそうだった。
足元と向こう岸を見やる。自分の身長の倍ほどの距離。跳べる長さか。渡り切れるか。希望的観測から、目測を誤っていやしないか。人は土壇場で危険な判断を選択しがちだ。
ふと思う。
ルーウィンなら。猫のようにしなやかな身のこなしと軽やかな跳躍で、こんな距離はなんなく跳んでいく。大したことなかったわねと言って、鮮やかな髪をなびかせて、きっと笑う。
フリッツは退いた。こちらの足場は悪くない。問題は着地する向こう側。
勇気と無茶を履き違えてはいけない。でも、今は。
息を吸って、助走をつけた。
「参ったな」
帝国軍の兵士たちの前には、幾つかの死体が折り重なっていた。
いずれも絶命している。甲冑も身に着けていなければ得物すら持っていない、いわゆる非戦闘員だ。戦闘員の衣食住を賄い、組織に隷属して生きていた者たち。それも先ほどまでの話だが。
「仕方がない。気分は良くないが、例外なく皆殺しと言われている。ここで暮らしているからには思想も沁みついているからな、帝国に連れて帰るわけにはいかんだろう。新たな火種になるとも限らない」
隊のリーダーが言うと、まだ若い兵士は青冷めた顔のまま口元を抑えた。
「彼らはろくに抵抗もしなかった。両手を上げて、動かなかった。それを武装した我々は……」
「住処を失って逆恨みされるかもしれないぜ? こんなろくでもない場所で生かされていたやつらだ、連れて帰っても何にもならない。あまり深く考えるなよ。おれたちは漆黒竜団を潰しに来た。潰すってことは、こういうことだ」
同僚の兵士が肩を叩く。直後、青い兵士は廊下の隅に駆け、その場で吐いた。それを見た兵士たちは、肩をすくめたりため息をついたりして顔を見合わせる。
「ミケー? どこに居るのー?」
凄惨な現場には似合わない、愛らしくも間延びした声が、響く。
兵士たちは一瞬身を強張らせた。引き続きの、非戦闘員。こちらに命の危険はないが、心を非情にしなくてはならない。嫌な仕事だ。本来ならどれだけ金を詰まれてもやりたくはない仕事だが、彼らは今、武装してこうしてここに居る。
「もー! あちこちにおやつが転がり出したからってこんな時に飛んでいっちゃうなんて信じられない! 万が一、か弱いわたしに何かあったら……」
廊下の角から、その姿が現れる。
輝く金の髪、宝石と見紛う青い瞳。この場にそぐわぬふわりとした装いに包まれた繊細な身体、軽やかな靴と足取り。童話の中から出てきたような佇まいは、愛らしさと美しさに満ち満ちていた。
そこに在る、死体の山と帝国軍の兵士を見るまでは。
場違いも甚だしい少女を見つけ、兵士の一人が吐き捨てた。
「ちっ、いいご身分だな。隊長、どうします? ずいぶん上玉ですよ」
「幹部が囲っている女だろう。彼女に罪はない。しかし、残念だが……」
先ほどまで吐いていた若い兵士が、よろけながらも隊長の前に立ち塞がった。
「こ、こんな無害な少女まで殺めるおつもりですか! 我々の剣はいったい何のために」
「だからお前はさがってろよ! だれも殺りたくて殺ってるわけじゃ」
兵士たちの口論の間、シアは影を縫い留められたようにそこに居た。
人が死んでいる。だらしなく、力無く伸びきった腕。何かに縋るように、助けを求めるように。重なりあっているのは弱い者同士が庇いあったのだろうか。皮肉なことに、下の方に圧し潰されている身体はひどく小さい。
人は嫌いだ、見た目で判断する愚かな生き物だ。今ここで転がっている死体とも、別に言葉を交わしたり挨拶したりする仲ではない。特に思い入れは無い。
だが、何か気に食わない。
口論は続いている。違う世界での出来事のように、何かを一つ隔てたところから聞こえる。
廊下に映る、シアの影が伸びる。縦に、あるいは横に。ミシミシと、体組織を突き破る音が響く。骨格が、皮膚が、そして。
咆哮。衝撃が、通路を波のように揺さぶる。
兵士たちは目を見張った。目の前に立ち塞がる巨大な影に、どうすることも出来なかった。
強大な捕食者を前にして、命は平等である。
フリッツを適当な屋根に置き去りにした後も、ルビアスはしばらく上空に留まっていた。
「さてさて。戦況は、と」
ディングリップ帝国が押している。予想外の奇襲で、漆黒竜団は明らかに乱されていた。いつも襲うばかりで、逆の立場になるという発想はないのだろうか。常に自分たちが狩る側で、狩られる側に回るなどとは思いもよらないのか。
いつも他人のものを踏み荒らすばかりの者に守りなど勤まらない。この場に、自分の命以上に守らなければならないものがある者は多くないだろう。命からがら逃げおおせたとしても、包囲している帝国軍に始末されるか、荒野のモンスターに狩られるだけだ。
ふと、憎悪が湧き起こる。
こんな矜持も何もない、力だけで抑圧された糞みたいな集団に。
ディングリップ帝国の奇襲の後、こんなにも早く新皇帝が動くのは確かに予想外だった。若いだけあって手が早い。血気盛んなのか、単に短気なのか。
いずれにせよ、自分以外の諜報要員を懐柔するのは容易かった。驚くほど拍子抜けに、事は進んだ。
「あら、ドラゴンたちが闊歩してる。やだぁ、地獄絵図じゃない」
竜舎が壊滅している。飼われているブラックドラゴンたちが自由に動き出したのだろう。ということは、シアが力を解放したのだと知れる。ルビアスが駆っている個体は特別にシアの力が注がれているが、他の個体は違う。力の象徴ドラゴンが誰に従うでもなく、自由に寝床から飛び出したことで現場は混戦を極めるだろう。そうなれば帝国軍の進退にも影響が出る。
まあ、どっちだっていい。なんならどっちも滅びてしまえ。
ルビアスは恍惚と眼下の光景を眺めた。
一部では火の手も上がっている。舞い上がる灰はまるで踊っているようだ。生きる拠点としていた場所が、崩れ落ちていく。つい昨日まで暮らしていた場所だ。
シアとジンノと、アーサーとで。
それらを俯瞰して、ルビアスはしばし黙り込んだ。
ふと、腰を折りうずくまる。
「……ハ」
こらえようとしても思わず漏れる。まだ早い。まだ終わったわけではない。
尚早だ。でも。
「……っ、あは! あはっ! アハハハ!」
思わず目の端に涙が溜まる。口元が歪むのを、どうすることも出来ない。沸き起こる感情に身を任せ、ルビアスは肚から声を出して笑った。
愉快で愉快でたまらない。
自分の恵まれていた人生を、幸福なはずだった未来を、滅茶苦茶に踏みにじった。
漆黒竜団。
これが報いだ。
「ざまあみろ」
一つ目の望みを叶え、ルビアスは両腕で自身を抱き、紅く満足げに微笑んだ。




