第七話 (※)
ここはどこだろう。そう、荒野だ。
冷たく固い地面に、ぽつんと何か無造作に落ちている。生き物の死骸だろうか。こんなところにあっては朽ちてゆくのも時間の問題だ。
纏っているボロ布は、かつては衣服であったのだろう。崩れた腕から覗く骨。すでに食われた後かそれとも腐乱か、ごっそりと抉れた腹部。
頭蓋骨にわずかにへばりついている頭皮と髪。その色彩だけが、色のない場所にわざとらしいほど鮮明で。
見覚えのある、鮮やかなピンク色。
不意に風が吹いた。躯はみるみるうちに砂と化し、ざあと風に攫われていく。
わかりやすい悪夢だった。
フリッツは飛び起きた。
寝ていたにも関わらず、呼吸は乱れ、額は汗でびっしょりだった。ここまであからさまにルーウィンを失くす夢を見るのは初めてだ。悪い予兆でないことを願いながら、息を整えていく。
ただの夢だ、どうということはない。
両手で顔を覆い、額にかかる髪を押し上げる。しっかりしなければ。
「ここは……」
思わず呟くと、ほぼ同時に視界にずいっと人影が入り込む。
「おはよ弟くん、気分はどう?」
「ルビアス!」
驚きながら、思わず名前を叫んでしまった。顔が近い。
ルビアスは紅く艶やかな唇を不満そうに曲げた。
「こら、年上の女性を呼び捨てにするんじゃないって言ったでしょ。何度も言わせないの」
どうやら自分は寝かされているらしい。寝台に上がりこんだまま、ルビアスはフリッツの瞼を持ち上げた。胸も近い。ちょっと良い匂いがする。
「うん、白濁無し。目はいいわね、沸騰しなくてよかった。その分じゃ身体も大丈夫そうか。火傷はそのうち治るでしょ」
ルビアスを見て、何か思い出しそうになる。
ディングリップの城。黒く渦巻く空、突然の襲撃。騙され、陥れられ。降り注ぐ矢の雨と。
自分の前に立ちはだかった、黒いマントの大きな背中。
「アーサーは居ないわよ」
目が、探していたのだろうか。返事のタイミングの良さに、フリッツは心を読まれたのかと思った。
ふと、自分を見やる。上半身裸でところどころに包帯が巻かれているが、襲撃の際、矢が刺さった覚えは無い。ではなぜ、自分は手当され寝かされているのか。
そもそも、ここはどこだ。今どういう状況だ。
「あの……ここは……」
言うなりルビアスは眉をひそめ、フリッツではなく、部屋の角のほうへ不機嫌な声を飛ばした。
「ほらぁ、記憶飛んでるじゃない。だから何度もやるなって言ったのに。まったく何回目の説明よ。ちょっとジンノ、聞いてるの?」
フリッツはそこで初めて、部屋の隅にジンノが佇んでいることに気が付く。あまりに静かなので気が付かなかった。
ジンノが視界に入るなり、フリッツは何故か不快な気持ちになった。
そしてカッと頭に血が上った。
何があったか思い出すより先に身体が動いて、寝台から飛び降りる。距離を詰め、ジンノの襟首をあっという間に掴み上げた。勢いに任せて右の拳を振り上げる。
だがそこまで来て、フリッツの動きはピタリと止まった。
長い前髪の間から、黒く気だるげな目が垣間見える。しかしそこには、明らかな殺意が宿っていた。
「何?」
ジンノが小さく吐き捨てると同時に閃光が走り、フリッツの意識は再び遠のいた。
次に目を覚ますと、寝台の横に居たのはシアだった。
「あーあ、また派手にやられたねえ」
ころころとした笑い声が聞こえる。フリッツは寝台の天蓋を見上げたまましばらく呆けていた。頬杖をついたシアが、いたずらっぽく微笑みかける。
「あれだけ何度もやられて、よくまたジンノくんに飛び掛かったね。普通怖くて逃げちゃうと思うけど」
「いや、なんか見たら腹が立って」
なぜシアが居るかわからないが、頭が上手く回らない。首をそちらに向けるだけの気力はなく、ぼうっとしたまま天蓋を見つめていた。
「どうして殴らなかったの?」
「……殴り方、知らないなって」
「なるほど。剣が無きゃ何も出来ないわけかぁ」
シアの無邪気な一言がグサリと胸に突き刺さる。辛辣な言葉で、少しばかり頭の靄が晴れてきた気がした。
左手で掴み上げるまでは良かったが、そこから先の動作がわからない。拳のどこで殴るのが正しいのか。そもそも今まで人を殴ってやろうと思ったことなどそうそう無いのだ。
ナマクラはディングリップ城に捨ててきてしまった。あれはどうしてだったか。
「じゃあ気を取り直してもう一度聞くね。ここはどこ? どういう状況かわかってる?」
「……ここは漆黒竜団本拠地。ディングリップの襲撃のとき、ぼくは攫われてここに居る」
つらつら言いながら、フリッツはだんだん情けなくなってきた。対してシアは上機嫌でうんうんと頷いている。
「正解! 頭しっかりしてるね、よしよし。あんまりジンノくんが何度も電撃流すから馬鹿になっちゃったかと思ったよー」
身体を横たえたまま、フリッツは再び両手で顔を覆った。
思い出した。最悪だ。
フリッツはもう一度気を失ってしまいたくなった。
荒野中央に存在する、漆黒竜団本拠地。
ディングリップ城の襲撃に巻き込まれたフリッツは、何故かアーサーと共に漆黒竜に回収され、今に至る。
なぜだ。どうしてこんなことになるんだ。
ただでさえルーウィンが大変なのに。それなのに、どうしてこのタイミングで、自分が。
考えれば考えるほど無駄だった。腹が立つだけだし、原因を求めても何も変わらない。それは冷静さを欠いているフリッツにもわかった。だがやはりこうなってしまったことに腹が立つ。
あの日フリッツを連行した皇帝に腹が立つし、原因となったアーサーにも腹が立つし、自分が目覚めるたびに癪に障るという理由で何度も何度も電撃を食らわせ気を失わせたジンノにとにかく腹が立った。腹が立つことばかりで腸が煮えくり返る前に頭がどうにかなってしまいそうだ。
そして自分が寝かされているここは、どうやらルビアスとシアの部屋らしい。
「最初はアーサーとジンノの部屋に寝かせてたんだよ? でもジンノくんがすぐちょっかい出して、あんまり目に余るからわたしたちの部屋に移したの。あ、でも次からはソファで寝てね」
電撃を浴びせることは、ちょっかい出すという範囲に収まるものなのだろうか。だがそれをシアに言ったところで仕方がない。
「あの、身体は大丈夫なんで、その……もう帰っても?」
「それはダメですー。アーサーの許可が出てない。わたしたちはアーサーの部下だから、弟くんを解放する権限がありません」
フリッツは心の中で舌打ちした。やはり駄目か。最初から大して期待はしていなかったが。
「拘束しないの?」
「えっ! やだ、して欲しかった?」
「いや、そうじゃなくて……」
「だって弟くん、丸腰だし。素手で人も殴れないような感じだし」
フリッツは肩を落とした。シアは笑顔で痛いところを突いてくる。悪気は無いのか、いやあるのだろうか。
「それともなぁに? わたしたちに悪いことする予定でもあるの?」
他意は無い。無いのだが、シアは飛び抜けて美少女だった。
サラサラと流れる金髪にぱっちりとした碧い瞳、人形か砂糖菓子のような佇まいの少女が寝台の横に控え、無邪気に笑いかけてくるこの状況。
その時、不思議な音が響いた。
「やだミケったら! もう、さっきのおやつのせいね?」
シアの肩に乗ったミケが大きなゲップをし、シアは笑いながらその場を手で仰ぐ。フリッツの元にも漂ってきて、思わず鼻をつまんだ。いったいおやつになにを食べればこんな匂いになるのだろう。
シアの肩の上には小さなドラゴンがまるで子猫か何かのようにうずくまっていた。そうだった、この子にはドラゴンがついていたのだったと思い出す。今は大人しくしているが、かなりの悪食であることをフリッツは知っていた。
そこでフリッツはやっと気が付いた。自分は完全に舐められているということに。
いや、むしろこれは好都合だ。自分が人畜無害だと思われているなら、それでいい。 何としてでもここから脱出する。そしてルーウィンを元に戻す。
ミケの背中を愛おしそうに掻いてやるシアを横目に見ながら、フリッツは強く拳を握った。
「無事も確認したことだし、ちょっと用があるからそろそろ行くね。ジンノくんが入ってこないように鍵をかけておくから、安心して寝てていいよ」
シアはそう言って立ち上がり、一旦は扉の向こうに姿を消した。
だがすぐに隙間から顔だけを覗かせる。
「くれぐれも出ていこうなんて変な考えは起こさないように! 弟くん居なくなったら、わたしたちアーサーに怒られちゃうんだから」
念押しのようににこっと笑って手を振ると、シアは静かに扉を閉めた。次いでガチャガチャと鍵をかける音。
遠のいていく軽やかな足音を聞き、気配がなくなると、フリッツは寝台から起き上がった。身体のだるさと多少の痛み、火傷はあるが動けないことはない。肩を大きく回し身体をほぐす。いったいどれぐらい寝ていたのだろう。
見張りはいない。手足は自由だ。脱出する余地ならある。
部屋を見回すと、やはりルビアスとシアの部屋であることは間違いなさそうだ。
豪勢な天蓋付きベッドが向かい合わせになっており、真ん中に執務机ではないテーブル、それを囲うようにソファとたくさんのクッションが置かれている。鏡台やマントルピースの上に置かれている、細々かつきらきらした小物やアクセサリー。調度も猫足だったり、丸みを帯びたり装飾を凝らしたものばかり。どこからどう見ても明らかに女性の住まいだ。漆黒竜団の中でも、この空間はかなり異質な場所だと思われる。
まずはこの部屋を抜け出し、本拠地から、そして荒野を渡りきる術を見つけなければならない。
部屋の扉には鍵。
だが、大きく設けられた窓には格子がない。
試しに開けてみると強い風が吹いた。乾いた荒野の風が強烈に吹き込み、あっという間に窓を押し開け、カーテンを揺さぶり机上の本をバラバラとめくっていく。慌てて窓を閉め、フリッツは息をついた。そして窓ガラス越しに、改めて下を覗く。
今度は窓に手をかけたまま、風が入ってしまわないようゆっくりと。そしてその隙間から、恐る恐る顔を出した。
地面が遠い。とてもとても高い。
一体何階部分に居るのか見当もつかなかった。せいぜい二階か三階くらいだと思っていたので、この高さは予想外だ。だからあんなに強い風が入ってきたのだ。
上から窓の石枠を数える。重なって見えにくいが、六つあるように思う。となればここは七階部分。そして建物の塔部分に当たるのだと気が付いた。この荒野のど真ん中に、どうしてこんなに高く堅牢な建物が造れたのだろう。
「こんな高さ、どうしたら……」
窓から建物を伝って脱出するという、フリッツの浅はかな目論見は崩れ去った。




