第十話 運命の出会い
「やっと確認がとれたよ」
ディングリップ帝国、フォーゼル邸にて。
執務室のソファに行儀悪く身を投げ出していたラクトスは、マティオスの声に顔を上げた。そして同時に身構える。
マティオスは深く執務椅子に腰かけると、疲れた表情で前髪を搔き上げた。
「先日の漆黒竜団による城の襲撃の際、一人の少年が攫われた。特徴からしてフリッツくんで間違いない。同じ日に城下で、馬車に乗り込んだところも目撃されている。おそらく城下でフリッツくんを攫ったのは皇帝だ。でもどうやら襲撃時に攫って行ったのはアーサー=ロズベラーらしい」
最も単純で最も最悪な予想が的中し、ラクトスは舌打ちする。
「それだけのことを確かめるのにずいぶん時間がかかったな?」
「箝口令を布かれた躾の良いメイドを口説き落とすのは骨が折れたよ……」
その事実が本当なら、ここでため息をつくどころでは済まされない。待っていただけのラクトスも、もたらされた報告に途方もない疲労感を覚えた。
「なぁ、これ偶然か?」
皇帝に攫われ、同日に漆黒竜団の襲撃、そこからまた攫われる。そんなことがあるだろうか。
「わからない。少なくとも、皇帝にとっては予想外だったはずだ。アーサー=ロズベラーにとっては、どうかわからないけれど。エルドが即位してからは漆黒竜団に通じていた者も動かなくなった。この時期にこんな大胆に仕掛けてくるなんて」
「ここで圧力をかけておきたかったんだろうが……このまま黙ってやられてるわけがない」
「早ければ数日で荒野の本拠地に向かうことになるだろうね」
ラクトスが予想していたより、決断と準備が早い。遅かれ早かれ、皇帝は元より漆黒竜団に攻め込むつもりだったはずだ。
「全面対決か」
「ああ。今回は避けられそうにない」
漆黒竜団側が先手を打った。ただそれだけのこと。
だが問題はフリッツだ。
アーサー=ロズベラー本人が攫ったというのが事実なら、フリッツの処遇はどう転ぶかわからない。血の繋がった弟を攫った目的は何なのか。無事でいるのか、あるいは逆鱗に触れ、もしくは生かす価値を見出されずすでに斬り捨てられているか。
「フリッツくんのこと、ティアラちゃんに何て言おうね。ルーウィンちゃんの容体も相変わらずだし……」
危機や困難は待ってはくれない。一つ降りかかり、それが解決するまで世の中の何もかもが時を待ってくれるわけではないのだ。
そうだとしても、これはないだろう。あまりの理不尽な展開に、ラクトスの苛立ちはこの場に居ない、ただ一人の人物にぶつけられた。
「こんな時に何やってんだよ、あいつ」
「誰って……えっと」
逆にそう問われ、初めてフリッツはしまったと思った。
囚われの身であるはずの自分が、塔を抜け出し地下通路をうろうろしているのを見られてはまずかった。そもそも目の前に居るこの人物が漆黒竜団である可能性だってある。
しかし、そうは思えなかった。だからフリッツは迷わず声をかけてしまったのだ。
年の頃は自分よりも少し下だろうか。線が細く、面立ちも幼さがあるように思う。印象的なのは床まで届くほどの長い髪だ。明るい色と思われる豊かな髪が滝のように流れている。その長い髪が顔にもかかり、顔や目は垣間見える程度だった。もう長い間、髪を切らせてもらえていないのだろうか。漆黒竜団の団員たちがつけている黒い腕輪は、無い。
どう答えようか考えあぐねていると、先に相手が口を開いた。
「キミこそ大丈夫? その姿」
「えっ?」
フリッツがぼやけた頭で逡巡している間に、相手を観察していたのは向こうも同じだった。改めて松明に照らされた自分の姿を見ると、服の袖やズボンは何か所も裂け、腕は擦り傷だらけの土埃まみれ。そこに落下の痛みと匍匐前進の疲労とが加わり、フリッツの身体はだんだんと痛くなった。次第に面にもそれが表れる。
「今言われて、痛いのを思い出したよ……」
フリッツは苦笑し、相手はあっけにとられたようだった。
心配した相手に心配され返すなど、いったいどういう状況だ。大丈夫じゃない人間に大丈夫と尋ねられた気持ちを考えると、恥ずかしくて顔から火が出そうになる。
ふふっ、と小さな声が漏れた。見ると前かがみになり、小さく痙攣している。またもフリッツは心配になったが、それは腹を抱えて笑いをこらえているだけだとわかり、ほっとした。小さな背中は、しばらくその場でふるふると震えている。
「あの……」
声をかけると、相手は目の端に浮かんだ涙を細い指で拭いながら相手が顔を上げた。そんなに面白かっただろうかと訝しんだが、滑稽な自分を見て笑ってくれるのならそれが一番良い。
「ボクはマナ。キミは?」
停滞した空間の中で、その声は暗闇に朗々と響いた。
男の子なんだと思った。どちらにもとれる中性的な容姿と声で、いまいち判別がつかずにいたのだ。声の高さも鑑みて、ミチルと同じくらいの年頃かなと思う。
「ぼくはフリッツ」
「そう、フリッツ。どうしてこんなところに?」
「たまたま床に穴が開いていて、そこから落ちてきちゃったんだけど」
それを聞いて、マナは不思議そうに小首を傾げた。
「床に穴?」
「昔の井戸か何かを埋め立てていたのかなとも思ったけど、多分違う気がする。とにかくこの先の横穴の向こうから来たんだ、塔があってね。マナはどこから来たの? もしかして、きみもここで捕まってる?」
「それじゃあ、キミは捕まってるの?」
フリッツは頭を搔いた。
「……恥ずかしながら。マナは違うの?」
言葉に潜む微妙なニュアンスの違いに、今度はフリッツが首を傾げる。マナは自分の小さい両手に目をやった。
「拘束はされていないけど、ここからは出られない。そういう意味では、ボクも囚われているのかもしれないね」
「そうなんだ……」
最初はこんな暗い場所で泣いていたくらいだ、心細い思いをしていたのだろう。しかしフリッツと同じように、手枷足枷が無いということは、マナもまたある程度の自由を許されているのだろうか。しかしこんな場所にたった一人で幽閉されているとなれば気の毒だった。ついさっきまでは、自分がこの世で一番不幸な気さえしていたのだが。
フリッツは顔を上げた。
「この地下通路、どこかに繋がってる? そこから出られないかな……って、出られるならこんなところに居ないよね」
「繋がってはいるけれど、漆黒竜団の中枢に向かうことになるよ。警備が厳重だ。逃げたいなら、むしろキミの居た塔のほうが荒野へは近い」
「警備かあ。やっぱり強いかなあ……」
得物さえあればどうにかならないかと思ってしまうのが最近のフリッツの悪い癖だ。もちろん全員を倒せるなどとは思っていないが、隙をついてなんとかならないだろうか。
すると、マナは小さな口を開いた。
「キミ丸腰じゃない。どう見たって腕っぷしも強くなさそうだし」
「確かにそうなんだけど。剣さえあれば、ちょっとはどうにかならないかなあと思ったりして」
「剣を使うの?」
「一応ね」
フリッツは肩をすくめて見せた。そんなに自慢できた事ではないが、何度か剣でその場を切り抜けてきた経験はある。フリッツが剣士だったのがそれほど意外だったのか、何か考えている様子だった。
「調達しようか、剣」
「本当!」
思わず大きな声が出てしまい、フリッツは口を押えた。地下通路に声が反響するが、マナはくすりと微笑んだだけだった。
「でも、すぐにってわけにはいかない。少し時間が欲しい」
「もちろん! でも、それってマナが危なくなるんじゃ……」
「ばれないようになんとかやるよ。だから」
「ありがとう!」
思わずフリッツはマナの手を取った。
細く白いマナの手と、日に焼け、ややごつごつしたフリッツの手とが重なる。
感謝の意を目を見て伝えたかったが、マナの方からふいと顔をそらしてしまう。手とはいえ、突然身体に触れるだなんて気を悪くさせてしまっただろうかと不安に思った。
マナは松明から少し離れると、言った。
「もう戻らなきゃ。……明日の、この時間。可能なら、またここに来て」
次の約束。それが拒絶であるはずがなかった。
「わかった。また、明日。ここで会おう」
マナとの出会いは、先行きの見えなかったフリッツにとっての希望だった。
フリッツは、ここしばらくぶりに笑顔を思い出した。




